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[久保田町][ 地名・とおり名]は34件登録されています。
久保田町 地名・とおり名
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町東
交通の変化と国道改修で変わってきた 町東は、久保田町の北東で国道207号線(旧長崎街道)沿いに位置し、徳万宿の中井樋から東の集落をいい、嘉瀬川の西にあたる。徳万宿は、江戸時代の参勤交代街道の宿場として繁栄した宿で、鍋島本藩が長崎警備にあたっていたころは往路、復路とも必ずこの宿で休憩をしていたのである。この休憩所は、現在の鶴丸邸と森山邸の間といわれている。また、この附近には半里塚が置かれてあったが、昭和12年頃の国道改修で取り壊されている。今では、ほとんど知る人もいなくなった。徳万宿は、天明3年(1783)「天明郷村帳」に徳万村の小村として記録され、「明治七年取調帳」では徳万村の枝村として記録されている。「明治十一年戸口帳」によれば、徳万村のうちに「徳万宿」とあり、戸数158戸・人口814人と記録されている。 村の中に町がある いつから町東と町西に分かれるようになったかは知る人もいないが、明治22年村制施行当時は、徳万町東、徳万町西の記録がある。後年徳万を取り除き町東、町西と呼ぶようになったと思われる。この地区が徳万町と呼ばれていたのは、嘉永3年(1850)の野田家日記には「四月二十七日少将様長崎御越、五月六日御帰り、この節は始而徳万町清助宅ニ御小休有り」とあり、徳間の原田利春さん(71)は、「15年程前に古川源吾さん所有の畑で元禄13年徳万町と彫られた石の台座を見たことがある」と話されている。町(まち)とは、往時は人家が密集し、物を商う店が集まったところをいい、徳万町は牛津や三日月・芦刈などから買い物客があり、「村の中に町がある」といわれるほどの賑わいをみせていた。この集落には、呉服屋、仕出屋、茶店、金物屋、床屋、銀行、材木屋、石材屋、綿屋、菓子屋(千鳥饅頭本家など)、蒲鉾屋、桶屋、豆腐屋、醤油屋、時計屋、独楽屋、雑貨屋、米屋、コンニャク屋、造り酒屋(老松)、医院、生糸屋、紙屋、駐在所、ガラ屋(燃料)、そうけ屋、質屋、八百屋などがあり、土手の山田商店は人力車の寄場であった。 嘉瀬橋は急な登り この集落の東に嘉瀬橋がある。嘉瀬橋の記録は、延宝9年(1681)佐賀藩主鍋島綱茂のとき、廻国上使に差し出した書付に「嘉瀬川・広さ五十間下砂橋有」とあり、すでに橋が架かっていたことを知る。この嘉瀬橋を上がるには、登りが急で荷車を馬車引きさん達が3、4人協力して上がっていったという。同集落の古賀信行さんは、「子どものころ、馬車が後ずさりしないように石を持っていって、小遣いをもらったことがある」と話されている。鶴丸ミキさんは、「夏は、嘉瀬橋に夕涼みにでていった。向こう岸にはお月さん茶屋があり、橋の上は暗かったが『かんたろうあめ湯』が売られ楽しみでもあった。また、嘉瀬川はきれいな水が流れ、川底は砂地で、子どもの頃はいい遊び場だった」と話された。嘉瀬橋の坂を下った道路北側に若宮社がある。祭礼は旧暦の6月13日で、豆祇園であった。戦前は、舞台掛けの狂言が行なわれたり、夜店が出たこともあった。また、中井樋の南に太郎次郎社があり、町西の東側と町東の西側の数班が氏子で、祭礼は旧暦6月14日となっていた。現在は、若宮社が7月の最後の日曜日で、太郎次郎社が8月の最初の日曜日となっている。若宮社の隣に村田家の御茶屋があった。藩主や上使衆の休息所として利用されていた。現在の西佐賀水道企業団の敷地である。徳万町は、交通事情により徐々に変化してきた。昭和12年の国道改修、この頃は大型バスがやっと通れるくらいの道幅であった。次に昭和24年頃に行われ、近年は昭和37年に嘉瀬橋の架け替えとともに行われている。この国道改修で住家の移転が行われ、次第に商店や住家が減少し、車社会の進展とともに徳万町も以前のような活況は見られなくなってしまった。
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町西
以前は沢山の商店が並んでいた 町西は、町の北部で国道207号線(旧長崎街道)沿いに位置し、徳万交差点の東から中井樋までをいう。以前は、町西・町東を合わせて徳万宿といった。鎌倉期に記録されている名田名に得万名とあり、河上神社文書(仁治2年)に「得万三丁八段」とある。徳万は、得万名の遺称であろうか。名前の由来を知る人はいないが、辞典によれば徳は得に通用するとあり、得とは求めて手に入れるの意がある。万は数が多いことで、徳万とはいろんなものが手に入る所という意味であるかもしれない。 徳万宿の地形は戦時に備えた構えで、民家の作りは戌亥から辰巳に向かっており、街道面には三角形の空地を残し合戦の防御攻撃の拠点としてあった。宿場の中央を嘉瀬川より直流する川路を二分し、また民家の裏側には、北南とも小河川(3〜5m)を通し、家庭用水・防火用水を兼ねていた。この水路は、以前は水がよく流れ、子どもたちが魚を採ったり泳いだりする良き遊び場でもあった。 村役場や漁業組合も徳万にあった 道路北の中井樋附近に、大正の初め頃まで村役場があったが、火災にあい大正2年に小路に移転している。また、昭和12年に佐賀市営バスがバスセンターから徳万まで運行するようになり、集落の西端で道路南の空地がバスのUターン場所となった。その後この空地に建物が建ちUターン場所は変更になったが、昭和43年徳万行きのバスは廃止になった。この地に、昭和23年頃漁業組合の事務所が設置された。ここでは玄海方面からの魚介類が運ばれ、配給が行われていた。快万の志波政利さんは「漁業組合西のクリーク(3m位)に板が渡され、そこに沢山の魚の入った箱が並べてあった。また、魚屋さんたちは、魚が運ばれて来るまで自分の家(志波さんの家)で碁を打ったりして待っていた。女の人も2〜3人いたと思う」と話されている。この魚を受け取りに来る魚屋さんは、久富の人が多かったという。漁業組合は、海苔養殖が始まる昭和27年頃久富に移転している。昭和の初め頃まで、徳万の交差点に立っていると、香椎神社の森で鳴く木菟の声がし、嘉瀬川のせせらぎが響いていたと古老たちはいうが、現在は1日1万6,000台の交通量となっている。国道改修以前は、道幅も狭く、バスがやっと通れるくらいで、夏は道の両側にバンコ(幅50cm、長さ180cmぐらい)を出して夕涼みが出来るほどのんびりしていた。