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[旧佐賀市][ 工芸品(刀・皿・彫刻)]は5件登録されています。
旧佐賀市 工芸品(刀・皿・彫刻)
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鍋島更紗 工房跡地
佐賀更紗文書 鍋島更紗は、古く佐賀に伝わる優美な染織品である。 工房は、佐賀銀行白山支店跡(白山二丁目)付近にあった。 慶長年間、鍋島直茂の朝鮮出兵の折、伴なって来た李朝工人・九山道清が伝えたといわれている。道清は、のち九山庄左衛門と改名、藩の庇護を受け諸大名や幕府への献上品を作った。 技法は、木版ずりと型紙ずりを併用した独特のもので色染めも精巧を極めた。
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高木八幡宮御神刀
(宝剣の銘文) 奉納高木八幡宮 享保三年戊戌天九月吉祥日 敬白 肥前国 遠江守藤原兼廣 兼広(廣)は初代が大和大掾で、二代が遠江守。2代兼広は、寛永20年(1643)生まれ。 没年不詳。元禄11年(1698)に遠江守となった。 初代忠吉(鍋島家お抱えの刀鍛冶)の異母弟である広貞の曾孫にあたる。
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舟木邸と珍の山唐津
舟木邸は、佐賀市柳町の旧古賀銀行の設計者である、故舟木右馬之助氏の自邸で、本人の設計施工である。 なお、舟木邸から出土した珍の山唐津について「古唐津」の解説では、朝鮮唐津の首なし徳利をそのまま、または他の首と接合して2度焼きしたものである。慶長年間、佐賀市珍の山で焼造したものと誤信するものがあるので、次の事項を掲げて説明したい。 1)珍の山陶の出土した位置は佐賀市の中心に位置する西の堀端の舟木右馬介氏の邸内であって、ここは旧佐嘉栄城をめぐる西の堀に直面し、本丸よりわずかに150mほどの近距離にあたる。慶長の頃、本丸のまじかで民需の陶窯を築くいわれはあるまい。 2)珍陶の出土した舟木邸には、焦土、窯道具類を発見しない。 3)舟木老夫人(昭和38年頃)によれば、舟木家は代々鍋島家のお納戸役を勤めた家で、先祖に古玩癖の強い人があって珍器を数多く蒐集したと伝え聞く。明治25年頃、屋敷内より偶然出土した珍陶を町の骨董商が予想以上の高値に買い取った記憶がある。その後、古物商の懇望によって明治40年頃と昭和5年頃の2回にわたって土中の珍陶はほとんど掘り出された。今数点を記念として家に残してあるが、小さい残欠はまだ床下や土中に埋っていると。 4)現在舟木邸に残されている出土陶を見ると朝鮮唐津ばかりでなく天目茶碗、絵唐津の碗鉢片口など。 あるいは無地唐津の香炉、酒盃など様々。
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彫刻の森
彫刻家、古賀忠雄のブロンズ、石膏の彫像26体の作品が博物館・美術館の南側・南堀の散歩道(佐賀城公園)に設置され彫刻の森をつくっている。 また、佐賀県庁舎と佐賀県立図書館との間に「愛と平和」の像が、平和の塔建立期成会の手で建てられている。この「愛と平和」の像は、昭和39年に建立されたものである。
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銅戈溶范
東の祇園原から檪木・上和泉・草場・篠木野・一丁田線の標高15mから、10mの尾崎・下一・佐大農場・下五・六・村徳永・大野原へかけて、点々と甕棺群や弥生時代の竪穴住居跡がある。 檪木集落から少し北の一帯もそうで、もとは相当広い範囲にわたって埋蔵していたらしく、弥生土器片が多く見当る。 ここのかめ棺群は、2箇のかめを組み合わせた「差合」式や「合口」かめ棺で、斜に埋められた弥生中期の須玖式である。 棺内からは遺体も副葬品も見当っていないという。 このような大形かめは、それなりの技術がないと製作されないが、各集落毎に製作したかそれとも専門の技術集団集落があったかは明らかでない。いずれにしても文化水準の高まりはあった。 この共同墓地群近くの納骨堂南をぶどう園に造成中昭和30年頃横尾正幸氏が発見された石製溶范がある。これは砂岩の切り石に、諸刃の剣である矛(戈または鉾とも書く)の形を刻み込み、これに溶けた銅を流し込み同型のものを沢山鋳造した鋳型である。 これで造られた矛が、実戦には使えなかったが、権力誇示又は宝物として所有され、祭祀には神前に供えられたようだ。いずれにしても、小さな集落の長でなく、いくつかの集落を統合した権力者の私有物と推定される。しかし、この溶范で鋳造された銅戈は発見されていない。 県内でも他に一例があるだけで、貴重な弥生の遺物であったから、東京・上野の国立博物館が買い上げ、今は国の重要文化財となっている。