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[旧佐賀市][ 跡地]は64件登録されています。
旧佐賀市 跡地
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渡し場
徳善院が鍋島家の祈願院であったため、参詣者は西今宿の渡しを利用し、本庄江を渡り寺院に参詣していた。 江を渡って、徳善院まで灯明台が並び建っていたと、近所の人から説明を受ける。 西今宿の渡し場は、干潮時に川底の潟泥が現れた。両岸につくられた石畳の間に船を横にして人は通ったと。 本庄江には、今津の渡しや丸目の渡しがあった。嘉瀬川には、久保田町の酒屋から新町にかけて、渡し場があった。ここは、干潮時には、両岸から渡し船を出し、連結され、その上を通っていた。昭和45年(1970年)久保田橋の完成まで渡し場はあった。 本庄江、西今宿(有重)の渡し場灯明台は、一基だけ残り、昔を偲ばせてくれる。
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今津渡し場跡
有重(津端)と今津とを結ぶ渡舟場で、嘗つて、瓦の製造所、海産物の加工所、石灰製造所、魚市場などがあった。 芦が生い茂っているがアラコは往事のまま残っていると思われる。
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厘外渡し場跡
有重(徳善)と厘外とを結ぶ渡舟場で、厘外には荷揚場や倉庫、貨物の集積場があり、有重(徳善)には瓦製造所が5軒あった。
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今津渡船場所
江戸時代の末頃から船は本庄江を自由に上下して、高橋・厘外津・今津・相応津は河港として栄えた。中でも今津は早くから開けた商人の町として、銀行・郵便局・小学校分校などが建った。渡船場は、右岸の有重と左岸の今津は高橋をまわって用を達するという不便を感じていたので設けられた。潮が満ちるとだんべい船に人と荷車をのせて岸に着け、潮が引いた後は船を固定して、船から両岸にみち板をのせて常時通していた。昭和38年に本庄江改修工事と同時に今重橋が架橋され今津渡船場が廃止された。
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御舟小屋の跡
本庄江岸の今津下より南へ約200mの所に位置している。佐賀藩第10代藩主鍋島直正(なおまさ)の構築したもので、現在野中蒲鉾店の裏、堤防の下江湖端の約7反有余の水田が繋船地の跡であるが、今はそれらしき遺構をみることができない。ここに浅行とする46挺櫓立の大船をはじめ数多くの船が停泊し長崎警備に赴く佐賀藩士の用に備えていた。鍋島直正(閑叟公)が有明海に狩遊に出られる時にもこの地から乗船されたものである。 明治初年には蒸気機関を備えた日進艦も停泊していた。この日進艦は明治2年オランダにて進水し翌年の3月に長崎に着いた佐賀海軍の精鋭で、3本マストに1本煙突で全長200尺(約60m)であった。重量は1.300トンを有し、アームストロング前装旋回、砲10門の大砲を備えたものであった。明治3年の5月船将・真木安左衛門以下乗船員と共に政府へ献艦され、帝国軍艦として佐世保港へ繋留されて明治30年頃まで新兵練習艦になっている。 繋船場であったため堤防内側の約1反の地に船具の倉庫を建て、また藩士の詰所があり侍数名が監督のため駐在していたといわれている。この御舟小屋のため今津方面は御用船手を勤める者が多く雇われていた。 御舟小屋跡の建物は昭和初年頃まであったが近年取り壊されその跡には標柱が建てられている。
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江藤新平乗船の地
江藤新平が明治7年の佐賀戦争に敗れ鹿児島に逃れようと乗船したのがこの地である。 江藤新平と本村との関係は、その青年時代厳父に伴われ西田代本行寺小路から丸目村に引越し、寺子屋を開いて父の教育を補佐したことがある。今日寺子屋の跡はみられずその後に百崎宅が建てられている。 このようなことから本村の地理に通じていて丸目を選んだのであろう。 江藤新平は戦利あらずと見えて山中一郎、香月経五郎、中島鼎蔵、山田平蔵、生田源八と共に相応津に来て先ず本村清方宅で出航の準備をし、飴等簡単な食品を購入して乗船したという。現在この地には標柱が建てられている。