秋の供日の時は、町の中に砂を敷き、1軒1軒並んで浮立を打っていったという。昭和12年からの国道改修工事の時は、道路北側の民家が移転した。昭和14年改修工事が完成したが、広くなった国道に立った当時の高森豊吉村長は「これではまだ狭い」と呟いたという。力久一さんは「以前の国道は、天気の良い日はごみが舞い、雨が降るととばしがかかった」と話されている。また舗装工事は、昭和29年頃行われている。 病気やケガの平癒を願った薬師寺 集落の中程で、道路南に願福寺がある。以前の記録は火事で無くなったが、300年〜500年以前に三学寺の末寺として建立されたといわれている。この寺を古老たちは、薬師寺と呼ぶ。本尊が薬師如来で、病気やケガ・安産などを祈願する人が多いところからそう呼ばれた。この寺の境内に八代大明神の石祠がある。以前は、現在の位置より少し南の方にお堂があって、まつりの日(旧暦6月23日)には唄や踊りなどが奉納されっていた。現在は、町西の3班が受け継いでお参りをしている。 以前この集落には、医院・銀行・郵便局・呉服屋・ランプ屋・下駄屋・足袋屋・酒屋・仕出屋・薬屋・床屋・花屋・時計屋・竹屋・米屋・醤油屋・染物屋・左官・石屋・鍛冶屋・ヤスリ屋・マッサージ屋・せんぺい屋・とうす屋・仕玉屋・髪結い・八百屋・豆腐屋・鶏肉屋・風呂屋・蒲鉾屋・荒物屋・提灯屋などがあった。 徳万附近は、交通の便が良くなったが、人々の往来は少なくなり、商店も減少している。平成7年からは、交通の流れを良くするため、新たな交差点改良工事の調査も行われている。
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徳間
徳間は、町の北東部で国道207号線沿いの町東・町西集落の北に位置する。昭和13年徳万宿北裏の禅門井樋尻改修工事中、地下4~5尺位のところから弥生時代の土器が出土している。このことから、この地域には紀元前1世紀から3世紀ごろには久保田の先祖が住んでいたと考えられる。 明治15年の佐賀県各町村字小名取調書には、徳万村の小字に徳間の記録がある。徳間は、以前は快万と一緒であったが、生産組合の関係で昭和26年頃分かれたのであろうと古老たちはいう。徳間という地名は、明治時代に付けられたというが、名の由来を詳しく知る人はいない。徳万と快万の間にあるところから付けられたものであろうか。 町内用水の重要な取り入れ口 徳間集落の北東の嘉瀬川堤防に、町の重要な用水確保のための禅門井樋とその南に水取井樋(地元では、みっとい井樋と呼ぶ)がある。水取とは、水を取ることだが、禅門井樋はなぜそう呼ばれているか詳しくは分からない。また、いつ頃の構築であるかも分からないという。この井樋は、以前は木製であったが、昭和13年頃錠戸を石門の捲き上げ式鉄扉に改造された。藩政時代には、この禅門井樋と水取井樋の管理は武士が行っていたという。壽昌寺の遠田宗壽さん(84)は「昔は、井樋の管理を武士が周期的にやっていて、昼食の時はお寺に休憩をしにきていた。と子どもの頃父から聞いたことがある」と話されている。戦後間もなくまで、嘉瀬川堤防上に井樋番がいた。以前は、堤防には竹が生い茂り、その竹林の番も兼ねていたので、「ひゃーし番」とも呼ばれた。禅門井樋と水取井樋の間の嘉瀬川堤防上に大日観音(じゃーにっつあん)の石祠がある。昭和30年頃までは、秋に集落総出で弁当を持ってお参りをしていた。水取井樋の近くに徳久集落の公民館がある。大正の頃までは、この公民館から東は嘉瀬川の堤防であったという。川掃除のたびにここに砂を上げて高くなっていたので、高土井(たかでー)と呼ばれた。この砂は、大正時代に北田にある製紙会社の盛土に運ばれている。禅門井樋から乗越へ通じる道路は、以前はもっと高かったが、砂を運ぶトロッコを通すために平に削ったという。この道路は水受け土井と呼ばれ、禅門井樋から乗越までに33本の松があり、戦時中には大きな松の木のそばに防空壕が掘られていたこともあった。高土井の砂は、戦後間もなく進駐軍もトラックで搬出している。椛島ツルヱさん(74)は「その当時、近くの田圃に水を入れるため水車を踏んでいたが、砂を運びにきていた進駐軍の兵士5~6人が見に来たのでとても怖かった」と話されている。この高土井の中央付近に、大きな松の木があり、その側に昭和8年に馬頭観音が立てられたが、昭和21年ごろ嘉瀬川堤防上に移されている。 窓乃梅酒造も水汲みに来ていた 徳間公民館附近は、以前は川であった。明治の頃から戦後まで、水取井樋や徳間公民館附近から、冬になると窓乃梅酒造から5~6台の馬車が幅1m長さ4mぐらいの木箱を積んで水汲みにやって来ていた。水を汲んだ馬車が何台も通った集落の道は、馬車の轍のあとで雨が降るとぬかるむようになり、徳間の住民が補修をしていたという。大正時代の戸数は8戸ぐらいで、その中に乾物や麻製品を商う店があったが、昭和の初期に町東に移転している。集落の中程に壽昌寺と西に本能寺があり、その中間に陽盛庵という寺もあったが、150年ほど前に同じ臨済宗の壽昌寺に合併されている。この周辺には、桑畑が多くあり、大正時代に徳万町には繭・生糸仲買商が4軒もあったという。土橋俊一さん(83)は「大正時代は、徳間集落で3~4軒は蚕を飼っていた」と話されている。徳間集落には、昭和28年から事業が始まった県営水道事業(現西佐賀水道企業団)、昭和53年に送水が始まった杵島工業用水道企業団があり、また現在は佐賀西部広域水道企業団の建設工事が禅門井樋北側で行われている。 ※写真は禅門井樋
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徳久
