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[旧佐賀市][ 遺跡]は12件登録されています。
旧佐賀市 遺跡
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金宝山一乗院観音寺遺跡
金刀比羅山の南麓の階段式畑地を成しているのが其の跡である。寺跡の畑地と山との境界に当山10世の住職権僧正真舜の石像(坐像)を果せた石塔が遺っている。真舜は江戸一乗院14世当山中興の祖であり、金刀比羅神社の鳥居並に石段はこの時代に修築されたものである。 寺跡を語るものとしては寺跡の南下より東にかけて寺の馬場と呼ばれる地名が残っている。これは昔の名残である。更に大門の地名は昔は此地は熊山と呼ばれていたが当寺が隆昌となり、宏大な山門が構えらるに到って土地の人は大門のあたりだとか、大門のあたりに行くなどと常用せられ何時とはなく熊山の名は失せて地区の名が大門と化し、名づけられて今日に到ったものである。(寺院の建立以前は金刀比羅山も熊山で附近の地区は熊山であった。筆者の幼少の頃は大門の上部の方は熊山と呼ばれていたし、神社の高張提灯や消防組の名は熊山と銘を打っていた時代があった)熊山は元々隈山であったらしい。 当山の沿革 当寺は日峯様泰盛様の時代御開基慶舜宝光院宝林院元忠寺住職之内元和中高麗御山陣之節□元忠寺千座万之護摩其外被仰付、山林等五拾町余御寄附被成下僧正地に御取立被下寛永九年に住職仕同十一年に僧正官相勤功又寛永十五年より島原御出陣に付御祈祷被仰付候末御差控御座候砌弟子寛了房円義天海大僧随身の砌にて慶舜と申含天海僧正迄相煩被申侯由、天海公儀之御執成有之首尾能相済み候上同十七年東叡山御参詣被遊旨にて一乗院慶舜え開基被仰付候東叡山一乗院と号候 開基 僧正 慶舜(寛永元年5月) 二世 昌舜(〃18年5月) 三世 忠舜(寛文11年) 四世 (栄舜)舜栄(延宝5年3月) 五世 宗舜(宝永5年9月) 六世 垣舜(享保15年5月) 七世 権僧正 真舜(延享2年) 八世 範舜(天明5年9月) 以上の記録があるが其の後記録は当神社には見当たらない。 鍋島家の内庫所書蔵の書類に或は保存されているやも知れない。 兎に角鍋島家代々の祈願所として崇拝せられて廃藩から神仏分離となり廃寺となった。
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金立町内の遺跡分布
金立町内には、すでに発掘、調査等で判明しているだけでも20個所に及ぶ古墳群や、遺跡が存在している。知られているもの、知られていないものを、次に一覧してみると 1 西隈古墳 2 権現原遺跡 3 銚子塚古墳 4 三郎山遺跡 5 長尾遺跡 6 大門西遺跡 7 北山遺跡 8 大門遺跡 9 小坪山古墳群 10 六本黒木遺跡 11 乱斗山古墳群 12 大門古墳群 13 黒土原古墳群 14 来迎寺遺跡 15 三本黒木古墳群 16 三本黒木窯跡 17 久保泉丸山遺跡移設地 18 金立開拓遺跡 19 金立開拓かめ棺遺跡 20 五本黒木丸山古墳 この外に、金立町内には無数の古墳や遺跡が存在しているが、その全ぼうは明らかではない。
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大門遺跡
字大門にある、金立山のふもとで、標高60m前後の低い丘陵地にある複合遺跡である。 金立川、巨勢川、上流の小川を挟み、西方には大門西遺跡がある。昭和47年に2次にわたる調査が行われ、縄紋時代前期・(曽畑式)。後晩期の土器・石器・土製品、弥生時代のかめ棺墓や時期および性格不明の配石遺構が検出された。縄紋時代の遺構は、かめ棺墓によって破壊され、石斧・石錐・石さじ・十字形石製品・石錘・磨石などが出土している。 深鉢形土器2個が4mほど隔たって埋置されていたが、これは、かめ棺として使用された可能性もあると考えられている。 弥生時代のかめ棺基(16基)は、中期前半から中ごろにかけてのもので、いずれも水平に埋置され、副装品をもつかめ棺はない。 15基のかめ棺から、人骨が発見されている。
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大門西遺跡
金立町字十一本杉あたりにある遺跡 金立山ろくから佐賀平野へ向って延びた舌状丘陵の基部・標高40mにあり、弥生時代前期末の集落跡と古墳16基からなる複合遺跡である。 縄文時代各時期の土器片が出土している。 遺構としては晩期のかめ棺墓と土境など各1基がある。 弥生時代の遺構は、前期末のもので、竪穴式住居あと4棟、貯蔵穴27基、その他の竪穴2基がみつかっている。 住居あとの平面形はいずれも円形で、直径3〜5mの小規模のものである。床面には炉あとや排水溝などはない。 柱穴の配列は、かべぎわに5〜7か所円形に配置されたもの4つを方形に配置するものなどがあった。 古墳16基のうち5世紀代の石棺系石室3基、竪穴式石室2基と6世紀未から7世紀前半に築造された横穴式石室7基に大別される。 横穴式石室古墳からは、須恵器の量が豊富で、馬具・鉄器・装身具額・土師器などが出土している。
