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[旧佐賀市][ 祭り]は50件登録されています。
旧佐賀市 祭り
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新町の八朔祭り(風神さん)
新町は標高0mと言う干拓地で、立村以来累次の風水害に悩まされ困苦欠乏に堪え辛酸の苦痛を味い、古老の伝説や新町皇太神宮碑文によれば、明和4年(1764)並天保の飢饉等の惨状が今に語り伝えられている。 その一節に「逆浪天漲 農作物皆無 餓死流民 道迷病蔓延」等の悲記がある。 毎年襲い来る台風やお盆潮、八朔潮と言う異状潮位から、海岸堤防を守るために古くから村を挙げて警戒に当っていた。 有明海の満潮時が夜半に及ぶ時等、消防団が台風と闘いながら第一線堤防の巡察と警戒にあたる苦労は言語に絶するものがあった。殊に堤防外住宅(15、6戸)は毎年高潮浸水に悩まされ、その度に消防団、自治会等の出動が行われた。 昭和初期頃より干拓築堤に石垣並にコンクリート工法が採用され、又高潮には防潮堤が採用され、堤防決潰等昔日の物語となった。 従ってオランダ工法等飛躍的な進展に伴い部落の風神さん祭りもすたれ、毎年9月25日天満宮の馬場の相撲大会も自然消滅の形態となった。
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お地蔵さん祭 (豆祇園)
集落内の8ヶ所に地蔵さんが有り、毎年7月24日夜お地蔵さん祭(通称:豆祇園)を現在も行っている。祭りの準備は家廻りの当番で行い、日暮後、近所の人が集まる。事前の準備(1)お地蔵さんに赤い布で胸当を作り、当日に着せる。(2)笹竹を地蔵さん廻りに立て、小さい提灯を下げる。(3)飲物、菓子、花火、豆(豆菓子か煮豆)を準備する、日が暮れると近所の大人・子供が集まり当番が接待する。
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大祭(おお祭り)
・毎年12月15日に、神社で大祭りの儀があり氏子の3つの地域で集まり(東社中、中社中、西社中)その日を農休日とし、当番の家に住人全員が、朝と夕方に集まり、赤飯、竹輪、野菜漬で食事をし、大人は酒を飲んで楽しむ日 ・終戦後は浪花節等の芸人を呼んで過ごした
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春祭り (戦没者慰霊祭)
神社の春の大祭と慰霊祭後、夜お宮に舞台掛けして芸人を呼び、2日間楽しんでいた。(主催:青年団)
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風祭り
毎年、田植後台風の被害に合わないよう、氏子が参拝していた。参拝した人には、胡瓜のナマスが振る舞われていた
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路傍のエビス祭り
今津上の80戸によって管理され、2月と7月に祭りが催されている。 7月20日の祭りは、エビス像の周囲に笹竹を立てて〆縄を張り、野菜、鯛1匹、清酒、菓子等供え、夕刻、神官の祝詞、役員等の玉串奉奠(ほうてん)で式を終わり、後町区の人々がお参りする。エビス像の側に、婦人たちによって煮豆が準備され、参拝者に配られる。 以前は、祭りの世話は青年団が受け持ち、各戸には献燈をつるし、エビス像付近には夜店が立ち並び舞台をたて寸劇や踊りが催されていた。
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権現さん祭り
平松南公民館の西に熊野大権現が祀られている。伝えによると明治14年、三重県の伊勢神社へ参宮のおり、和歌山県の熊野大権現へも参詣し、帰国後、熊野大権現を当地へも祀ったともいわれる。 同所には他に、天満宮、金毘羅大権現、大神宮合祀塔、庚申塔や石仏等が祀られている。 平松南では毎年1月第2日曜日に大権現にお供え物をし、本庄神社の宮司を迎え、子どもから大人まで集まり神事を行っている。
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若宮社祭り(祗園)
(7月) 夏祭りを祗園というのは佐賀県内を通じて一般的である。 神社の祭り事をつかさどる氏子はそれぞれ1年間を担当する。 当日は青竹を切り鳥居の笠木と柱に結びつける。柱には本庄江より刈り取った男の葦を柱を囲むように結びつける。 氏神へのお供え物は、鯛、塩、大根、人参等、祭壇に清酒を供える。 当日は午後6時本庄神社の神官が訪れ、氏子の前でお払いをして祝詞をあげる。その後地区代表による神殿に玉串奉奠し、祭典は終わる。 境内にはテントが張られ子ども達親子による豆が配られ舞台ではビンゴゲームが行われる。 かつては、大きな舞台が作られ男子青年団による佐賀にわか、即興にわか、女子青年団による舞踊や演劇が催され夜店が立ち並び賑わいをみせていた。今日では子ども達が施主となることもあって豆祗園などと呼ばれ、町区の災難のがれ、家内安全、疫病退散が主目的である。 (注)「祗」の左部分は「ネ」で表記される。
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百手祭