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御番所跡と丸目の渡し場
今津が藩船の繋留場であったことからここに番所がおかれていた。 対岸の嘉瀬新町との間を渡し船が往復し、丸目の渡し場と呼ばれていたが現在は橋が架けられている。ここから下流約50mの所に藩政時代の御番所跡があった。その建物は簡単な詰所であったといわれ、武士が常駐し、銃・槍などの武具を備え日夜船の出入り、そして人馬の往来と警備の任務についていたといわれている。
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大砲発射実験の跡
佐賀藩で大砲製造を始めてからその試射や発射演習が厘外、丸目で行われたといわれている。丸目在住の古老によると村々に響き渡った砲声を聞いた人もいるという。
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本庄江湖の渡し場
本庄江湖には上流の厘外と有重、中程の有重と今津、そして下流の新町と丸目にそれぞれ渡し場が設けられ人々の往来の便を図っていた。 渡す方法として、潮の干潮の時は川の中心に舟を固定し両岸にふみ板を渡して渡す方法、満潮の時は長い竿竹で舟をあやつって渡す方法、梅雨時期の大雨や台風等で川の水位が上昇した時は両岸に太いロープを固定し舟に乗りながらロープを両手で握って渡す方法があった。 丸目のように川幅が広く竿竹では川底に届かない所では櫓をこいで渡していた。 厘外と有重そして今津で長年渡し守りをしてきた大隈氏と江口氏にそれぞれ当時を回想しながら苦労話を聞いてみた。大隈氏によれば、厘外の渡し場は嘉瀬の有重地区と西与賀の厘外地区と4年ごとの交替で、大隈氏は昭和8年から12年まで当番であった。当時の舟賃は大人、こども共2銭で1日の売上は25円から30円程度で夫婦二人がその日暮せる生活費は十分あった。 年間を通じて特に客が多い季節として、徳善院への彼岸参りと高伝寺の春祭りだったという。 苦労話として夜中であろうと潮の干満によって渡し舟を移動させねばならなかったこと、そして大雨により急流のためロープで渡し舟を操作した時、満潮になり下流より砂利運搬船や、石灰、運搬船の通過時における渡し舟の移動等数多くの苦労とたたかって来た。外から見れば簡単な仕事と思われるかわからないが、尊い人命を預っているため、その責任は重大で神経の休む暇もなかったという。 一方有重の江口氏は昭和34年から38年にかけて渡し守りをしていた。当時の舟賃は片道20円で1日の売上は500円程度であったという。年間を通して一番客が多い季節として、有重のお不動さんの祭り、そして彼岸の時、本庄高伝寺の春祭りだったという。 苦労話としては大隈氏と共通していた。 なお丸目の渡し場については当時の人が現存していないため聞きとることができなかった。
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肥筑軌道跡
大正末期、肥筑軌道が集落の中央を通り小松駅が設置された。 高尾から﨑村まで軌道がひかれたが、小鹿・堂地・小松・本町・犬尾等の停車場があり、中地江川や城原川の川底に今もコンクリートの軌道の土台のコンクリートが残っている。 肥筑軌道は、当時真崎鉄工場や田中酒店、兵働、横尾等の知名士が株主となり会社を起こしたものである。
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江藤新平の誕生地
八戸の街道から北へ100mほど入った所に、江藤新平の誕生地があります。 1834年(天保5年)2月9日ここで生まれた江藤新平は、11歳の時に藩校弘道館に入学し、19歳の時には副島種臣の兄、枝吉神陽(えだよししんよう)のもとで学びました。明治新政府の初代司法卿(しほうきょう)となり多くの業績を残しましたが、「佐賀戦争」を起こし敗北、1874年(明治7年)に処刑されました。
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名刀肥前忠吉屋敷跡
慶長(1597年頃)のはじめ、佐賀郡長瀬村の鍛冶職人、忠吉は、藩主直茂に見いだされ京都に上り、刀鍛冶、埋忠明寿に師事、3年の歳月を費やして腕を磨いて帰国し、鍛冶場をつくりました。 当時、六座町より西は町名がなかったので、長瀬村からとって長瀬町と名付けたといわれています。 刀匠忠吉一門は9代まで継承され、見事な肥前刀を生み出しました。その面影を残すものは今は何もありませんが、「刀匠近江屋敷跡」「刀匠河内大掾藤原正広屋敷跡」の石柱が建てられています。