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万部島
万部島は昔は川に囲まれた島であった。 龍造寺家兼(剛忠)が水ヶ江城内で法華経一万部を修業、読誦した経文を書写して城の東北の鬼門(陰陽道で悪魔が出るという北東の方向)に奉納した。(読経納経)この地が万部島である。家兼(剛忠)は「我が子孫、秀いずる者あらねば則ち下民を撫育し、慈悲垂れて家臣を憐れみ、人道を勤めておこたる勿れ」といい貯えていた財宝をことごとく貧民に施し、領民が借用していた銀米類一切を棄損(慈善・公益・救済などのための寄付・ほどこし)したという。 鍋島勝茂(初代藩主)より直大(11代)に至るまで萬禱石塔の記念碑が11基建立されている。 祈禱石碑 形式−台石、蓮華代、棹石(上部三角) 同一形式状寸法 第1基 松平肥前守藤原朝臣勝茂 第2基 大守従四位肥前侍従松平丹後守藤原光茂 同嫡男 第3基〜第11基(国家安泰、万民安楽祈念) 国家安泰・万民安楽を祈願するならわしは各藩で行われたが、佐賀では、鍋島氏以前、龍造寺家兼が永正2年(1505)3月、天亨和尚を導師として、野田石見が奉行となって領内の僧300人を集め執行したのが最初である。天亨和尚は剛忠の弟で水上山万寿寺の僧。また乾亨院の開山である。万部祈願塔をかまえたことは、天災地変によりこうむる年毎の災害が、最小限度に済むように、国家安全にして連続万代におよぶように、藩主一族、領民のすべてが安らかにして諸願円満に成就するようにと、大法要を営み、仁政のほどをしめしたことを裏書きするものである。
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南濠周辺の史跡
南濠に面する中の館町は龍造寺氏の水ヶ江城のあった場所で、龍造寺隆信の生誕地を示す大きな記念碑がある。その東側にある乾亨院には、明治7年佐賀戦争で戦死した政府軍の官軍墓地がある。豪壮な大理石の3基の墓石が目をひく、同じ境内には官軍と戦った征韓党の指導者朝倉弾蔵の墓もある。 中の館町の西隣鬼丸町に明治の元勲副島種臣の生誕地があり、記念碑が建てられている。記念碑前の濠岸には佐賀城濠の石積みの模型がつくられており、赤石といわれる凝灰岩が用いられたことがわかる。
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西濠端周辺史跡
この一帯は龍造寺氏時代の村中城のあったところである。老楠が茂り、城内側の若楠会館の西側には楠を献身的に守った楠おばさん故福田ヨシさんの記念碑がある。西濠端に面してはイギリス宣教師が住んでいた、数少ない明治の洋風建築の中元寺家がみられる。その近くの小路の奥には大隈重信の墓地がある龍泰寺がある。この寺は龍造寺隆信が建立した曹洞宗寺院、寺号は龍造寺安泰から山号を平安山と称している。現在の本堂は佐賀城本丸屋敷を解して改築したものである。
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石井樋
元和元年(1615)大阪夏の陣を終え、天下平穏になってから、成富兵庫は藩主勝茂に献策して、領内の耕地開発と土木水利に専念し、千栗堤防築造、田手川(蛤水道)、城原川(横落水路)の開発、巨勢野の開拓、伊万里の塩田造成など、いずれも目をみはる様な立派な工事であるが、石井樋の構築は現代科学技術からみてもまことに合理的妙法と称えられている。用地内に「成富君水功之碑」がある。碑の題字は副島種臣の書で毎年9月18日に例祭が施行されている。
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丸山遺跡
丸山遺跡は金立山南麓より平野部に突出した丘陵上にあり調査前は雑木林であった。当地周辺は戦後蜜柑園として造成された為、多くの古墳が何らかの破壊をうけていたのに較べ、幸にも旧来の姿を残していた。 調査は昭和52年1月から昭和57年10月まで断続的に実施され、縄文時代晩期〜弥生時代前期(約2200〜2400年前)の墓と5・6世紀の古墳群などが発見された。 縄文時代のものには甕棺(3基)、支石基(130余基)、石棺(3基)があり、遺構の内部及びその周辺から、水稲耕作を裏付ける籾痕のある土器や石器等多数出土した。 古墳は10基あり、そのすべてが径4〜14mの円墳であるが、内部主体には竪穴式石室、横穴式石室、舟形石棺などがあり変化に富む。古墳からの出土遺物としては土器をはじめとして、鉄製品(剣・刀子・鏇・鉾・釧・斧・鏃等)や石製品(小玉・管玉・勾玉・琴柱形石製品)がある。 このように丸山遺跡では墳墓形式や出土品に多種多様なものがあり、極めて学問的に高い価値をもつ複合遺跡ということができる。 丸山遺跡は九州横断自動車道の建設予定地内に存在していたので、その保存に関して論議を呼んでいたが遺跡の西方約500mに移転されることになり、野外博物館的施設として活用されることになった。 昭和58年2月22日には、舟形石棺を形どったタイムカプセルが公募の品を入れて、3号墳内に納められた。
