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[旧佐賀市][ 農業]は7件登録されています。
旧佐賀市 農業
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佐賀の稲作に就いて
昭和天皇陛下県下御巡幸の際、牟田熊吉氏が佐賀市楊柳亭において佐賀県民代表として15分間、「佐賀の稲作に就いて」と題して御進講申し上げ、その節御下賜の煙草1個を拝受する。 【牟田熊吉略歴】 昭和27年10月〜31年10月 兵庫村教育委員 昭和35年6月〜44年5月 兵庫村農業協同組合長 昭和38年6月〜44年5月 佐賀青果市場社長 昭和50年11月11日 県功労者表彰 佐賀県知事池田直
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兵庫町排水対策委員会沿革
町代表有志73名 町内の各河川や堀が逐次その排水機能が不円滑なため農業経営上支障箇所の増大に伴い、最も下流地域の用排水に困難を極め、更にこれが原因は町の下流排水路に問題があるため町の内外を問わず改善に努力し、関係機関と協議して水利行政の徹底と改善の促進が必要であったため設立された。
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鍋島産業組合(農協)
鍋島町は昔はほとんどが農家で、農協は鍋島町としても重要な施設でした。昭和6年に農会が鍋島村役場内に併設され、農家の経営や技術指導を行ってきたが、昭和12年に村役場の南に産業組合として新築され独立し、終戦後には農業協同組合となり、昭和41年に佐賀市に合併して、佐賀市農協鍋島支所となった。その後、300m北の現在地(開成三丁目)に建物が移転している。 鍋島町は市街化と共に開発が進み、新栄、開成と行政校区が分離となり、自治会組織は独立して運営されているが、農家組織である生産組合は従来どおり鍋島町の農協組織の中で運営がなされている。
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佐賀県開拓農業協同組合及び池田直県知事揮毫の石碑
1、開拓農業の発足 ○緊急開拓事業は、第二次大戦後の混乱した世相と危機に瀕した国民経済の中で、食料増産と民生安定という、極めて緊急度の高い国家的な要請を背景として、昭和20年暮れに始められた。 ○昭和20年秋「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定され、戦後の開拓事業がスタートし、昭和48年開拓行政に終止符が打たれ、一般農政へと移行されるまで、約30年間国家プロジェクトとして国・県・地方・開拓者及び開拓農協等が一体となって推進された。 ○戦後の開拓事業は、敗戦による様々な混乱の中で、緊急対策として着手された。 2、開拓農協の発足と経緯 ○開拓農民の協同組織・・・最初は、国・県の指示等を受け入れる開拓者側の窓口が必要になった。 最初の時期は、開拓団長による統率が行われた。 ●30~40戸の開拓団長・・・団員を指揮監督しながらまとめる。 ●公募が行われる・・・月報100円、海外の経験者等応募者多数が殺到した。 ●10名ほどを採用。「○○開拓団」とよび、大小の任意組織が作られた。 その後、国の指導で「開拓農業協同組合」に統一された。 これが、開拓者の相互扶助組織となり、対外的には折衝の窓口となった。 ○開拓農協の設立 ●昭和22年12月・・・農協法の施行に伴い、「開拓農協」の設立が急速に進められ、 ●昭和22年末・・・県下で58を数えた。(1単協の平均の規模は、10~20戸) 開拓農協組合も、激しい時代の変遷の中で、開拓組合農家と共に歩んだ ●昭和23年・・・県下57の開拓農協を背景に、「県連合会」が設立された。 ●昭和28年・・・県下の開拓農協・・・85を数える。 *県下の入植戸数は、・・・・・1,800戸 *一組合平均の加入者数・・・・ 21戸 *団結力、連帯意識は抜群、組織の零細性が弱点 ○開拓農協の合併 ●昭和30年・・・国は、開拓農協の整理統合方針を打ち出す。 ●昭和29年~昭和33年の5カ年間(第一期の整理統合) *昭和28年の85農協 → 昭和33年の5カ年間で、51農協に統合 ●合同事務所の設置 昭和35年~昭和40年・・・国の方針で合同事務所の設置が進められ、県下に11の合同事務所が 設置される ●昭和44年の「県開拓農協」の規模・・・組合員数 914、・職員数 25人 ●昭和49年・・・開拓行政の終了と一般農政への移行に伴い、「佐賀県開拓農業協同組合」が県 等の行政及び他の農協の一切の業務を引き継ぎ、一本化され現在に至る。 3、若宮地区への組合移転と石碑建立 昭和52年11月、「佐賀県開拓農業協同組合」は、佐賀市松原町から現在地に事務所移転された。 昭和53年11月、事務所移転を記念に、開拓農業の歴史を永く後世に伝えるため事務所前に、二基の大きな石碑が建立された。 ①佐賀県知事、池田直氏揮毫の「拓魂」(高さ1.45メートルの自然石) ②佐賀県副知事 宮崎善吾氏揮毫の「畜魂碑」(高さ2.25メートルの自然石)
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米搗きの水車
山村、山麓で多く見られた水車が、多布施川流域に5か所もあった。今は、電気で精米したり製粉したりするが、昔は水車でしたものである。 多布施川は、人工河川で両側の田圃より川床が高く、潅漑用水に利用された関係で、多布施川から取水した用水路を利用し、水車の設置場所を深く掘り、水の落差を利用して水車を動かした。この水車は、大正末期電気精米が出現するまで使用された。 5か所の水車小屋の位置と経営者は、小柳氏(神園3丁目古賀四郎氏宅)、大塚氏(栴檀橋東側)、瀬戸口氏(神園4丁目)、山崎氏(多布施鉄橋東下)、岩橋氏(天祐寺川中高橋東)であった。 水車の経営は勝手にはできなかった。明治14年(1881)12月に「水車取締規則」が県(当時は長崎県)から出された免許が必要であった。規則には「方三十間以内居住の人民及び飲用水又は作用水は勿論、水利上障碍なき旨関係人民又は其の人民総代の承諾書を添ふべし」とあり、今のような企業優先ではなく、地域住民の生活環境がよく考えられていた。
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県営圃場整備事業鍋島地区
本地区は、佐賀市の西部に位置し、南は嘉瀬、開成校区に隣接した地域であり、国道34号線が地域南部を横断する重要な中継点となっている。圃場整備前の圃場は、区域が狭く、不整形で、クリークや水路、道路の幅員も狭く蛇行しており、大型機械による営農に支障をきたしていた。また、低平地でクリークの水位が高く維持管理に多大な労力を要することと、地下水位も高いため裏作や園芸作物導入の阻害要因となっていた。 一方では農業への就業者の減少や雇用労働者の不足と労働賃金の上昇等で農業経営は厳しい状況である。従って圃場整備を行なうことで圃場区画、農道、用悪水路の分離等を実施し、農地の汎用化と大型機械の導入が可能になったことで、地区の特性をいかした総合的な農業経営の発展を目指すことができるようになった。 ・ 工 期 : 平成8年度から15年度まで ・ 受益面積 : 73.1ha (水田67.6ha、畑5.5ha) ・ 受益戸数 : 111戸 ・ 総事業費 : 19億円
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鍋島の特産物
佐賀にはまるぼうろ、神埼にはそーめん、小城には小城羊羹がある。それぞれ各地の特産、名物のことで各地の代名詞のようになっている。 鍋島は昔から野菜産地として知られている。蛎久牛蒡、増田蕪、植木茄子がそれである。増田の古老の話によると、青年時代には堀にある夏の浮草を集めて畑を深く掘って埋め、腐敗さして肥料づくりをして畑を肥やしたそうである。それも他の農業地帯と同じく、水ぐるまふみ、田の草とり、害虫消毒などの水田作業の余暇にさせられた。それはそれはいやな骨のおれるつらい仕事であったそうである。その様な重労働のために地元だけでは人手がたりず、季節労働者として毎年天草方面から出稼ぎに来る若者も数多くあった。その出稼若者たちの中から、実直健康な青年が見込まれてむこに選ばれた人も何人かある。そしてつい最近まで、作業歌として次の様な歌が残っていた。 いやな鍋島 地獄の増田 なさけないのが 津留 角目