(11月) 神社の鳥居に男の青竹を切り藁を編んで鳥居に飾る。弓、矢、的を作る。氏神への供え物として鯛、大根、塩、果物、榊、神酒を神前に供える。当日は、神官が朝早く訪れ、お払いをして祝詞をあげる。境内に備え付けた直径約40cmの藁で作った丸い円座、つまり的、1m離れて鬼の字を3か所書いた竹で編んで紙を張った的にまず神官が弓矢を放つ。次に長老の順に矢を放ち命中すると氏子より歓声があがり町区の災難がのがれるという。 かつては、青年団が井戸水でみそぎをして祭りに参加したが、今日ではその姿を見ることができない。
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大神宮祭
(2月) 若宮社に合祀されている大神宮は、伊勢に鎮座する皇大神宮を尊敬する人々によって構成された講組織で、伊勢講ともいう。 伊勢に参拝するには多額の費用と長い年月を必要とする。そこで講を組織しそれによって費用を捻出し、代表として伊勢参宮をし、分神を持ち帰って祀る。大きな自然石に次のような銘が刻まれている。「天照皇太神宮 寛文11年(1671)」 大神宮の碑石に藁で編んだしめ縄を飾り鯛、塩、大根、神酒を供える。当日神官は早朝訪れ氏子にお祓いをし、町民の災難避け等の祝詞をあげる。それが終わると代表が玉串奉奠に移りその後参拝者は神酒とおなますをいただき健康と家内安全を祈る。
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初午祭
(3月) 天正年間(1573〜1592)大宰少弐が龍造寺康家に命じて龍泰寺小路に築城するにあたり、小津江のにぎわいが城にあまり近いため、料理屋、宿屋の比較的多かった東岸の家を今の地に移させ今宿と名付けた。それにならい、港も今津と名付けられた。このように今津は江戸時代より商人の町として栄えた。 この初午は、商売繁盛、家内安全や大漁、海上交通を祈願する。 初午は鹿島市祐徳稲荷神社や唐津市鏡山稲荷神社など県内各地で行われている。当地にも江戸時代に稲荷神社が祀られ今日に至っている。祭典の内容はだいたい大神宮祭と同じで祝詞は午後6時に行われる。
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大橋地区の花祭り(潅仏会)
佐賀戦争の際、大橋村にあった妙徳寺が焼けてしまったが、当時の住職の圓暢法印が持ち出した経机とお釈迦様が大橋村の区長の手で守られ、代々の区長(自治会長)宅で花祭りが行われて来た。 2007年頃からこの花祭り行事が町区の婦人達にゆだねられ、公民館で実施されている。 また、佐賀戦争の際、妙徳寺は官軍をかくまったために火を放たれた。住職の法印は、逃げる途中で流れ弾にあたって倒れ、その時に持っていたお釈迦様の両腕が折れてしまったと言い伝えられている。
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千灯籠祭り
千灯籠祭りは7月、8月に集中して行われ、8月24日が最も多い。エビスさんは7月20日に集中している。 蓮池町には60体ほど石仏、石神さんがおられ、祭りが町区毎に子ども達の手で行われている。個人所有の恵比須は個人でお祭りがなされる。昔は男の子のみであったが、現在では女の子も参加し、当該町区でまたは子ども会の手で行われている。 1日前からお地蔵さんの周りを清め、笹竹を立てちょうちんをつるす。低学年の子ども達は町内外に触れ歩く。 「こんばんは。○○○の千灯籠けんめーってくんさい。」ドンドン♪「豆はきじ豆、砂糖はどっさいまたどっさい。」ドンドン♪ 蚕豆は虫がつきやすく乾燥が悪いと虫に食われてしまう。そうした折、蚕豆のかわりにきじ豆を使用したことを声高く触れ歩き、他所との違いを自慢した。貴重品である砂糖もたくさん入っていることをアピールした。
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村祭り
祭田が各地区にありましたのでそれを耕作して祭りを行っていた。 本通さんと寄通さんと二人で行っていた。寄通さんは来年祭りを行う人のこと。 中牟田内の8軒で代わる代わる行っていた。 朝お赤飯と塩魚類を焼いて白菜の漬物やごま和え等、夜はうどんと大根煮とちくわを乗せて行われた。祭田は現在はありませんが祭りは今も続けられているところもある。
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村まつり
12月15日 朝はおこわと塩イワシの焼いたもの、弁当の必要な人は各自持参した弁当箱におこわをギュウギュウに詰め、その上に塩イワシが1尾のっていた。堅くて量も多く食べきれなくて半分以上は持ち帰っていた。夜はうどんで家族みんなが参加していた。
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老松神社の祇園まつり
8月1日の祇園まつりはお宮の境内から参道は両側にお店が並び、人、人、人でにぎわっていた。特にカキ氷は繁盛していた。
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権現祭り
藩政時代から佐賀では、毎年2月と9月に、英彦山権現に団体参詣をする風習があった。この地域では、後年部落代表が参詣するようになり、15日には、地区代参の人の帰りを待って、部落の人は権現祭りをした。現在続いている所もある。
