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[旧佐賀市][ 民謡・方言]は26件登録されています。
旧佐賀市 民謡・方言
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櫨(はぜ)の実採り歌
享保2年(1735)頃、北島武大夫が佐賀平野に櫨(はぜ)を植えてから佐賀平野は木蠟の本場として、明治初年まで米に次いで高い生産量を誇った。嘉瀬川の堤防などでも真っ赤に色付いた秋の紅葉は見事なものであった。冬になると寒風に曝されながら一杯に実った櫨の実採りが行われていた。その時歌われたのが櫨の実採り歌である。 「冬の寒い日に、木登りまでして食わなきゃ食えないか。情けない。今日の仕事はさむくて捗らず、食うにゃ冷たい目に合う。情けなし。」
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郷土歌
作詞 腹巻 紫浪 曲譜 産業組合の歌にて 昭和10年10月発表 1.北に天山 空澄みて 南 筑紫の海広く 文化の波も綾なして 寄する佐賀市の片ほとり 2.農工商漁 わが村の 戸数は五百七十戸 人口三千五百にて 野に天恵は溢れたり 3.潮の香高き 松並木 一望涯(はて)なき干拓地 伸び行く村のたのもしく 耕地は三百五十町 4.米収一万五百石 麦作 凡そ二千石 五穀のみのり豊かにて 南北二つの大倉庫 5.市場に築く魚の山 行商人の勤勉に 鮮魚かまぼこ 竹輪など 販路いたらぬ隅もなし 6.雲雀さえずる春景色 瓦工場も のどかにて かげろうもゆる遠方(ちちかた)に 缶詰会社も 見ゆるなり 7.交通要路の本庄江湖 春はさざめく潮干船 丸目渡しの御番所は 江藤新平 乗船地 8.佐賀藩公の御船小屋 軍船あまた つながれし 往時を語る松風に 白帆のかげものどかなり 9.偉人 副島種臣は 開化日本の暁(あけ)の星 残る逸話の数々を しのぶ今津の屋敷跡 10.崇(あが)めまつるは九寺十社 本庄の宮の朝あけや 高太郎丸の跡問えば 赤い夕日のはぜもみじ 11.さくら花咲く わが校よ 学びの道の春秋に いそしむ健児七百の 栄冠ほこるバスケット 12.我が西与賀の村民は 義務責任を全うし 公徳守り 義に厚く 究めて進む おのが業 13.ああ 勅語(みことのり)かしこみて 御国を思う 真心に 挙村一致の実をあげ みごと築かん 理想郷
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わらべ唄
♪キャーツグロ キャーツグロ キャーツグロ お前の頭に火がちいた プルッとすんでキャーキエター (子どもの頃よく歌っていた唄。キャーツグロの頭の赤い毛が印象的なのを歌ったものでしょう)
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子守唄
♪ひっちょこはっちょこ蜂の巣、蜂や山みや巣作りぎゃ、巣は作らじ嫁御見ぎゃ、その嫁御はどうじゃった。紅つけかねつけよか嫁御、今朝見たれば、ばけ嫁御。 ♪キョーヨンドン、キョーヨンドン山みや行くけん出たこんかん。ナタもヨキもたんたん。持たんないば貸そうだん。買いものはいやばん。茶つけ飯しや十三ばゃ。 ♪おろろんの焼餅ちゃ一銭がと九つ、まけて十いっちやいやい。 ♪あららん、こららん、子が出来た。この子はどうしておおそうかな。 ♪とことっと鶏の糞、あせって見れば犬の糞。 ♪ふとんかぶせて、ねじ殺せ、あけて見たれば猫ぢゃった。
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あやしうた
♪ちゅうしちゅうしいんばいばい、たんぐたんぐばあーきや。 ♪やれすんやれすん佐賀ん町いこうでちゃやれすんやれすん。 ♪大藪小藪ひくかいどうの蜂の巣、饅頭、きくらげ、鋤の先、鋤の先。 ♪おつむテンテンかんぶいかんぶいバッキャー。 ♪おらんおらんバア
