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[旧佐賀市][ 橋・井樋等]は123件登録されています。
旧佐賀市 橋・井樋等
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人築(一月)井樋
嘉瀬の水の要所 ワラで人柱をつくり、徳善院で祈祷したところ、壊れなくなった。
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昔の嘉瀬橋の急勾配
液体燃料が軍部中心になり、一般生活から姿を消した。バスにもその影響は現れ、車体の後に大きな蒸気発生器を装着し、木材を燃やしたり、木炭をくべたりして走っていた。勿論、力が弱く、スピードもダウン。嘉瀬橋が木造りで、橋への道が急勾配で、今の2倍位はあった。バスに乗っているお客さんに、バスの車掌さんが「バスが坂を登りきれません。お客さん降りて下さい」。下車した客は、バスの後押しをしてやっと登りきった。客で文句を言う人はなく、手の汚れを叩き、ふたたび乗客になる。また、人が引っぱる車力に荷を沢山積んでいる人は、この嘉瀬橋は登りきらん。その時、出番と後押しをし、手間賃とって稼いでいた人もいた。これらのことは終戦前までのことである。今は、嘉瀬川の川幅も倍以上になり、橋の長さもずっと伸び、鉄橋化され、難渋した時の面影はなくなった。
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嘉瀬川鉄橋
最初の鉄橋は明治28年5月5日に竣工。その後昭和38年3月に架け替えられた。昭和41年6月複線化に伴い、上り線用に新しい鉄橋(長さ253m)を架設し、従来の鉄橋(249m)を下り線用とした。昭和51年7月1日に全線が電化されて現在に至っている。
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嘉瀬橋
古くは元禄4年(1691)のケンペルの参府紀行に150歩の橋があったとの記録があるが、その後水害などにより流失したため何回となく架け替えられて今日に至っている。現在の橋は嘉瀬川改修事業に伴い旧嘉瀬橋より北約50mに移動架設され、昭和38年2月に竣工したものである。
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久保田橋
嘉瀬町新町と久保田町久富との間に架かる橋。国道444号線が新設されるに当たって新しく架けられた橋で昭和45年3月に竣工した。
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久保田橋側道橋
久保田橋の完成後、歩行者、自転車利用者のために久保田 橋のすぐ南に隣接して架けられた橋で、昭和59年3月に新設竣工した。
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築地橋
本庄江上流の新川を跨ぎ、嘉瀬町扇町と鍋島町江頭を結ぶ橋。昭和56年12月に竣工した。
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深町橋
嘉瀬町扇町と鍋島町深町を結ぶ橋。平成4年12月に 竣工し た。
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平成橋
嘉瀬町扇町と鍋島町八戸を結ぶ橋。平成元年10月に竣工した。
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高橋
平成橋の南80mに架かる橋。歩行者専用になっている。西の袂に、長崎・小倉への石の道標がある。 木造で旧長崎街道の面影を残すため、地元の人の努力で出来上がったもの。 大名行列や奉行行列が渡った橋で、江川は船の出入りが盛んで賑やかな船着き場であった。 昭和時代まで精霊流しや花火打ち上げなどがっていた。橋の近くの家には、馬の手綱をつなぐ環の金具が残っている。
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新高橋
高橋の南100mに架かる橋。現在の橋は平成元年10月に改修架設された。
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今重橋
嘉瀬町有重と西與賀町今津の間に架かる橋。昭和61年11月に竣工した。
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御船小屋橋
嘉瀬町新町と西與賀町今津の間に架かる橋。平成3年3月に竣工した。
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本庄江橋
国道444号線の新設に伴って、昭和39年3月嘉瀬町新町と西与賀町丸目との間に新設竣工した。
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本庄江橋側道橋
本庄江橋の完成後、歩行者、自転車利用者のために、本庄江橋のすぐ南に隣接して架設された橋で、昭和59年12月に新設竣工した。