邑主村田家の射撃場があった高土居(たかで-) 徳久は、町の東北部で嘉瀬川堤防西側に位置している。久保田町で高いところと言えば、嘉瀬川の堤防ぐらいである。古老たちは、この徳久附近を高土居(たかでー)と呼んだ。ここは、維新当時邑主村田家の射撃場のあった所である。大正時代には、この高土居から西肥板紙(現王子製紙)の敷地造成のために、砂の搬出が行われている。また昭和16~8年頃には、馬の運動場もあり、周りには大きな松の木が何本もあった。中副の古賀吉次さん(95)は「農家の馬を4、50頭集めて運動をさせていた。その真ん中には田圃があった」と話されている。集落の北に、水取井樋がある。嘉瀬川堤防上の水取井樋とその北側にある禅門井樋の間に、戦後まもなくまで井樋番の家があり、久保田の用水確保に努めていた。以前の嘉瀬川堤防は、竹薮が生い茂っていたが、萩やススキなどもあり風情があった。嘉瀬川では、砂取り船が川砂を上げ、川の中には鯉や鮒、5月には鮎が川を上がり、クマンチョエビなどたくさんの魚がいた。現在でも多くの釣り人たちがやってきている。この嘉瀬川附近で子どもたちは、竹の子を採ったり、近くのクリークでドジョウを獲ってきて「投げばい」をつけたりして鰻や鯰を釣っていた。しかし、この嘉瀬川も一旦大雨が降ると暴れ川となり、昭和24年・28年の大水害を引き起こした。昭和25年から嘉瀬川改修工事が始まり、堤防の補強やショートカットが行われ、昭和47年頃にはこの附近の竹薮も取り払われることとなった。同集落の山田實さん(72)は「堤防を歩くと季節の移り変わりを感じる。見晴らしが良くなった」と話されている。 昭和26年引揚者用住宅として建設 徳久は、昭和26年に引揚者用住宅として5棟10世帯、翌27年に5棟10世帯、またその翌年に5棟5世帯が賃貸住宅として建設された。当時の入居者たちは、20代・30代の若い夫婦とその家族で、住宅の間取りは6畳と4畳半に3畳の板の間(台所)、玄関、トイレであった。井戸は、2軒に1個造られ、土管3個できれいな水が出てきている。外には木造りの風呂があり、夕暮れ時には風呂を沸かす石炭の臭いがたちこめた。住宅ができた時、集落名を町内(当時村内)に一般公募され、当時町衆で医院を経常されて古川源吾氏の「徳久」に決定された。応募の中には「緑ヶ丘」や「新生」などの名称もあった。徳久とは、徳万の『徳』と久保田の『久』をとって名付けられたという。この住宅も、昭和48年当時の住人に払い下げられることとなった。 水取井樋附近は子どもたちの水遊び場だった 昭和29年水取井樋側から上水道が引かれる事になるが、その下流は子どもたちのよき遊び場であった。夏の水泳シーズンには、町内はもとより芦刈や三日月・嘉瀬などからも子どもたちが水泳を楽しみにやってきた。それこそ芋の子を洗うような状態であった。集落からこの水取井樋の水路を渡る橋は、昭和35年頃までは板橋で、その上から子どもたちが川の中へ飛び込む。ここは子どもたちの天国だった。当時この附近の川底は、砂地で水が澄み切っていた。初夏には蛍が飛び交い、たくさんのトンボもいて羽化なども見ることができた。この水取井樋の水泳場も、昭和45年から行われた国営幹線水路工事で中止され、その後は各学校にプールが建設され、子どもたちの水遊び場は終わりを告げた。集落が出来た当初は、現徳久公民館前道路を東に行った堤防下の広場に集まり、初日の出を拝み新年の挨拶を交わす行事が行われていた。この行事は、昭和30年代まで続けられたが、その後中断している。昭和49年徳久公民館が建設され、その後毎年1月の日曜日に新年会が行われるようになった。
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快万
小城、武雄への分岐点で交通の要所 快万とは江戸期の村名で、嘉瀬川の西にひろがる平野部に位置し、太俣郷に属する。村の石高は「正保国絵画」「天明村々目録」では、625石余。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」ともに1村と記録され、「天明郷村帳」では小村に宮ノ前・西泉がある。「明治七年取調帳」「郷村区別帳」では、徳万村の枝村と記録されている。名前の由来は、知る人はいないが、快とは「こころよい」満とは「いっぱいになること」であるから、快満とは「こころよいことがたくさんあるところ」即ち「住み良いところ」と言う意味かもしれない。古老達は「かやま」と呼ぶ。「かいまん」がなまったものか。快万集落は、主に徳万交差点より西側に広がる集落で、小城と武雄に通じる分岐点にあたる。以前は、今の徳間集落も快万と一緒であったが、昭和26年頃分離することになった。交差点南の旧長崎街道沿いに「久保田村道路元・佐賀県」の元標石が今も残っている。また、同集落の堤家の庭先には、人指で「おぎからつ・たけおながさきみち」の道しるべがある。大正の始め頃は、36軒ぐらいで30軒ほどが農業をしていた。快万に戸数が増えてくるのは、大正以降のことである。この頃、快万の長崎街道沿いで西の端(北田に通じる道の側)に茶屋が1軒だけあった。この茶屋を「かわそう茶屋」といった。旧長崎街道は道幅が狭く曲がりが多かったため、昭和10年頃の国道改修で徳万交差点から久保田宿に真っ直ぐに通されることになった。この時の国道改修は、北側の人家のみ移転して、道路南側の人家はそのままといわれている。同集落の南里辰男さん(87)は「快万に住んで、1番変わったことは道路が広くなったことだ」、江口克己さん(68)は「子どもの頃、この国道の改修工事現場にあったトロッコでよく遊んだ。また、旧長崎街道には小さな乗合バスも通っていた」と話されている。 小城へ通じる道路は明治時代 小城へ通じる道は、明治22年頃に造られている。当時としては、画期的であり、徳万交差点から小城町の入り口まで一直線で、まことに見事な工事だった。この小城県道が出来上がる以前は、鷹匠路の北側から字快満″エンシュウ倉濠〟の西側道路を経て、香椎神社本殿から下の宮に通じる道路を一の鳥居前で踏み切り、進んで旧長崎街道を横切り、原口甚六宅東側の蓮根堀岸に沿って北上し、村田九郎の北島屋敷附近を通過して、乗り越し井樋の水受土居を斜めに横切り、字東北田の東端を通り、小城藩字高田に達していた。この道は、リヤカーの車輪を片方田圃に落として通るぐらいの道幅だったという。 香椎神社の創建は安元3年 この集落の中心に香椎神社があり、創建は安元3年(1177)頃藤原利常が建てたとされている。祭神は神功皇后で、境内の楼門は県の重要文化財となっている。香椎神社は、久保田の産土神として、当時の歴代藩主の崇敬厚く免田の寄進や社殿の造営等を行っている。春・秋に例祭が行われ、戦前は一の鳥居までも多くの出店が並び、神社前の広場では狂言やにわか等も行われ、相当の脹わいがあった。この広場では、昭和32年に大相撲の興行があったことがある(現大島鉄工社宅附近)祭礼の当日は、早朝の花火を合図に5色の旗や鬼の面・天狗の面等を先頭に、浮立の笛や鉦・太鼓を従えた御神輿の行列が、下の宮(現博運社あたり)へと進み祭が始まる。浮立は、銭太鼓・もりゃあし・面浮立等が大字ごとに輪番を決め奉納されていたが、後継者不足で続かなくなり、昭和60年ごろから快万集落で浮立保存会を作り子ども浮立を奉納している。子どもたちは、この香椎神社の境内で野球や相撲・ビー玉・鬼ごっこなどでよく遊んでいたが、最近は境内で遊ぶ子どもたちを見かけることが少なくなってしまった。昭和61年には、香椎神社北側水路側に集落公民館や遊園地が新設されている。以前は、この集落にも鍛冶屋・石村・畳屋・薬屋・靴屋・酒屋・駄菓子屋・眼医者・饅頭屋(作一饅頭)・茶店などの小さい店が沢山あったようだ。原田樽屋は、大正元年の創業で現在も続いている。 ※写真は香椎神社