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まりつきの歌
♪きょんきょんきょろばち、はちぞめろ、べにやのおかあちゃんの染物は、さってもさってもゆう染めろ、すずめのこまくらこまくらに、三ちょう車に水車水のほとりに腰掛けて、これこれもうここは何というところ、ここは信濃の善光寺、善光寺様に願い立てて梅と桜をあげました。梅はすい性で、もどされて、桜はおおいにほめられた。一寸一貫つきました。 ♪からうめ、からさき、からすが一匹飛んで渡った。このお手まりや誰に上げましょう。花の梅子さんに上げましょう。よううけとんさいのよう受け取りました。 ♪でこ坊や帰ろうや、もうかれこれ三時間、うちではね、民ちゃんがねまちこがれているんでよ、今朝ね、猫ね、ねずみ取ってちょい。
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蓮池の方言
蓮池の言葉は、この地方の独特の言葉・アクセント・訛と、佐賀地方と同じ言葉が一緒に使われている。 言葉は聞いただけで、どこの地方の人かが大凡わかったもので、昔は他藩から来た人はすぐ判別出来、蓮池藩では佐賀本藩より二文字下った方言を作ったものとも思われていた。しかし蓮池藩が作られる時、直澄公に41名の側近と、犬塚氏・小田氏・江上氏の家臣と、にしめ侍と呼ばれた塩田方面よりの人達があり、その人達の間ではお小路言葉と言われる、佐賀藩と同じと思われる言葉「オサヨウデゴザイマシタ」という様な一般農家・商家とはやや違った言葉が使われていた。 犬塚氏・小田氏・江上氏・鍋島時代と一般住民の間に受けつがれたのが蓮池の方言である。その最も基本になる特徴は、佐賀は二文字下り、蓮池は四文字下りと言われる事である。アイウエオの内で一文字目がア、二文字目がイ、四文字目がエで例をあげて説明すれば、共通語の「会いに」は佐賀だと「イャーギャー」となり蓮池では「エーゲー」となる。共通語の「差出口」は佐賀では「シャービャー」となり蓮池では「セーベー」となる。この様な四文字目の言葉使いは、蓮池に限らず小田氏・蓮池犬塚氏・崎村犬塚氏等使われていたようで、筑後川沿いでもケー言葉は使われている。また蓮池だけのものでないけれど、セをシェ・ゼをジェ・エをイェと発音する。先生をシェンシェイ・全然をジェンジェン・十銭をジッシェン・英語をィエイゴというふうに発音する。 アクセントでは柿と蠣と垣の違い、橋と端と箸の区別が出来ない。 濁るところが濁らない。1時間をイチシカン・2時間をニシカンと言う。 形容詞で3回続ける。ジャンジャンジャン・ドンドンドン・ボンボンボン・ガタガタガタ・チョロチョロチョロと言う。 遊ビゲコンコー、ウンクッボー、行くとは言わないで、来ると言う。 同じ言葉でも佐賀江を隔てれば、アクセントが違う場合もある。セントウローをふれ廻る時に、蓮池の方は始めの方にアクセントがある。また一般にそうであるように蓮池辨といっても丁寧な言葉、目上に対する、同僚、目下へ、女の言葉、子どもに対し、赤ちゃん、けなし、けんか、等ある程度の違いがある。
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歌(軌道を見て)
園田初太郎作 肥筑軌道の哀さよ 通る度ごと見ていれば たまに空箱引いてゆく それでは炭代でも 取れはせぬ スットントン スットントン♪
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歌日独戦争凱旋祝賀の歌
園田喜八作 ころは大正3年の しかも8月半頃 日独戦争の命下り 此處や彼處の兵士らは 老たる父母あとに見て 恋しき妻子に生別れ 神尾中将の命令で リュウコウ湾やロウザン湾 知らぬ支那地に上陸し 青島さして進軍す 雨の降る日も風の日も 所定めずまま食べず 艱難苦労も厭いなく 兎追うように追いかけて 向う遙に眺むれば 西も東も砲台よ 南も北も砲台よ 其の内名高き砲台は モルトゲ・イルチス・ビスマーク ワルデック将軍が 固めたる17年がその間 金と知恵とに打任せ 難攻不落と誇りたる 膠州湾もなんのその 撃てや撃て撃て敵軍よ 弾丸の当るだけ撃て見よ 九州男子の手の内を 名誉と共に汚さらん 今日凱旋の兵士等を 喜び迎える国民の 万歳天地に轟きて 國の誉は吉野なる 朝日に匂う山櫻 天皇陛下万々歳 我陸海軍万々歳♪ (蓮池仁輪加一等賞受賞の歌)