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鎮台橋
佐賀戦争の官軍退却の際、この橋付近で激戦が行われたと伝えられる。当時拾い集めた薬莢は民家に多数保存されていたと言う。そのためこの橋は鎮台橋と言われている。
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善左衛門橋
善左衛門橋は、宇野善左衛門が自費で石橋架け替えを願い出、1764年(明和元年)に竣工させました。善左衛門はもと鹿島鍋島藩に仕えていましたが、土木業に長じていたため、本藩に請われて佐賀に来ました。藩主重茂(しげもち)のとき、嘉瀬橋の架設を命じられて、これを完了し、藩主から15人扶持の俸禄(ほうろく)をもらいました。 橋は、明治33年に一部補修されましたが、橋脚は江戸時代のものだといわれています。
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新旧ふたつの高橋
「高橋」とは、本庄江を航行する船の帆柱や船頭の竿の支障にならないように、橋桁を高く持ち上げた所から付いたといわれています。 高橋は、新旧二つ平行に架けられています。新高橋は現国道207号線に、旧高橋は、30m北にあり架設は慶長年間、佐賀城下町建設の時に架設され、この近くに番所が設けられたと考えられます。 扇町の街道から旧高橋にさしかかる鍵型の辻路は、嘉瀬方面から押し寄せる敵勢を本庄江で食い止めるために構築されたと伝えられています。
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思案橋
当時、材木町は武家屋敷諸用達を務める商家町で、昔の唄に『思案橋の名物は、蔦屋の一粒金、釜屋のビンツケ、野中烏犀圓現金掛け値なし』とか歌われていたようである。蔦屋では一粒金の他にも文房具.紙.うるし.金箔などを売り、釜屋(西村油屋)ではビンツケ(日本髪を結うときに使うもの)の他ろうそく.元結い油を売り、松永呉服店や野中烏犀圓等町民の生活物資を売る店で賑わっていた。当時のことばに『こげこげ舟端近い、いえいえ思案橋近かし、びんつけモテエ(元結)は安し』とはやったといわれているが、これは、『舟をこげこげ。材木、紺屋、今宿の舟つき場は近いよ。思案橋には、ビンツケ、元結が、安くてたくさんあるから、髪を結って、おしゃれができるよ。』との意味でこの周辺は、長崎街道筋ではあるし、多くの商家が立ち並び、また今宿に出入りする船のりの人達が遊んだり、佐賀名物などの買い物をするなど大変な賑わいを見せていたようである。思案橋と名前が付いたのは一説によれば、明治の終わり頃まで、この橋の側まで舟がきていたので、『ここから遊郭は近いのでさてさて行こか、帰えろうかと』この橋のそばで迷い思案(考える)したのでとの話もある。昭和18年8月戦時下で統制経済が厳しくなっていく中で、思案橋のうどんとして有名だった『うどんの橋口屋』が200年の歴史の幕を閉じることで当時の新聞に綿々とその昔を偲び廃業を惜しむ声が次の通り大きく報道された。『軒のひさしが、ほのかな陰影をそっと窓辺に落としている。昔造りの建築情緒・今は過ぎし日の華やかな1頁を語る、その名も床し思案橋のうどんの橋口屋が……の書き出し『思えばちょんまげ時代の昔から今日まで200余年の長い間、佐賀市民はもちろんのこと、近郷近在の人達にまで馴染まれていたうどん屋だけに、その廃業はわけて感慨無量のものがある』と惜しんでいる。また、この橋の側で酒造業を営み『佐賀馬鉄』を誘致したり、その当時、佐賀市の財界人として有名な伊丹家の伊丹彦次郎、田上源太郎、福田慶四郎、中野五郎氏等とともに会社創立委員として活躍するなどしていた、当時飛ぶ鳥も落とすといわれた牛島町思案橋の、美目秀麗の青年実業家『下村辰右衛門』として有名であったようである。後に多額納税貴族院議員を勤めたが、循誘校区から国会議員に出られたのは、これが始めてであり今日までその後は国会議員は出ていない。あの『次郎物語』の作者で有名な下村湖人の養父ともいわれている。
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晒橋
元呉服町と蓮池町の境で『錦通り』とも一時呼んでいたところで、光明寺の前にある橋がいわゆる『晒橋』である。この橋は、大財町副島病院南の大財橋より少し西より、願正寺の東を南に流れて、愛宕神社東を通り、晒橋から裏十間川に入る『呉服町水路』に架かる橋で、橋の欄干には往時を偲ぶガス灯が設置され復元されたのである。現在の橋になる(昭和の初期)前は、松原神社の石橋を小さくしたような形の石の太鼓橋であった。現在の橋に架け替えられた時に、県内で初めてアスファルト舗装道となって、市営バス(マイクロ)がとおった。また、橋の北側には「たなじ」があって、小さな川舟がつくこともあったし、その側に人力車の立場があった。(龍ヶ江弘誓氏談)この橋の由来は、昔ここのところに罪人を縛り、罪状を記した木札を吊し、この橋を通る人達に見せしめのため終日晒したことによると云う説と、この横の50m位上流で窓の梅の東が、かつて今宿からの最終船着き場となっていたことから、この川で布を晒したとの一説もあるが、南北の呉服町水路は『真宗堀』とも呼ばれる人工堀のため後者の説は薄いようである。