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近江屋敷跡
桃山時代末期の刀匠である肥前忠吉は、龍造寺隆信の家臣橋本道弘の子として生まれ、その系譜は江戸時代に入り幕末に至るまで、いずれも名工の名を残し、数多くの名刀を世に出したことで知られている。 初代武蔵大掾(だいじょう)忠吉のほか、2代近江大掾藤原忠広、3代陸奥守忠吉、8代忠吉等が特に著名である。 忠吉一門は、長瀬町5−41(現在橋本正敏氏宅一帯であり、橋本家は忠吉の子孫である)に屋敷を構えていたが、そのあたり3カ所に石碑が立てられて屋敷跡が表示されている。 近江屋敷の名は2代近江大掾忠広の名からくるものであろう。初代忠吉の墓碑は伊勢町の真覚寺にあり、その他一門の墓碑は八戸1丁目の長安寺にある。
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精煉方跡
佐賀藩主鍋島直正の命により設置された精煉方は、明治維新後、ガラス製造部門が青木熊吉によって引き継がれ、精煉社、精煉合資会社と名前が変わった。 敷地内は、現在も青木家が居住し、昔を忍ぶ人は通称ここを「精煉社」と呼んでいる。そもそも精煉方は、直正の時、産業拡大を目的として設置された理化学研究所であり、その活動はめざましいものであった。ここで蒸気汽鑵、電信機械等が研究され、汽車、蒸気船、電信機等の模型が製作された。模型とはいえ、外形だけでなく、中の方には走れるように蒸気機関や機械が備えつけられて、実際に動かされた。汽車を走らせるためにはレールを大きく環状に置き、その上に機関車を(アルコールを焚いて、水蒸気を起して、車輪を廻転させる)のせて走らせ、多くの貨車を引かせ、くるくると回らせた。
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多布施反射炉跡
佐賀市伊勢町㈱ミゾタ北側敷地一帯を言う。嘉永6年(1853)6月、米艦が浦賀に来航し通商を迫ったので、徳川幕府では大いにおどろき、日本の国防について種々評議の上幕府の阿部閣老より、同年9月3日に佐賀鍋島藩に命令書が下された。その内容は、鉄製36ポンドカノン(大砲)25門、24ポンドカノン(大砲)25門、及びそれを乗せる車台50台を注文したものである。 そこで佐賀藩では長瀬町の築地(ついぢ)の反射炉だけでは狭くてとうてい間に合わぬため、さらに多布施川畔に大規模な反射炉を築き、鍋島志摩を鋳立方頭人として大砲の鋳造に当たらせた。 何分大きな大砲なので何度も失敗を重ねてやっと安政2年大砲25門を鋳成した。ただちに大坂奉行の廻した順成丸、妙法丸の2隻(せき)に16門を積載して輸送したが途中7月23日紀州灘で暴風雨に遭い順成丸は沈没し妙法丸と乗組員とは勝浦に漂着した。 そこで積み残りの大砲と、その後出来上がった大砲を江戸幕府より廻された昌平丸に積んで輸送し、品川台場に据付けた。佐賀人として誇るべきことであろう。
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八戸城跡
八戸1丁目にある龍雲寺一帯は、室町時代八戸一帯に勢力を誇っていた豪族於保氏(のち八戸氏と改める)の居館跡である。 於保氏は鎌倉時代から戦国時代にかけての武将である。高木宗家の弟益田家綱の子、宗益が佐嘉郡於保(現在佐賀市大和町)に住し、子孫もこの地に居住したため於保氏と称した。宗益の子宗高は京都大番役を勤め、その子種宗も肥前国執行職についており、鎌倉幕府の御家人として、文治年間(1185〜1190)ごろより於保地頭職を継承したといわれる。 「北肥戦誌」によれば、於保弥五郎弼宗(すけむね)は南北朝期、筑後川の合戦で少弐方に立ち、菊池武光の軍と戦った。 さらに4代の後、宗繁の兄弟胤宗は龍造寺家兼の娘婿となった。また、同兄弟宗貞は、これより分かれて八戸氏と称した。 龍雲寺は、もと慶聚寺といって、大永元年(1521)八戸胤宗が建立したもので、城は三重の城濠で囲まれていたと言われる。 八戸家最後の主宗暘が龍造寺隆信との戦いに敗退して城はなくなり、寺は天文元年(1532)龍造寺家重によって龍雲寺として再建されたが、城濠の面影はなくなっている。 「葉隠」の口述者山本常朝は、八戸氏の後裔として当寺を菩提寺とした。その墓碑も当寺にある。
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佐賀劇場跡
