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[旧佐賀市][ 工芸技術]は8件登録されています。
旧佐賀市 工芸技術
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福徳招来の額
大黒天と恵比寿天のにこやかな面をはめ込んだ横幅80cm、縦40cmほどの横長の額が、古い家の座敷や居間に掲げてあるのをよく見かける。額の真ん中には墨痕鮮やかに「笑門来福」と書いてある。この額は天草江、嘉瀬津、元町の特産品で、かつては日本全国を股にかけて販売されていたものであるが、今では製造所が元町にただ一軒残っているだけである。
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瓦焼き
圃場作土の下にある粘土を材料にして屋根瓦を焼いていた。燃料は石炭で、燃え残りをガラとよんで、タドンなどをつくっていた。
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味志瓦の元祖
瓦焼が繁栄を極めたのはこの地では明治以来のことで、その以前には味志家の独占場であったといわれ、このことは、味志家の系図等によって知ることができる。 これによれば、味志家は小川総右衛門と共に藩祖鍋島直茂に仕えて瓦焼を業として、一手にやっていたが、その後、小川家は安住(北川副)に御免地を賜わり、味志家は今の長瀬町の与賀神社下宮の北東一帯の御免屋敷を賜わり、味志・小川両家は名実共に瓦焼を独占した。豊臣秀吉名護屋城築城に際して瓦の納入を仰せつかり、子孫の専業を公許された。今日味志家は昭和35年頃瓦業のすべてを閉じてしまった。
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肥前ビードロ
専修寺から与賀神社の方へ200mほど行った左側に、副島硝子工業がある。間口の広い店で、美しいガラスのコップや水さし、花ビン等、たくさん陳列され、佐賀県でただ一カ所、肥前ビードロを生産している所である。700坪の工場が裏にあり、貴重な文化遺産である手づくりの吹きガラスを作っている。 鉄製の細い吹き竿の先に熔けたガラスをつけ、息を吹き込んでふくらましながら形を整えて行く、宙吹きの技法は日本独特のものである。ガラスの製法は、長崎から大坂、そして江戸へと伝わった。幕末には各藩でガラスが製造されたが、嘉永年間、鹿児島藩が皮切りで、ついで安政年間に山口藩と福岡藩、ついで佐賀藩もこれにならった。佐賀藩主の鍋島直正は、嘉永5年(1852)に西洋技術を取得する為に、上多布施に精煉方を置き、洋書翻訳、科学実験などを行なったが、ガラス製造もその一環となるもので、化学薬品の容器を作るのが目的であった。 万延元年(1860)に藩士佐野常民の管理のもとに創設された。ランプや食器には切子(きりこ)もあり、明治維新後も鍋島家では同工場を引継ぎ経営した。 ひところは県内で70軒もあったが、現在では精煉方より独立した副島硝子工業1軒となってしまっている。 江戸末期の伝統を守り、佐賀県はもちろん、長崎の土産品(長崎ビードロ)としても作られている。
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御用瓦焼きの跡
藤木に佐賀藩の御用瓦焼きを置いていた。『弘化二年の総着到』によって、石高を見ると、土器師、家永吉次郎、3石6斗、弟子1人1石8斗として扶持米を給されていた。
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鍋島緞通
中央アジアからトルコ、中国を経て国産の絨毯が誕生したのは、元禄年間(1688〜1704)ではないかと言われている。 伝えられるところによると、有明海近くに住む農民、古賀清右衛門が鮮やかな色文様を入れた木綿の敷物を織ったのが最初だという。当時、華やかさから「花毛氈」と呼ばれていた。その評判を聞いた佐賀藩3代藩主、鍋島綱茂公は技術を保護し、佐賀藩御用となり、その製品は一般への売買が禁止され、将軍家への月並献上品に指定された。 明治時代に鍋島緞通は一般への販売が開始され、大島貞七という実業家が大々的に販売を手がけていた。織り手の育成が急務となり、刑務所などでも技術指導が行われ、そのころ佐賀刑務所に勤務し、更生事業を担当していた吉島正敏は、大正元年に独立。鍋島緞通製造販売を家業として開始した。
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白石原の瓦
享保の佐賀の町大火(1726)で、佐賀城内外は灰じんに帰し、1835年(天保6)には再び二の丸が焼けた。この頃鯱の門は二の丸に在った。翌年本丸を再建するとき鯱の門を新たに現在地に造営している。 このとき、白石原の瓦工早田夘太夫英興という人の作った鬼瓦が上棟されている。同時に屋根瓦制作も命じられたであろう。 写真のとおり、この様に大きな、然も肉厚い焼き物は当時の作品としては珍しい。良質の土を見付け、十二分にこね、歪を避けるための逃げを巧みな曲線で成形し、焼くときの火の強さ・時間を加減し、火のまわり具合を均一に工夫し、また燃料材も選択し焼成されたであろう。不均衡な曲がりや亀裂が完く見当らない。 作者は、自信と誇りを持って、裏にヘラ書き銘を遺している。 久保泉公民館保管の仁和館鬼瓦も立派だが、型が小さく、銘がない。 敗戦直後までは、10軒位の家で嶺瓦・井戸瓦・鬼瓦・つぼ・火鉢等が丹念な「紐造り」手法で作られていた。白石原の地名からして良質の材料と秀れた技術集団が古くからここに存在したことを物語る。名護屋築城には白石原で城瓦を焼いたという。 肥前の瓦焼きは、大化の改新頃との説があるが、肥前のどこかわからない。土師の職制は大和朝廷にあり、土器の製作も担当。土器師土屋が当地へ来て土器を製作「土屋大明神」の碑があることになっている。 白石原の墓碑「カオンサン」はこの土器師なのか、開拓者なのか、白石原と深い関係があることだけは間違いない。 白石原は、春日の国府と神崎の庄を結ぶ街道筋であった。
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川久保の笊笥づくり
川久保一帯は、里山の麓に集落が散在し、中心部に川久保宿があった。古代には中央政府の大宰府や肥前国府の尼寺を結ぶ官道が通り、戦国期には神代氏の出城があったが、徳川時代には山を下りた神代氏の城下町としての形態を整えていた。古代から西の都渡城(大和町)、東の仁比山などとともに山間部・平野部・海岸部との交易地として栄えていたらしい。そこでは竹製品の「ざる」なども交易されていただろう。 大政奉還、明治維新を経て時代は様変わりしたが、手工業の竹細工などは自家製として細々と作り続けていたと考えられる。古老によると「明治後、下級武士の内職として笊笥(そうけ)つくりが広まったと聞いた」という。特に竹林に囲まれていた西原地区に笊笥(そうけ)つくりは多く、上分、宮分、下分、そして宿場の町分などにも散在していた。大正時代から昭和初期、戦後までの笊笥(そうけ)づくり系譜をたどると61戸が数えられるという。その半分以上35戸は、西原居住者だった。 作っていた笊笥(そうけ)は、普通は真竹でつくり、万石(まんごく)そうけ、担いそうけ、飯そうけ、うどんてぼ、芋てぼ、酒てぼ、ウナギ・カニ・ドジョウのうけ、ほげ、だんべいなど17種類、各大、中、小と作っていた。戦後混乱期の物不足時代には、笊笥(そうけ)類も需要に追いつかないぐらいに業者が仕入れに来ていた。特に、ほげ、担いそうけなどは、炭鉱の作業具として作っても作っても売れていたという。それも昭和30年代までで、プラスチック製品が安価で普及すると急速に竹製品は廃れていった。今では笊笥(そうけ)つくりを伝える人もほとんどいなくなった。