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西原古墳群
脊振山系の南麓に続く西原の低丘陵地で松林の中に古墳群が点在している。ほとんどが円墳の横穴式石室で開口され、いずれも巨石を用いている。 この古墳群は6世紀後半から7世紀にかけて築成されたものと推定され、この濃密に分布する古墳群は広大な農地に恵まれたこの地方に、当時家族集団を基礎とする農耕集落が相当発達していたことを物語るものである。
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古村周辺遺跡(ふるむらしゅうへんいせき)
下六の古村一帯には、中世遺跡が多い。 中世とは、平家が滅んだ1185年から、鎌倉・南北朝・戦国の時代を経て、関ケ原の戦いの1600年までをいう。 10世紀初頭には、各地に荘園といって貴族・社寺の私的領有地ができ、春日・松梅・金立・久保泉・西郷は、安富庄として後白河法皇が建立された長講堂の御領であった。ところが、鎌倉幕府の守護地頭配置によって武家に侵略され、南北朝動乱の後は庄園は廃れ、小地頭を勝手に名乗る小豪族や家人(下向武士)により新田が開発され、そこに居館や砦を構え、周囲を濠で囲んだ。 古村の縦横の濠は、右図に示すように中世の屋敷遺構である。下一の本村や村徳永周辺にも、これに似た濠跡があり、当時日常生活に使われた土師器やカワラケの破片が見当る。 この集落内にもエンシュー寺という寺屋敷があり、東の方には玉泉坊・ギチョー坊・デンソウ庵・神仏混こうの白鬚社・八幡社といった寺社が多く、也足庵のみが現存する。また、大刀屋敷・大刀堀(立掘、館堀)の地名もあり、砂鉄塊がある由、古刀の製作が為されていたともいう。 この集落の北から東へかけて「古陣」といい、字名を矢の助という。その一画に100m×200mの長方形の林を囲む濠がある。 内側は山林になっているが、三重の土塁(土屯)を以て築かれた砦がある。土地の人は「スーフクジ」という。崇福寺なのか、文献には見当らないし、山林なので内部遺構も今の処わからない。 戦国末期、神代長良が騙し討ちされた東千布商の土生島青土城の構築に類似しているので、中世末の平地砦・館跡と想定する。
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支石墓
金泉中学校の南、150mあたりは昭和25年頃まで桑畑や野菜畑であったが、段下げをして水田になすとき、かめ棺群が見付かった。 ここのかめ棺は、木蓋や石蓋をした単かめと、進化した合口かめ棺が多く、僅かに傾斜して埋葬した弥生中期のもの。 平成2〜3年に行なわれた圃場整備現地調査で、少し離れた所から弥生中・後期の竪穴住居跡やその後の掘立柱建物跡が確認され、この地の農耕集落が分かった。 その西北、運動場の南50m水田の中に昭和29年まで、大きな扁平石があった。これが脊振山系南麓で初めて発見された『支石墓』である。 支石墓は中国・朝鮮に多い巨石ドルメン系墓で、わが国では弥生時代に玄海沿岸に発達した。墓の内部は土こう又はかめ棺墓の埋葬施設で、これが壊れないように数箇の石で支え、扁平巨石を蓋とした。だから一見して、支石墓とわかる。 この石の取扱いには、慎重を期するようにお願いしていたが、適当な忠魂碑竿石が無かったので、これを搬出した。そのとき内部主体を故意に砕き、何も無かったことにして、村徳永共同墓地の中央、せんだんの木の根元に埋めたとのこと。 当時の人の話を総合すれば、1組の合せ口かめ棺と推定される。 昭和29年春のことである。久保泉小学校・校庭西の忠魂碑がそれ。 この石は「ううひと=超巨大人」が金立山に腰掛け、力試しに2つの石を投げた。東の石が村徳永、もう1つが尼寺南小路。(昭和49年発見) そのときの左足が町分西屋形の水田「ううひとの足跡」だと。うう人でなく、金立さんだとか、北山正現さんだとも言う。 いずれにしても、この石を移動すると、うう水=洪水が出るとか、ひねった人はううけがをすると伝え、昔からこの石を大切にしていた。 古墳を大切にしようとの、いい説話である。