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江下伍長の歌
江頭 文明作 一.芙蓉城址の春浅み 雪雲低くおおえども 今年も梅の白々と 君が勲を勾うなり 二.のどには死なじ丈夫が 廟行鎮の寒空に とどろとあげし爆音は 海の外までもひびきけり 三.天賜の園の葉がくれに 今日しも仰ぐ姿こそ やさしく強き御民なる 我が胸ぬちのしるしなれ
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もぐら打ちの歌
もぐらもぐらもる(ん)な ならずの柿(梨・桃)の木 千成れ 万成れ 億万成れよ もぐらもぐらもる(ん)な うちん者のちぎっときゃ 畠の真ン中ァ落ちろ よその者のちぎっときゃ 堀の真ン中ァ落ちろ 十四日のもぐらうち♪
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蓮池の民謡
「蓮の池節」 一.蓮池の在郷辺から 糊つけ着物に 小倉の帯しめ 願正寺詣りさす時や ちょうどさいば 藁人形 二.一で赤かもんな 法印さんの衣か お稲荷さんの鳥居か朱か紅か お猿さんのお尻か 素海老のいでがらか 三.次に白いもんな 豆腐に初雪 源氏の白旗 横丁の丸木屋の白壁に お姫さんの内ももど 「おりきんばっちゃん」 お力んばっちゃん どけェ行きよっかい 目薬びんどんさげて つっくるびいて 鼻たれて 私や 通り小路の黒田さんに 目の養生 いつからや おとてから そりゃまた きつかね とこ電信柱に ずくにゅうどんば 打ったくらんごとね 「蓮の池節」は言うまでもなく、樺島政市の作である。その歌詩にこめた皮肉と、チョッピリにじんだお色気は、さすが長崎にも学んだことがあると言われる片鱗をのぞかせている。彼は盲目の身で三味線をかかえ、蓮池から佐賀の街までの道をトコトコ歩いて行き、明治から大正にかけての佐賀ンマチから神埼あたりまでも流して歌い廻ったと言う。その家のことなどを読み込んで即興的に歌うのが、得意だった。三味線も名人の域にあった。昭和の始め、90歳で亡くなったが、蓮の池節は今も宴席は勿論、テレビ等にもとりあげられ、トコトコ政市たんの愛称と共に何時までも人々の心に残るであろう。 「おりきんばっちゃん」は、対話体のなかに実に見事に方言が生きている。どこか仁輪加でも見ているような、思わず微笑を呼ぶものがあり、半面、かくされた哀愁といたわりを感ずる。蓮の池節の樺島政市の作ではないかとの説もあるが、つまびらかでない。
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おりきんばっちゃん(蓮池バージョン)
「おりきんばっちゃん どけ行くかんた 目ぐすいびんば さげて つっくるびーて 鼻たれて 私しゃ中地名の(本来は私しゃ通い小路のぇ) 久保さぁんへ(本来は黒田さん) 目のようじょう いつからや おとちぃから そりゃ又きつかない とこ電信柱に 頭入(ずくにゅう)どんば 打ったくらんごとない♪」 100年程前、中地名(現在の中地)には久保眼科医院があった(現在の糸山氏邸)。広滝に発電所が出来て、大正4年に電気がきていることから考えて、電信柱は随所に立てられめずらしかったと思われる。 故におりきんばっちゃんは樺島政市の作として、蓮池の人々に親しまれている。 樺島政市の生涯は、1844年から1935年(91歳)である。 昭和49年(1974)に書かれた『芙蓉校百周年記念』の本に、100年前の中地の地図がある。100年前とは明治7年(1874)で、その地図に「久保眼科病院」が見える。樺島政市、30歳頃と思われる。このことから、樺島政市の作ではないかといわれている。