佐賀市材木町一の橋にあった佐賀劇場は、大正5年福岡市で開催された九州沖縄八県連合共進会の演芸館を古賀小一氏が払い下げを受け、当時『改良座』と称して演芸場を開設したのが始まりである。この劇場は、内側と外側が別々に回る二重の円形舞台が装置される等設備が整っていた。大正8年には『栄楽座』と改め、また昭和14年頃に『佐賀劇場』と改めた。佐賀劇場では、いろいろな演芸が上演され、芝居や浪花節(浪曲)は特に賑わい、関東関西の一流浪曲師が、この佐賀劇場の舞台で活躍し、『佐賀で浪曲の興業をやって損したことがない』と市民の間で口々に言われたこともあった。現在大相撲の国技館のように、建物の周辺には、何本も、のぼり旗が立っていて娯楽施設としての演芸場の雰囲気を一段と盛り上げていた。また、筑紫美洲(主)子さんもこの舞台で大いに活躍されていた。芝居と映画を組み合わせた『連鎖劇』といわれる新しい芝居なども上演されるなど、次の時代に出てくる常設映画館が流行するまで、佐賀市民の娯楽施設として重要な役割を演じてきた。その他当時の演芸場は、演説会、講演会などの集会場としての利用も多くあった。佐賀のガス会社の開業式も大正2年4月13日にこの改良座で行われ、佐賀県知事、佐賀市長の他400名が集まり、賑やかな式典であったと当時の新聞は報じていた。また、明治17年頃松原町新馬場に『松栄座』ができた後に『新栄座』と改められたが、(後に昭和館と改称)ここでは、佐賀市が水道施設の建設計画を進めた大正2年には、大々的な『佐賀市水道建設反対市民大会』がこの『新栄座』で開催された歴史もある。
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役所跡
堀立稗蒔の井手宅を、土地の人は役所と呼ぶ。藩政時代罪過を犯した者を検察し小事件はここで処理したという。現在の警察派出所の職権をやや強化していたもののようだ。
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鍛冶屋敷
野中草原の南端に鍛冶屋敷という1軒の藁葺の家があった。ここに250年前、藤原巨勢弾正一刀太と称する刀鍛冶がいた。 一刀太は越前の国の者であったが、ある事情でこの地に下り隠とんの生活を送っていたらしい。付近にその墓がある。 肥前日々新聞の主筆が調べた刀工の記録に、肥前国巨勢字草原の郷に肥前草原市太源という名工が住し、刀工として寛永の頃栄え、弟子を養い、神埼、島原、平戸、諫早など各地に一派をなして市太源の流派を残したとあるが、その流れを汲む者に、次の者がいる。 家栄:島原、長崎に住し、名工の名を残し享保に至った。 家永:寛文の頃、佐賀城下町に住した。 家正、家重、家弘:寛永の頃、平戸、神埼に。 盛秀、守秀、守安:寛永の頃、肥前草原に。 『西肥遺芳』にも、これらのことが書かれている。戦前の記録に、神野町在住の小渕喜市氏は肥前の国草原住市太源守安の銘のある太刀を所有されているとあるが現在は不明である。 現在真崎宅が鍛冶屋敷跡というが、付近の田畑から鉄屑など種々発見されるという。
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高尾お倉跡
巨勢川岸の公民館付近は藩政時代に佐賀藩の上納米収納倉庫のあった所で明治16年頃までは4棟あったと言われています。廃藩後不要となり明治29年土地と新倉庫は巨勢村に払い下げられ役場として使用されていましたが、昭和になって農協倉庫になりました。 この付近はお倉浜と呼ばれ船着場でコの字形に倉庫が並び中庭は米検査所で、高尾橋のたもとに倉番所があったそうです。
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元忠寺跡
修理田にあり、安養山と号し天台宗の寺院であった。 『肥陽古跡記』に曰く。佐賀郡安養山元忠寺、本尊は大聖不動明王、智澄大師の御作也。如影上人元忠の開基、元和4年卯月中旬高源院殿正真大姉の御願にて、愛染明王の尊形弁聖天の像を作り、一宇の堂を建立し給えり。また万治2年12月18日太守光茂公の御願として、江府山王七社を御勧請有って、同年12月13日この元忠寺の勝地に移し奉り給う…とある。 当時、巨勢第1の寺で、藩主の信仰も厚く、度々ご参詣あり、知行つきであったけれども、廃藩により寺運衰え、明治初年には、十大区の御用取扱所を元忠寺におかれて地方行政の中心となったこともあるが後、廃寺となる。 山王社も神埼町仁比山の山王社に合祀され今は小さな社が残り、元忠寺は住職の墓が林の中にぽつんと残っているのみである。