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小路
龍造寺政家の隠居地 小路は、徳万交差点から南へ300mほど下った県道沿いに位置する。明治七年取調帳では、徳万村の枝村に元小路の記録がある。明治十一年の戸口帳によれば徳万村の内に窪田小路とあり、戸数50戸・人口239人とある。 久保田の領主は、いろいろ変遷を見るが、天正12年(1584)龍造寺隆信が島原沖田畷の戦いで戦死し、その子政家は天正18年(1590)藩政を鍋島直茂に譲り久保田の小路に隠居した。政家の二男安良の時に、姓を村田と改め、代々久保田を治めることとなった。 素人仁○加も行われた御館社 5代村田政義の時に、龍造寺隆信・政家・高房(政家の嫡男)の三方を祀って御館社を建立した。御館社は、農業倉庫東にあり、県道側の参道に1基と境内に1基石の鳥居があった。参道から境内にかけて50本以上の大きな桜の木があり、春の花見シーズンには沢山の人々が訪れ、付近の家々には花見の宴の声が響いたという。 成清虎男さんは「戦後、春まつりの時に、草木田の志波儀六さんの指導で、小路の若い人たちが素人仁○加を4〜5年ぐらいやったことがある。その後、牛津の芝居小屋に出たこともあった」と話されている。また、春には近隣町村から小学校低学年の遠足などもやって来ていた。この御館杜は、昭和50年頃に移されている。 勢ぞろいする所「勢屯所」 7代政種の時に、屋敷の北方に新たに勢屯所を設けた。妙鎮寺の南東の県道周辺に広場があり、そこには小さな祠もあったという。勢屯所とは、軍勢を集める所と思われる。成晴ハツヱさんは「何か事ある時に勢ぞろいし、別れの松まで行っていた。と母から聞いたことがある」と話されている。また、本小路は家老屋敷と定め、南・西・北小路は物頭屋敷とし、東小路は平士族屋敷と定めた。 元小路バス停から、東へ150mほど行った所に大雲寺がある。村田政種は、宝永6年(1709)政家の菩提を弔うため、以前からあった多福庵を改築し、佐賀の龍泰寺14世治節和尚により龍洞山大雲寺を開山した。その後、村田家邑主の菩提寺となった。 小路とは、大路に対しての小路であり、辞典には狭く細い道のこと。こみちの変化。よこみち。わきみちとある。全国的には、武家屋敷のあった周辺を○○小路と呼ぶところが多い。 藩政時代この地域には、武家屋敷が多く、元小路(本小路)・北小路・南小路・西小路・東小路などがあった。明治以後集落名として小路となったようである。武家屋敷周辺には、堀(小川)を廻らし、その堀にカワジ(棚地)を作り用水の利用をしていた。カワジとは、佐賀の方言で物を洗う「洗い場」のことをいう。屋敷の北側で堀のそばには、防風林として竹が植えられていた。この竹は、防風林の役目だけでなく、屋根の葺き替えや焚き物などとしての生活必需品としても利用されている。また道路そばに植えられた竹垣は、戦時の矢竹としての役目もあった。 国道207号線の徳万中井樋から、西へ200mほど行くと県道と交わる道路がある。この道路は、以前は堤防跡と思われる。道路の両側には、大きな桜の木や松の木が並んでいた。以前は、4月になると徳万方面からくる新1年生は、母に手を引かれ、桜の花が咲き誇るこの道路を学校へ通っていたが、圃場整備後に現在のように改良されている。 この道路の中ほどから、南へ300mほどの道路がある。古老たちは、この道路を「きゃあもとみち(買戻道)」と呼ぶ。藩政時代に村田家に仕えるお女中さんが、徳万町への買い物に利用した道と伝えられている。地元では、この付近の土地を「きゃあもと」と呼ぶ。 以前は役場や学校があった 徳万交差点から約500mほど南へ行った道路西側に、天正4年(1576)龍造寺大和守泰長の息女で、隆信公の伯母妙鎮大姉が家運長く輝き、子孫繁栄を願って建立した元昌山妙鎮寺がある。境内入口横には、昭和12年に建てられた頒徳碑がある。これは久保田出身として初の衆議院議員となった石川又八氏の碑である。 思斉館は天明のころ この妙鎮寺から、南へ300mほど下った所に元小路バス停がある。このバス停から更に西へ80m行った道路南に、昭和2年4月に建てられた思斉学館跡の碑がある。思斉館は、久保田邑主10代村田政賢が藩士の教養を高めるために、天明元年以前よりあった学問所を増築した。政賢の嫡男11代領主村田政致は、先代に続いて学問所を改善拡大した。思斉館の創設は、昭和46年発刊の久保田町史では、天明4年(1784)とあり、県教育史では天明8年(1788)となっている。敷地は、約1500坪(約4950㎡)であった。明治10年思斉館を思斉小学校と改め、侍の子弟ばかりだったのを村内の一般の子どもたちが自由に勉強できるように開放された。明治22年に通学距離の関係で横江に小学校の分校が設置されたが、昭和2年4月思斉尋常小学校を廃止し、1村1校として村の中央の新田に移され現在に至っている。成清ハツヱさん(84)は「当時の学校の正門は、現在の県道側から入り、学校の北側には旧小路公民館から西の堀端までレンガ塀があった」と話されている。 役場は3度小路に 元小路バス停から南へ100m下った県道東側に、昭和47年に建設されたNTTの電話交換所がある。この地は、以前に村役場があったところである。明治22年市町村制の施行により、元小路バス停東側に初代の役場が建てられている。2代目は、中副の円光院南側に建てられるが、火事で焼失している。3代目は、小路の県道西側に建てられたが、思斉校運動場拡張のため再び移転することになった。4代目は、徳万の中井樋に建てられたが、火事で移転することになった。5代目が大正2年に現電話交換所に新築されるが、昭和31年に火災に逢い新田に移転することとなった。大久保實さん(74)は「昭和24年の大水害の時は、役場の2階に上がる階段の2段目まで水がきた。その時非難してきていた近所の妊婦さんが出産されたことがあった」と話されている。