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民謡
○ 姉と妹とそろいの浴衣、どちが姉やら妹やら。 ○ お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで。 ○ 歌いなされや、お歌いなされ、歌で御器量はさがりゃせぬ。 ○ 今年や豊年、穂に穂が咲いて、道の小草も米がなる。
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子守り唄
○ この子ようなく人目に悪い、たたくつねると思われる。 ○ 旦那よう聞け 奥様ようきけ、守にくけりゃ 子にあたる。 ○ 守のつらいのは 日暮れと朝じゃ またもつらいのは雨降りじゃ。 ○ 守は憎いとて 破れ傘させりゃ かわいわが子は雨ざらし。
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手まりうた
1かけ2かけて3をかけ、4かけて5かけて6をかけ、7のらんかん腰をかけ、はるか向こうをながむれば、17、8の姉さんが、花と線香手に持ちて、モシモシ姉さんどこへ行く、私は九州鹿児島の、西郷の娘でござります。明治10年3月に切腹なされた父上に、お墓詣りをいたします。お墓の前に手を合せ、南無阿弥陀仏と拝んだら、お墓の前の魂が、フワリフワリとじゃんけんぽい、蛇の目が芽をだして、つぼんでひらいて、エッサッサー。
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俚諺
○万の蔵よりゃ子が宝。 ○三つ子の魂百まで。 ○葬式帰りの医者せんぎ。 ○円い卵も切りようで四角。 ○神に詣る夢は不吉 ○一文惜しみの百ざらい。 ○女やもめに花が咲き、男やもめに蛆がわく。 ○腹八合に医者いらず。 ○坊主憎けりゃ 袈裟まで憎い。 ○苦しい時の神だのみ。 ○出物はれ物所きらわず。 ○夏の夕やけ河越えするな。 ○遠い親類より近い他人。 ○亀の甲より年の功。
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本庄のわらべうた
誰もが子どものとき歌った童謡の数々も今は時代とともに忘れられてしまった。正月を迎えるわらべうたを記しておく。 「正月さんの来んさっ時や、何ん持って来んさっしょ、つんのはにもろもき、橙ところや俵箸、蜜柑に栗々、吊柿や」 蛍籠を提げ、笹竹を持って、宵闇の川岸の辺を走りまわった「蛍取りの唄」がありました。 「ホ、ホ蛍来い、あっちの水ァにがいぞ。こっちの水ァ甘いぞ。ホホ蛍来い」 「ホ、ホ蛍にゃ水くりゅう、堀の水くりゅうか。川の水くりゅうか。堀の水くりゅうよりか、川の水くりゅうよ」 7月の七夕さんの唄もよく歌った。 「七夕さん、七夕さんたなから落ちて腰打って痛さこらえて西瓜半分」 昔は堀に鷭(ばん)やカイツブリが水藻のなかに泳いでいるのをわらべ同士でからかった。 「きゃァつぐろの頭に火がついた。ブルッとすんでチィ消えた」 鞠つきの唄も色々文句がある。 「からたち、から梅、からすが一羽止まった。この手鞠ぁ、誰にあげましょか。花の○○さんにあげましょか。ヨウ受取んさいの」 名を呼ばれた娘は鞠を受取ったら直に「ヨウ受取りました」と続けまた前の唄を歌う。 正月14日の土龍打ちの唄。 「長どん、長どん山へ行くけんこんかん、鉈(なた)も包丁も持たんこんな貸そだん、貸鉈イヤ、イヤ十四日の土龍打ち」(※以下、繰り返し。)
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民謡菱やんよう