このような罪人の晒場所は、ここのほか唐人町の土橋や本庄町井樋の上辺にあったらしく、また、この通りは昔構口から佐賀城下を通る長崎街道筋に当たり、この橋の西北に『本陣』の屋敷跡があった。『本陣』の屋敷があったすぐ側であるため、打ち首の晒し場所であったとは考えられないようで、今の軽犯罪者の晒しであったようである。かつてこの町は蓮池町と呼ばれていたが、その後千代町に変わり、現在ではこの橋の西側を呉服元町に、東を柳町に町名が改正され昔より有名だった蓮池町の名前は完全に消えていった。この蓮池町一帯は昔々数軒の算盤屋があって繁盛し、遠く関西方面にも取引きがあったということである。この橋から上流400m位の川を『新堀』とか『真宗堀』とかで呼ばれて、また、愛宕神社東の通りの路地を『新堀端』ともいわれ、佐賀藩と願正寺との深い関わりのあるところでもある。また、橋の側の光明寺第12代住職龍ケ江良俊師は、あの佐賀で有名な唄の『梅干し』の作詞者である。
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呉服橋
勧興小学校南から循誘校区に入る最初の橋で、すぐ近くには『大財聖堂』に因んだ聖堂橋がある。この橋は戦後呉服町角のロイヤルレストランから交通局東側を通る道路が戦後建設されたときに架けられた。 佐嘉藩主鍋島光茂は、元禄4年(1691年)城内に『鬼丸聖堂』を、武富廉斎が元禄7年(1694年)大財町六反田に敷地約1.400坪に『大財聖堂』を建てた。元禄時代から幕末までの間約170年余り学問を広めた。現在は、聖堂跡に、石造の記念碑が建っている。
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大財橋
大財本通の副島病院や、元山崎石油店の南に架かる橋である。この十間堀川を境にして、南は旧佐賀市、北はかつての神野村とに分かれていた。 大正11年に佐賀市と神野村が合併したものである。
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清心橋
十間堀川は、循誘小学校の北を経て清心院の南をとおり二次井樋に至るが、清心橋は、川のすぐ北側にある清心院に因んで橋の名前とした。なお、清心院には佐賀市文化財指定の『不動明王』の木彫像がある。
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欄干橋
松原神社の東側に『欄干茶屋』があり、藩主の休息所となっていた。また、幕府の使節などと面接する際の迎賓館としていた。光明寺の北に『本陣』があり茶屋との連絡も便利であった。この欄干茶屋に因んだ橋である。橋の北に佐賀銀行呉服町支店があった。かつては佐賀中央銀行本店で、県内2大銀行の佐賀興業銀行と昭和30年7月両銀行が合併して、佐賀銀行が創立された。
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明治橋
馬鉄の開通式が明治37年2月28日、この明治橋の始発駅で盛大に式典が行われ、大隈重信候も出席したといわれている。 また、現在の福島薬局のところには西肥銀行があった。昭和3年佐賀百六銀行と合併した。
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成就院橋
現在の八坂神社南裏十間川に架かる橋である。承応3年(1654)の絵図には橋が記載されている。昔は橋の西北に成就院と、盲僧成就院の屋敷があって、一かどの修行場だったが明治維新のとき衰滅した。
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常喜橋
循誘小学校の校門から南に突き当たりにある橋で、明治22年の『市制施行当時之佐賀市街図』にはすでに記載がある。
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旭橋
常喜橋のすぐ側の裏十間川が南に曲がるところにあって、明治22年の『市制施行当時之佐賀市街図』には、旭橋はないので、牛島町から思案橋等の方面に新道路を建設したときに架橋したものと思われる。
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劇場橋
佐賀劇場は、与賀町の喜楽座と共に佐賀市民の娯楽の中心施設として長く市民に愛され親しまれた。この建物は、福岡で開催された九州八県連合大博覧会の会場施設を大正5年頃移設整備したものであって、始めは改良座と呼んでいた。昭和元年に佐賀劇場と改められた。時代の推移とともに映画館に娯楽が変わり昭和41年に長い歴史の幕を閉じた。
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一の橋
承応3年(1654)「佐賀城廻之絵図」によると裏十間川の材木町の最北部に架けられた一番目の橋で、佐賀江までの幾多の橋のなかでも大切な橋のようであった。 この橋の近くに、佐賀から久留米まで軌道を敷設する会社の『肥筑軌道』の創立事務所が設けられていた。全線開通に至らず、大正12年(1923)巨勢の高尾から千代田町の崎村まで、約10年近く運転されていた。しかし、昭和9年(1934)8月運転を休止し、やがて廃止された。