昭和3~4年頃、この役場の南に久保田村産業組合の事務所が建てられた。その翌年には、事務所の南に農業倉庫(籾貯蔵倉庫)2棟が建てられた。その後、4棟が増築されている。産業組合は、昭和23年に久保町村農業協同組合となるが、昭和31年の火事で新田の現在地に移転している。農業倉庫南に、電気灌漑記念碑があった。久保田に電気灌漑が導入されたのは、大正12年のことである。当時は、農業の一大改革だったため、その普及には4~5年は要したという。この記念碑は、昭和の初め頃建てられたというが、昭和53年ごろ水取井樋北側に移転している。石井善次さん(76)は「子どもの頃、この記念碑でよく遊んだことがあった」と話されている。農業倉庫の道路西側に旧薄村田家の御茶屋があった。御茶屋とは、別邸のことである。県道の200m西側で、福島東端から上恒安方面に至る道路を地元では鷹匠路という。藩政時代に村田家に仕えるお鷹匠が、鷹狩りの時にいつも通行していたのでそう呼ばれていると伝えられている。現在は、北田や快万・上恒安方面の児童の通学路として利用されている。この鷹匠路の西側田圃では、戦前から馬で犂を使う競犂会が行われていた。戦後、耕運機が普及してくると、耕運機でも昭和28年から37年頃まで行われている。この集落には、以前はパン屋・豆腐屋・自転車屋・饅頭屋・医者・タバコ屋などがあった。 ※写真は思斉館跡と大雲寺
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草木田
庄園時代の庄家田のなごりか? 草木田は、町の北東部で国道207号線の南にあたり、嘉瀬川沿いに位置する。天明郷村帳(1783)では、徳万村の小字に草木田の記録があり、明治15年の「佐賀県各町村字小名取調書」には、徳万村の小字に草木田の記録がある。名の由来を知る人はいないが、この附近は嘉瀬川流域にあり、庄園時代に開墾された庄家田から転化して草木田となったものであろうか。庄家田とは、庄園領主の田のことである。嘉瀬橋から南へ堤防を下った右側に、室町時代の永享2年(1430)に英僧久遠成院日親大上人が開山した昌永山竜光寺がある。その本堂東側に西ノ原明神があり、檀家や附近の人々に安産の神様として信仰されている。4月19日がお祭りで、以前はお寺の境内だけでなく、門の南にまで出店が並び賑わっていた。御詣りに来た人たちの中には、帰りに中副のひゃーらんさんに立ち寄って春を楽しんで帰る人たちもいた。 風邪引きの神様若宮さん 竜光寺の東の道路を、南へ200mほど行くと草木田の交差点にでる。この交差点の左側に小さな祠がある。この祠に若宮さんが祀られている。若宮さんとは、仁徳天皇のことである。以前は、得仏地区の東にあったが、森林公園拡張工事のため平成5年に現在地に移されている。若宮さんは、12月13日を村祭りとして集落総出で御参りをしてから、側の田圃に持ち寄ったご馳走を広げた。この地区で若宮さんは、風邪引きの神様として信仰されている。原田保雄さんは「子どもの頃、風邪を引くと母が若宮さんへ水を持っていって御参りをし、その水を飲ましてくれた」と話されている。若宮さんの北側には、皇紀2600年(昭和15年)記念に建立された馬頭観音がある。この地域で馬がたくさん死んだためだという。その隣に昔から病気を治す仏さんといわれる薬師さん(やくそさん)、交差点南に権現さん(田を守る神様)、また公民館の側には庶民信仰の代表の観音さん、水にかかわる農業の神の弁財さんなど多くの石仏が祀られている。交差点から南へ100mほどいった道路左に、臨済宗長福山寶琳寺がある。寺の由来は、行基菩薩が川上より流れてきた仏像を得て祀ったのが始まりといわれ、この地を得仏という。1400年代に伊万里の円通寺より仙翁竹和尚を迎え開山した禅寺である。この寺の境内に、読売新聞社の創設者の1人で2代目社長本野盛亨夫妻の墓がある。寶琳寺は、以前は得仏橋付近にあったが、嘉瀬川改修工事のため昭和26年から29年に現在地に移転している。 得仏地区に県営野球場が 以前の嘉瀬川は、嘉瀬橋の100mほど南を南東に約1kmぐらい流れ、それから南西へ800mほどで現在の嘉瀬川に繋がっていた。旧河川敷は、昭和43年から県立森林公園が造られ、平成12年には得仏地区に県営野球場が建設された。嘉瀬川改修は、ジュディス台風後の昭和25年から本格的な工事が始まる。当時は、線路を敷いてトロッコで泥を遊んだ。改修前の嘉瀬川付近は、田園や畑で、その付近には小さな堤防があった。中尾融さんは「集落の道路補修の時は、この堤防から砂をイノーテ(担いで)運んだ。村全部の時は、嘉瀬橋の上から車力で運んだ」と話されている。改修工事で地域が分断されたために、昭和37年に得仏橋(農道橋)が架けられた。戦前には、30戸ぐらいで農業を中心にした集落だった。商店は、大正10年に酒屋を始めた志波商店がある。
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中副
嘉瀬川の堤防に沿った所 中副は、田の中央部より北で集落の中央を県道が通っている。この道路は、以前は曲がりが多く道幅も狭かったので、昭和12年頃道路の拡幅工事が行われている。人々は、この道路のことを往還と呼んだ。往還とは、人々が行き来する道のことである。天明3年(1783)の郷村帳に、徳万村の小字として中ソリがある。明治15年の「佐賀県各町村字小名取調書」に徳万村の小字として土井の古賀の記録がある。土井は堤防のことで、古賀は空閑と同様に新開地を意味する。昔の嘉瀬川は、うねうねと蛇のように曲がっており、得仏土井(現森林公園南)から麦新ヶ江と草木田の間を流れ、龍宮社の前を通って同じ中副の土井の古賀の北側を通り、新田の天神社のある八ノ坪へと流れ出ていた。この嘉瀬川の曲がりは、度々の災害で1755年頃直流の大工事が行われている。名の由来は、知る人もいないが、嘉瀬川の堤防の中に沿った所という意味であろうか。 水難除けの神様「ひゃ−らんさん」 中副バス停から東に50mほどいった左手に、龍宮社がある。この社は、享保7年(1722)約280年前、今の中副は中新村と称し、入江にて海深く船の難破すること数十度に及ぶ。村人集りて其の難をまぬがれ、安全を祈願するため龍宮社を安置する。地元では、「ひゃーらんさん」と呼んでいる。横尾弘さんは「以前に春のゴミ上げをした時、ひゃーらんさんの西側の堀で泥の中に船の横板があるのを見たことがある」と話されている。