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巨勢神社春祭り
4月15日には、春祭りが行なわれ、夜店が出たり、踊があったりしたが、今は目立った催しもなく、期日も20日に替わった。
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川神祭り
4月16日には、旧藩時代から川神祭りを行なってきた。この祭りは個人個人で行なうもので、わらで円座を作り、小豆飯を円錐形ににぎって供え、種々の供物をのせ笹や青梅の枝を円座の中央に立て、白紙に種々の堀の魚の絵を描き、帆のようにして結び燈明を点じて川に流し水神を祀った。種々のものをのせるには、兵庫皿という、わらで作った皿にのせる習慣がある。現在も続けている家も多い。
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祗おん祭り
通常祗おん祭りは、6月15日の祗おん社の祭りをいうが、この地方では、巨勢神社の夏祭りやその他の神社の夏祭り、また 地蔵尊、観世音の夏の祭りも祗おんといって夏の夜にぎやかな祭りをした。巨勢神社の夏祭り祗おんは、7月15日である。
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お供日(おくんち)
10月20日には巨勢神社秋祭りがある。この祭りのことを「供日」といって以前は11月29日に行なわれ、その前は12月15日であった。供日には、年毎に、各部落順番に下宮を設け、「おくだり」といって、巨勢神社から御輿を担ぎ、多くのお供を連ねて行列が通った。夜店が並び、舞台がかかって踊などがあって賑わった。 各家々では、赤飯を炊き、鮒のこぶ巻きを作って祭りをした。そこで祭りの前には、堀干しをして、鮒をとるのが例であった。
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秋季大祭(串じびき神事)
毎年11月には、串じびき占い神事を八幡社において行っている。 翌年の大年・水稲・水害・台風・火災の良・悪を占うもので、その結果は全員に伝えられる。 大祭の始まりは明らかではないが、地区には昭和4年以降の控帳が伝えられている。
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釈迦堂祭
(4月19日・20日) 鍋島家菩提寺高傳寺には、鍋島勝茂が父直茂公の菩提のために京都の仏師に刻ませた釈迦三尊像が祀られています。年1回4月に御開扉となるこの折に大涅槃像が掲げられ、参拝者に拝観させています。
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天神祭
オオマツリなどと呼ばれる場合が多い。特に祭礼を繰り出すということはほとんどなく、村の家々が輪番で祭りの世話役にあたり、氏神の拝殿や、当番宅で村中寄り合い、飲食を共にするという様な例が多い。 天神田などの祭田を耕作し、その収入によって運営される場合もあり、料理の中心は赤飯とされている。
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川神さん祭
(春耕前) 藁で直径50cmほどの舟(巣籠り)を作り、白紙にナマズ、ナスビ等の絵を描いて握り飯等のお供えをして、川に子どもが ヒャーラン(落ち込まぬ)ように川に流して祈念しました。
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田の神祭
(田植え直前) 神社で祈祷のあとは、村への疫病や害虫の侵入を防ぐため、護札を村の出入り口に突き立てておき、村中安全、五穀豊穣を祈念しました。
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七夕祭
(7月7日) 子ども達は早朝に起床し、朝露を集めて墨をすり、それで字を書くと上達すると言い伝えられています。家々では七夕饅頭や団子を作り、仕事を休みました。この日、田に入ると目を突くと言われています。
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お盆祭
(8月13〜15日) 13日は精霊迎えの「迎え提灯」を縁先に下げます。精霊棚を設けショウロウゴモを敷きます。先祖の位牌を上段に置き、下段には、盆花、野菜、果物、菓子などを並べます。盆の期間は精進料理が普通であります。
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天神祭
(12月25日) 天神信仰は今では合格の神、学問の神として有名でありますが、もともとは御霊信仰から出発したもので、菅原道真公の御霊を慰める信仰となり、また農業推進の役を担っています。 正里区では、家々が輪番で祭りの世話役が当番で、天神田などの祭田の収益などで運営され、料理の中心は赤飯とされています。
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伊勢祭
佐賀藩は昔から伊勢(三重県)の皇大神宮を信仰する伊勢講が盛んでありました。講仲間でお伊勢参りの路銀納金を積みたて、代表者が輪番で代参していました。