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一里塚
国道264号線沿い、東分上に一里塚の地名がある。香田氏宅前に松があって人々は一本松と呼んでいたと言う。昔は塚になっていて、藩政時代長崎街道上の里程標塚で、白山町高寺の里程標から1里の地点であることを旅人に表示したものであるが、今は地名として残っているだけである。
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牛島の内吉原
下新村大井手の南に四方堀で囲まれた地を内吉原という。旧藩時代罪人の処刑場があった所で、後佐賀監獄墓地となったが大正12年廃された。
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牛島の内芦原
牛島540番地、藩政時代は鍋島山城守の所領で、佐賀江と巨勢川の合流点に位置する要地であったので、佐賀以東の形勢監視の任をもって、ここに侍屋敷を構え、射場、上納米倉庫も置かれていた。
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番所跡とみちしるべ
藩政時代、佐賀の城下にはいる東の入り口で、ここの橋を渡って城下に入る要所で、それにちなんで構口という地名になったと言われています。橋を渡った西側に番所があって武士が詰めていて、城下に入る通行人を監視していました。ここには、「番所跡」の標柱と、「ながさきへ」「こくらへ」と刻まれた石の道標があります。
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肥筑軌道高尾駅跡
巨勢地区には大正末から昭和初期にかけて軌道(軽便鉄道)が牛島宿のアクロスの裏から蓮池、千代田に走っていた。大正6年真崎照郷などが発起人となり肥筑軌道株式会社を設立し大正6年に工事に着手し、第一次大戦で物価が上がり一度中止したが、大正11年高尾より崎村まで工事再開して12年5月竣工、24日営業開始した。始発駅はアクロス南にあって、2両編成の車両に機関車がついてヒョーッという汽笛を鳴らし牛島、西分、東西、東巨勢、千代田へと走っていた。この軌道は久留米まで延長される予定であったが、第一次大戦後の不景気で資金も続かず経営困難となり倒産して昭和9年頃廃止された。
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焔硝蔵(御薬蔵)
鹿の子上区西北の方角に、佐賀藩の焔硝蔵があった。明治7年(1874)までは袋区と共に本庄に2か所あった。当時は巨額の火薬が貯蔵されていたが明治7年の佐賀戦争後一般士民所有の銃砲刀剣類と共に、没収され、跡は寺子屋流の学校となったが、明治21年(1888)7月旧火薬庫を取崩し、両所の建材にて、灰塚に星共小学校を建てる。のちの本荘尋常小学校講堂がそれである。 また石倉の扉は村社鹿の子天満宮の石垣となり、火薬製造用の薬研は手洗鉢として、使用されるところもある。
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鷹取城の跡
鹿子下区の西に堀に囲まれた一角がある。昔は薮が繁茂していたそうで、今でも一部が残っている。ここが鷹取(高取)城の跡である。 天文22年(1523)龍造寺隆信の佐賀城奪還の際、神代勝利、高木鑑房、八戸宗暘の家臣が海岸警備のため駐屯していた要塞を急襲し、潰走させた古戦場の跡である。 面積4.5ヘクタールに黄金の稲穂が波うって今は昔日の面影もなし。
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鍋島藩の猟場鴨良
鷹取城跡の堀南に鍋島藩の猟場があった。その地を鴨良(カモラ)と呼んでいる。 その昔慶誾寺の本堂の屋根に登り南を眺むれば、天草の山を洋上に浮かべた有明の海が、眼下に迫っていたという。 当時の「タカトリ」付近は南へ葦が茂り小津江の流れが海に流れる狩場であった。佐賀城からよく殿さんが猟に来たそうで、農作業中の百姓が驚き平伏せんとすると「そのまま作業を続けるように」と言って猟をされたという話が残っている。
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久米邦武の誕生地
久米 邦武は、佐賀市八幡小路で生まれる。 その地には、長男・桂一郎と一緒に誕生地の碑が建つ。