旧暦の3月に、桜の花が咲き誇る中お祭りがあり、集落総出で藁葺きの小屋を建て、お守り札のほかラムネやトコロテンなどが売られている。また、掛け小屋も建てられ、芝居や仁○加が行われている。川野順次さんは「ここで、以前筑紫美主子さんの佐賀仁○加を見たことがある」と話されている。町内はむろんのこと、佐賀市や芦刈など町外からも参詣者が訪れたという。現在でも、子どもの水難除けの神様として地区住民によりお祭りが続けられている。中副バス停の交差点から西へ500mほどいった所に、若宮社がある。この辺りの集落を地元では中新ヶ江といい、その西を丁永と呼ぶ。若宮社の祭神は、仁徳天皇で、台座の右側面には文政13年(1830)と刻まれている。この社のお祭りは、旧暦の4月13日の川神さん祭りと7月15日の祇園祭で、現在は祇園祭だけが引き継がれている。ここの境内は、かくれんぼや瓦けりをする子どもたちのよき遊び場だった。 土井の古賀は船着き場だった 久保田保育園前の交差点から東へ150mほどいった所を、土井の古賀という。古老たちは、以前はその東を「川中」といい、またその向こうの小高くなっていたところを「中でい」と呼んだ。その土井は、嘉瀬橋から大立野に通じる重要な幹線道路でもあり、道の両側には櫨の木がたくさんあったが、圃場整備でなくなっている。土井の古賀に恵比寿社がある。この社は、延享4年(1747)の建立で、嘉瀬川が直流される以前はこの辺りは土井の古賀津といって繁華な船着き場だった。この津が益々繁栄するようにと商売の神様恵比寿様を祀ってある。蘭イワさんは「子どもの頃、4月と12月にお籠りがあって、両脇に幕を張って酒宴があっていた」と話されている。昭和11年発行の佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告書には、「土井の古賀津は、往昔は日本3大津の1つとして知られ殷賑の地なり」との記載もある。この集落から、昭和27年の秋に銭太鼓やもりやあしなどの浮立が出されている。以前のこの集落には、酒屋・駄菓子屋・八百屋・床屋・ヒヤ製造業・写真屋・祈祷師などがあった。現在は、昭和48年に開園した久保田保育園や平成5年開設の久保田児童館、また昭和48年に雇用促進のための誘致企業タイラ工業(パッキン製造)や中塚被服工場もある。 ※写真は龍宮社
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麦新ケ江
以前は嘉瀬郷十五村内 麦新ケ江は、町の東部で嘉瀬橋より800mほど下流にあたり、嘉瀬川沿いに位置する。以前の麦新ヶ江は、佐賀郡嘉瀬郷十五西分の小字であったが、嘉瀬川の短絡により、現在は久保田に属している。かつては、麦新ヶ江の西を嘉瀬川が蛇行していた。「疏導要書」(天保5年南部長恒著)によれば、嘉瀬・久保田の土井筋に決壊の憂いあり、久保田邑主村田氏から藩当局に願い出てショートカットした。麦新ケ江の曲がりは、寛延3年(1750)に掘り切られたとある。完成は、宝暦5年(1755)である。 宝暦郷村帳(1752)では、嘉瀬郷十五村の小村に麦新ヶ江とあり、天明郷村帳(1783)では十五西分の小村に麦新ヶ江の記録がある。明治七年取調帳では、新田村の枝村に麦新ヶ江と記録され、明治十一年戸口帳によれば新田村の小村に麦新ヶ江とあり、戸数15戸・人口84人とある。名の由来を知る人はいないが、麦新ヶ江とは嘉瀬川流域の新開地で、この辺りに以前は麦が多く耕作されていたものであろうか。 麦新ヶ江にも渡し場が 昭和25年からの嘉瀬川改修以前は、麦新ヶ江の集落から南東に小さな道があり、嘉瀬川堤防(現森林公園内)へと続いていた。そこに対岸の嘉瀬村十五へ渡る渡し場があった。この渡し場は、いつ頃開設されたかは不明だが、堀替え直江(1755)の後通行人の渡り場所になったものと考えられる。 戦前には、渡し守がいてその家もあった。渡し場の上流には、竹林があって、お盆の花筒などに利用されるほどの大きさがあり、渡し守はその管理役でもあったといわれる。満潮の時は、渡し船を利用し、干潮の時はH型に組んだ木の杭に幅40~50cmの板が渡され、中央にはダンベと呼ばれる小船が備えてあった。この渡し場には、嘉瀬川堤防を大立野から魚を運ぶ魚屋さんや芦刈方面の人も利用していた。また、上手な人は、自転車に乗って渡る人もいたという。昭和10年頃の渡し賃は、2銭であった。 小城郡三日月町在住の田中アサノさん(80)は「祖父の代は、嘉瀬村の十五で渡し守をしていたと聞いていた。父の代に、麦新ヶ江に移り、ここでは昭和12~3年頃まで渡し守をしていたと思う。以前は、通行人が多く、川の両岸に渡し守がいて、大雨の時は、渡し場の上の板をキャー流さんごと外していた」と話されている。 大正時代にレンガ工場があった 麦新ヶ江には、宇迦魂命を祭神とする神田神社・応神天皇を祀る八幡宮・天照皇大神を祀る大神宮・菅原道真を祭神とする天満宮・海津童神を祭神とする沖神社と5社の鎮祀があったが、明治41年香椎神社へ合祀された。その後、集落内に病人が続くなどの理由で元の所に戻されている。 八幡宮は、集落南西の道路側にあり、石祠には安永4年(1775)と刻まれている。以前は、12月15日が村まつりで、昭和30年代初めまで境内にお堂があった。ここで、子どもたちの豆祇園も行われている。 大神宮は、現建設省嘉瀬川出張所の200mほど東で、畑のミカンの木の側にあったが、現在は集落北裏に移されている。天満宮は、得仏橋付近の川中辺りに小さな堤防があり、その上にあったが、昭和25年以降の嘉瀬川改修工事で得仏橋西の堤防下に移転している。 集落北(現寶琳寺の辺り)に、大正時代にレンガ工場があった。大きな煙突を備えたドーム式の工場が2~3棟あり、工場西側の田畑から土を取りレンガを作っていた。横尾繁雄さん(85)は、「小学生の頃、冬は工場の中が暖かく、よくその中で温もっていた」と話されている。 麦新ケ江は、昭和28年~9年頃まで新田と一緒に浮立を出していた。この浮立は、「ねじもりやあし」と呼ばれ、胸に太鼓を抱え、体を大きく反らす踊りで、他には見られないものだったという。 この集落出身に、第11代村長の光野熊蔵氏(明治44年4月就任)がいる。大変な豪傑だったといわれる。
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新田