「菱やんよう」 佐賀の新民謡。作詞者・豆田光夫、作曲者・原岡研一。 菱やんよう 菱やんよう 菱を売る娘の呼び声に 呼び声に 菱も食べたや 顔見たや 顔見たや 菱やんよう 菱やんよう 菱売り娘は村娘 村娘 年は二十歳か 品のよさ 品のよさ 菱やんよう 菱やんよう 菱の秤は山秤り 山秤り 可愛い上目で ちょいと見る ちょいと見る 菱やんよう 菱やんよう 菱を売り売り帰り道 帰り道 十五畷で 待つというた 待つというた 原岡研一は、本庄町寺小路出身で音楽教師。昭和23年(1948)に成章中学勤務。この頃から作詞者・豆田光夫とのコンビで「菱やんよう」をはじめ10曲の作品を生み出した。この「菱やんよう」は、当時の風情を感じられる佐賀地方の代表的な民謡。
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民謡ひし取りのうた
「ひし取りのうた」 ひしの稔りは あたりの年か 堀にひしの葉 たったげな ひしは大菱 久保田の菱か 味は本庄の中島か 菱の実をとろ はんぎでとろか 堀にやんまが すいと飛ぶ ひしも待つのか その手を待つか 村のむすめの白い 手を 菱はにょっきり なぜつのたてた 若い二人に やいたのか 若い二人は 佐八とお米 半かげお月の 出たよいに 半かげお月も きき耳立てた ひそひそ話は 堀の岸 菱の稔りは あたりの年か ひそひそ話に あてられて
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本庄村史蹟めぐりの歌
十五畷の戦跡 天文二十二年春 十五畷の朝ぼらけ 星影淡き陣営や 空しくあせし旗幟(はた)の色 うつらう花と諸共に 益荒男(ますらお)逝きて四百年。 戦塵の跡偲びつつ 行けば程なく産土(うぶすな)の 神おはします宮ところ いつきまつれる淀姫の 深き恵はとこしへに 郷(さと)の栄や守るらん。 群立つ杉に風すみて 霊香そぞろ身に迫り 苔むす石碑往く年の 歴史(ふみ)語るかな高伝寺 御霊廟(おたまや)まもる芝草に 遠き者をたづねてん。 勇将鍋島直茂公 剛勇果敢今山に 勝鬨(かちどき)あげし勇将の 産声あげし円塚よ 樹々の緑も香はしく正義の烈士育みし 名もなつかしき西河内。 都を遠く西海の 不知火もゆる火の国に 掩(おお)へる雲を払はんと 龍造着きて二千歳。 雄々しき御名を得給ひし 尊の雄姿偲ばずや。 旗幟大内幟 肥前三十三ヶ所の 十八番の札どころ 旗幟の名残る観音寺 星霜茲に幾年か。 名に負ふ松の深緑 昔の夢や結ぶらん。 遠き昔を想ふ時 血潮は胸に躍るなり。 父祖の教を身にしめて 希望に生きん若人(わこうど)よ 誉と共に伝へなん 千本松の館跡。 柳河攻 慶長五年 鍋島直茂・勝茂父子 立花宗茂を討つ 妙玉寺 石井茂賢其他の墓のある所 柳河攻の激戦に 誓ひし誠一筋を 貫き通す五十年 君に殉ぜし十八士。 花と散りにしもののふの その名伝ふる妙玉寺。 野辺の千草に秋更けて よせ来る嵐すさまじく 飯盛城の炬は消えぬ。 物具堆みて焼きすてし 名も灰塚の跡なれや つはもの共が夢いかに。 争奪やまぬ戦国に 我が家龍氏守らんと 九十二年の生涯を 捧げ尽くししその苦節 女の身には重かりき 尼公偲ばん慶誾寺。
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雅楽(おんがく)
昭和7年高木瀬町坪の上、淨満寺住職の指導を受けて、始められ現在に至っている。地元では、「おんがく」といわれており、毎年、地域の敬老会で演奏されているが、そのほか葬儀のほか出演依頼があるが、可能な限り引き受けている。 構成は、カッコ、タイユ、テキ、ヒチリキ、ショウ、カネの6人であるが、団員は13名で、後継者の指導も行われている。
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あゝ佐賀城
作詞 諸隈 廣満 作曲 坂井 元次 編曲 諸隈 廣満 1.楠の茂れる城垣(しろがき)に 春秋重ねし苔の色 瞼をとじてたたずめば 星霜(せいそう)語る声聞ゆ 2.続き櫓(やぐら)の甍(いらか)映(は)え 聳(そび)え輝く鯱の雄 門扉(とびら)に矢弾(やだま)の傷深く 天守の閣は何想う 3.めぐる濠面(ほりも)の水碧(あお)く 何を写さん影映(は)えて かいまに城の消ゆと言う 巧もゆかし沈み城 4.水ヶ江・村中・佐賀城と 移りし城はかわれども 変らぬものは葉隠か しのぶ小路(こうじ)の城下町 あゝ城下町
