クリーク(ホイ)
日本一の干満の差(5.5m〜6m)をもっている有明海は、堆積作用と河川の土砂運搬作用とが相まって、河海性沖積の干潟が発達し、自然陸化及び干拓されて、佐賀平野が成立し、そして、今もなお、有明海の海岸には年々7cm〜15cmの堆積がくり返され、背後地の排水性を悪くしていて、排水を図るためにも、干拓をし、クリークを作らねばならない宿命をもっている。
広大な平野に水を溜め、農業用水と生活用水とを確保し、併せて水害を防ぐために水路を開くことは、水田を開発し、新しい農村を作ることであった。
この巨大な水利体系は、およそ360年間変化することなく農業を守りつづけ、クリークからの揚水手段が、非能率な「打桶」から安永年間(1770〜)における画期的な「足踏水車」となり、ついで大正11年(1922)の飛躍した「電気機械灌漑」へと変遷してきても、樋管がコンクリートになり、昭和32年(1957)に北山ダムが完成するまで殆ど変化せず、佐賀平野の農地を潤して、その使命を果たし続けた。
クリークが筑後川の河口へ出る寺井樋門に至る新川は川幅も広く、野町地区は農家の裏に舟が着くようになっており、田から籾、肥料(こやし)、稲わら、裏作の収穫物から麦わらなどのかさばる物の運搬に、農家の舟が昭和の初めまで往き来したのは、クリークの利用上、特記に価する。
「ホイ」をクリークと呼ぶことは、もはや全国的傾向で、このクリークという英語のもつ意味が「ホイ」の実態を表現している。
しかし、この「ホイ」という言葉には、封建農民が駆り出され、全くの人力で掘り上げて作った、汗の結晶であることが意味されている。
今日まで、その恩恵を受け続けている農業者の、決して忘れてはならない言葉である。