古村に対して新たに開発された耕地 新田は、町のほぼ中央部に位置している。新田とは、古村に対して新たに開発された耕地。戦国期以降耕地の開発が進み、古村の耕地拡大による切添新田、持添新田、新たに村の成立をみる村立新田がある。特に江戸中期以降急激な増加をみて地名として残る例が多い。 貞享4年(1687)改の郷村帳には、太俣郷若狭殿私領に土井古賀村とあり、その小村に新田村が記録されている。宝暦郷村帳(1752)では、土井古賀村の小村に新田村があるが、天明郷村帳(1783)には記録がない。明治七年取調帳では、新田村の枝村に横江村・麦新ヶ江村・福富村・大立野津がある。明治十一年戸口帳によれば新田村があり、戸数55戸・人口261人とある。 大正時代に道路改修があった 久保田保育園前から南へ県道が通っているが、以前のこの道路は道幅が狭く、曲がりが多かった。堀沿いにあった2つの曲がりが、大正10年頃改修されている。1つは、保育園前の交差点から学校前に通じる所で、改修前は交差点の西側水路沿いを牛島宅の西側へ通り、それから左折して現在の道路へと通じていた。もう1つは、役場前から農協前に通じる所で、以前は役場の南側を左折し、それから南へ通っていた。 香月政利さんは「子どもの頃、牛島さん宅の西北水路に古い木の橋があったのを覚えている。その頃は、もう人は渡っていなかった」と話されている。この道路を、大正時代には人を乗せる馬車が通っていた。その後、人力車が通うことになり、それから自動車が通るようになった。田中鐡次さんは「子どもの頃、4〜5人で後ろから自動車を引っ張って、運転手さんから怒られたことがあった」と話されている。 久保田町農協から東に集落があり、この集落の中ほどに林泉山真光院がある。創建は、天文年間(1532〜1555)肥前に君臨した龍造寺隆信が開基し、本尊に不動明王を安置して家運繁栄・武運長久・五穀成熟・地味肥濃を祈願する祈祷道場とした。開山は、盲僧を以ってあたらしめ、天台宗玄清部に所属し、琵琶を奏でて御参りをした。真光院は、15年ほど前から九州36不動霊場第29番札所として、遠くは青森などから参詣者が訪れている。 新田の氏神様天神社 中副の土井の古賀から新田の南東に、嘉瀬川堤防へと道路が巡っている。この道路は、旧嘉瀬川堤防跡で以前は集落の東に櫨の木が何本もあり、道路と田んぼの高低差が1間ほどもあったといわれている。また、大立野に通じる主要道路でもあった。 集落の東で嘉瀬川堤防沿いに、天神社(八の坪)がある。毎年6月25日に例祭があり、殊に25年毎には近郊に稀なる盛大な大祭典が施行されていたという。 今を去る360年ほど前、例年にない大雨が降り、嘉瀬川の水が激増して、その堤防が崩壊せんとした。全村危機に瀕した時に、村人たちはその御神体を堤防上に安置して、奇跡的にその災難を免れたという。その霊験あらたかなる天神社に、邑主村田家から大絵馬の奉納があったというが、今は知る人もいない。 山崎吉幸さん(70)は「以前、古老たちから天神社の祭りの時に、舞台がけで旅役者を呼んで大変賑わったことがあったと聞いたことがある」と話されている。天神社は、現在4月に集落総出の祭りがあり、7月には子どもたちの豆祇園が行われている。 昭和2年、上の学校と下の学校が合併して、現在地に建設されることになった。その時の盛土は、新田の東の堤防からトロッコを引いて地高めをしたという。 戦前の、この集落の戸数は25〜6軒あり、集落の北で県道側に三角茶屋と呼ばれる店があった。この三角茶屋は、駄菓子などを売る店で、地形の形状からそう呼ばれていた。その他に仕出屋2軒・雑貨屋・文房具屋2軒・饅頭屋・畳屋などがあった。昭和33年、小路にあった役場と農協が火事で新田に移転してきている。 ※写真は八の坪天神社と真光院
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大立野北
農業とサラリーマンの集落へ 貞享4年(1687)改の郷村帳には、太俣郷若狭殿私領に大立野村とあり、嘉永4年(1851)の郷村帳には、新田村の小村に大立野の記録がある。近世の中期頃、嘉瀬川の蛇行を直す工事が行われ、大立野津として船の出入りが多くなっている。名前の由来を知る人はいないが、立野とは農民の入会利用を禁止した原野のことで、特に採草・狩猟地として領主の直轄地に指定された所が多く、地名として残っているところがある。この地区一帯も嘉瀬川筋で、以前は大きな原野(葦野)があり大立野と呼んだのかもしれない。 大立野北の名称は明治後期ごろから 明治11年の「郡村戸数人口並字調」に新田村の枝村として「大立野津、戸数159戸、人口846人」とあり、町役場の公簿にも北と東を併せて字大立野となっている。この頃はまだ大立野東と北は一緒になっていたようだ。大立野北の呼称が出てきたのは、明治後期以降のことであろう。古老達に、何時から大立野北と呼ぶようになったか尋ねたが「自分達の小さい頃から大立野北と呼んでいた」と答えている。戦後下新田と合併して現在の大立野北となった。以前の大立野北は、漁業者が多い集落で、春先は朝鮮海域へ魚を獲りに出かける漁業者もおり、家の前には網干場が多かった。船着場は、現在の北の森神社の横の道を真っ直ぐ北の方に行った川筋で、嘉瀬川の曲がりにあたり、深い淵となっていた。その辺りを地元では「あらこ」(荒籠)と呼ぶ。下新田は、大立野北の南で10軒ほどの集落があり、以前は「たつくい」と呼ばれていた。「たつくい」とは、「田を作る」即ち農業をする集落という意味かもしれない。この地区では、風呂水は井戸と堀から、飲み水は川からといわれ、同集落の中島スマさんは「若いお嫁さん達は、月2回の嘉瀬川からの水汲みに難儀をしていた」と話されている。 横江から大立野間の道路は中世の干拓堤防線 大立野北は、町中央部の嘉瀬川筋の西に位置する。大立野から横江に通じる道路は、中世の干拓堤防線であるといわれ、この道路を現在1日2往復の大立野行きのバスが昭和38年から通っている。集落の北の端に、北の森神社がある。境内北側の中央石祠に「北之森正一位稲荷大神璽」とあり、明治39年の建立である。以前は、嘉瀬川堤防下の船着場に近い所にお祀りしてあったが、昭和28年ごろの嘉瀬川改修工事で現在のところに移されている。この神社に、漁業者は航海の安全と大漁を祈願した。旧暦1月8日がお祭りで小屋がけの舞台などがあり、多くの見物人は堤防から眺めていて、相当の賑わいがあったという。北の森神社より上流は竹藪で、下流は葦野であったが、今は見通しの良い堤防となっている。集落の南には、慈雲庵という寺が1カ所あり、戦前は住職もいたが今は集落の公民館に建て替わっている。この寺には地蔵尊があり、夏には子ども祇園が行われている。また戦前は、この集落からも村の供日の時に「もりゃあし」などの浮立が出されていたが、戦後費用の関係で途絶えている。現在は、有明海岸の漁業の移り変わりで、農業とサラリーマンの集落となってしまった。西岡春雄さんは、「以前は、家族が多く1家に7人ぐらいいた。1人暮らしの老人にも、『どがんしょっかい』と声を掛ける人が多かった」と話されている。この集落には、医院が2ヶ所・鍛冶屋・自転車屋(夏は氷屋)・蒲鉾屋・駄菓子屋・醤油屋・魚屋(主に行商)・酒屋・豆腐屋・染物屋・雑貨屋などの小さな店があったが、今はもう個人経営の商店は無くなってしまった。 ※写真は北の森神社