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おりきんばっちゃん
一 おりきんばっちゃん どけ行くかんた 目ぐすいびんばさげて つっくるびーて 鼻たれて 私しゃ通い小路(くうじ)のぇ 黒田さん 目のようじょう いっからや おとちぃから そりゃ又きつかない とこ 電信柱に 頭入(ずくにゅう)どんば 打ったくらんごとない 二 おりきんばっちゃん どけ行くかんた しっきれジョウリひぁーて じんぱちがさどみゃ ひっさげて 私しゃ 娘がえぇ 田植がせぇに いきよったい 何で行く あゆうでさい そりゃ又きつかない とこ うまんビーどんに トイコのふしどめゃ しいちかれんごとない
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蓮池節
蓮池の在郷辺から 糊つけ着物に 小倉の帯しめ 願正寺参りさす時ゃ ちょうどさいば藁人形 一で赤いもんな 法印さんの衣か お稲荷さんの鳥居か 朱か紅か お猿さんのお尻か 酢海老のいでがらか 次に白いもんな 豆腐に初雪 源氏の白旗 横丁のまんきやの白壁に お姫さんの内ももど 高砂のじさまとばさまが 小松の木蔭で ロすいたのを 鶴と亀とが 上下からのぞいて 若い衆は何となさるかい お前や忠信さんかい よもや狐じゃあるまいけれども この鼓をぽんと打ちゃ きゃんと鳴く 静は踊り出す 蓮池町は戦後の町村合併により現在佐賀市となっているが、市の中心部から約6キロ、佐賀平野の東南隅、筑後川の下流域の水郷地帯の中に位置する旧城下町である。 藩政時代は蓮池鍋島といわれ、佐賀藩36万石の一支藩であった。したがって葉隠で代表される旧藩時代のおもかげが、今も町並、風習、言葉づかい等に色濃く残っている。もともと佐賀地方には面浮立、田楽等の民俗芸能か、箪笥長持唄、万才くずし等の祭祝行事とむすびついた民謡のほか、特にすぐれたものがないのは、佐賀藩の方針としてきわめてきびしい勤儉令を実行し、歌舞音曲や芸事は軟弱とする気風があったからだといわれる。蓮池も他の鍋島家中と同じく、質素儉約、文武両道の奨励の気風の中にも仲々の芸所として知られている。その蓮池町に大正から昭和にかけて樺島政市さんという盲人の三味線上手があったが、妻女のおしげさんに手をひかれて門付けをして人々から大変したしまれた。この政市さんがつくったのがこの蓮の池節、水田耕作を主とする農民生活と古雅な城下町の人情、風俗をおどけた調子で風刺描写して大変よろこぼれたそうである。
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「蓮池節」と「おりきんばっちゃん」-願正寺参りのうた
願正寺は江戸時代を通じ、佐賀藩全体を束ねる触頭(ふれがしら)として、藩や本願寺との関わりも深く、また、信仰的にも中心寺院として藩内一円から多くの参詣があった。「願正寺に参れば御本山に参ったも同じ」といわれ、御正忌報恩講や春秋の彼岸法要の折は、たとえば諸富の街道は朝早くからカラカラという下駄の音が途切れなく続いていたそうである。脊振の山などから一晩かかって歩いてきていたという寺の参道には念珠などを売る店も立ち並び賑わっていた。蓮池方面からの願正寺参りを面白く歌ったのが蓮池節で、佐賀お座敷歌として花柳界などで流行した。作者は門つけをしていた樺島政市さんで、明治、大正、昭和と、蓮池から佐賀に出てきて、三味に合わせて歌いつづけていたそうである。また、「おりきんばっちやん」の民謡は、本来、一番だけが伝わってきたが、近年、願正寺参りの歌詞なども加わり、ユーモアたっぷりに歌われている。どちらも踊りの振り付けがされている。 なお、昔は交通の便もなく、地方から佐賀の街に出ることも少なく、願正寺参りなどで佐賀にきたついでに呉服ものを買う人が多く、門前町として、呉服屋が多い呉服町などが形成されたといわれる。