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大立野東
漁港として活況を呈した 大立野東は、町の南東部で久保田橋より600mほど北側で、嘉瀬川沿いに位置する。貞享4年(1687)改正「御領中諸郡郷村帳」では小村に大立野があり、明治7年取調帳では枝村に大立野津がある。明治11年戸口帳によれば、大立野津159戸・人口846人とある。大立野津は、近世の中ごろ、横江付近の蛇行を直す工事が行われ、ここに河港が移ったと考えられる。天明7年(1787)久富と大立野に御番所が設置され、物資の出入りと人の移動を監視した。その場所には、懸札が掲げられたというが、今は知る人もいない。 明治17年漁浦に指定 明治17年この港が漁浦に指定され、有明海一帯を漁場とする漁港として活況を呈した。この大立野の船着場を古老たちは「しんあらこ」と呼んだ。この集落の中ほどに、消防車庫がある。ここは以前、魚市場があった所である。明治27年、それまで大立野村の地区経営市場を久保田宿の石川謙介氏が、石川魚市場(魚問屋)として引き継いだ。昭和2年、謙介氏の息子石川又八氏が株式会社石川魚市場と改組した。販路は、佐賀市・佐賀郡・小城郡・杵島郡福富村にわたり、荷元は有明海産のみならず、伊万里・唐津・呼子・佐世保・長崎・福岡に及んでいた。当時、魚仲買50人・小売人50人ほどが出入りし、県内の農村部では有数の魚市場となった。西岡嘉一さんは「昔は市場があって、仲買人があちこちから寄ってきて活気があった。今は、市場も無くなってさびしくなった」と話す。戦前に自転車が普及する前は、ウーゴメ(大きな笊)を3段づつ下げて、イノーテ(担いで)魚を運んだという。この魚市場は、昭和40年佐賀市魚市場に合併されたが、昭和60年には廃止されている。大正6年5月、この魚市場の一角に大立野郵便局が設置されている。昭和27年魚市場の100m西に移転するが、昭和32年電話交換機を水害から守るため2階建ての局舎が建設され、さらに5mほど西に移転することになった。その後、大立野郵便局は昭和57年に、久富東の久保田橋そばに新築移転している。 賑わった沖祇神社 集落の東の堤防沿いに、沖祇大明神がある。二の鳥居には、維時文政3年(1820)と刻まれている。地元では、「おーがんさん」と呼ぶ。以前は堤防の東にあり、広い境内に何本もの桜の木があった。戦前の春祭りは、集落総出で花見やお籠りをし、その後は中副のひやーらんさんに御参りをしていたという。戦後は、旧暦の8月1日(八朔の日)に青年団が御神体を水で洗い、また手作りの舞台を作り男女の団員による芝居(忠臣蔵、佐渡情話、名月赤城山など)や舞踊などが行われた。観客は、集落住民だけでなく他町村からも人が訪れ、1000人ほどの見物客で賑わったという。古賀正人さんは、「その頃は、夜店が神社の境内から嘉瀬川堤防上に窓乃梅酒造あたりまで並んだ。大変な賑わいだった」と話す。その後、沖祇神社は、嘉瀬川改修工事で昭和28年に現在地に移転している。現在は、子供クラブによる手造りの神輿で、集落内をねり歩いている。昭和30年12月、集落に火事が発生し、住民の合意のもと、その年より現在まで毎年12月15日から3月15日まで、夜の10時を合図に夜回りが続けられている。戦後の世帯数は、102戸ほどあり、1戸に4世帯が住んでいるところもあった。以前は、漁師や魚の行商が多く、その他には蒲鉾屋5軒・キャンデー屋・食堂2軒・酒屋・遊技場(ビンゴー屋)・石屋・金物屋・豆腐屋・畳屋・床屋2軒・自転車屋・雑貨屋・醤油屋・下駄屋・駄菓子屋4軒・風呂屋・薬屋・千里眼・羽衣協会などがあった。昭和25年頃映画館も出来ているが、興行主の死去で31年頃閉館している。 ※写真は沖祇神社
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福富
以前は佐賀郡嘉瀬郷福富だった 福富は、町の南東で嘉瀬川沿いにあり、久保田橋の北に位置している。この付近は、自然陸地化と干拓によってできたものである。以前の嘉瀬川は、大幅な曲がりがいくつもあり、福富の西にも蛇行部があったが、この部分の排水が悪く、しばしば洪水に襲われている。この洪水防止のため、久保田邑主村田氏から藩当局に願い出て享保15年(1730)に掘り切りの工事が行われている。宝暦郷村帳(1752)によれば、嘉瀬郷(現佐賀市)の内に新村とあり、その小村に福富の記録がある。明治7年取調帳では、新田村の枝村として福富の記録がある。明治11年戸口帳によれば、新田村のうちに福富村とあり、戸数54戸、人口308人と記録されている。名前の由来を知る人はいないが、富と付いた地名は川沿いの集落によく出てきている。辞典によれば福富とは氏姓と記してあり、福富姓の人が開墾または所有していたものであろうか。 久保田内になったのは明治17年頃? 藩政時代は、嘉瀬川堀切後も福富は嘉瀬郷に属し、佐賀本藩の所領であった。記録的には、明治7年に新田村の内にあるが、住民の意識はまだ佐賀本藩の意識が強かった。福富集落に残されている明治14年の真宗西本願寺の書付には、長崎県肥前国佐賀郡嘉瀬福富村と記載されている。明治10年頃生まれた人々は、久保田と陸続きになっていたが「久保田内に○○をしに行ってくる」と言っていたという。蘭誠次郎さんは、「福富が久保田内になったのは、明治17年頃と聞いたことがある」と話されている。当時の佐賀本藩で架ける橋は、石橋が多かったといわれ、福富集落に架ける橋も殆どが石橋であったという。その名残として福富公民館前に石橋が残されている。以前は、この石橋で鎌を研ぐ人もいたほどだった。福富の古い川跡は、10町余りあり半分より福富内を新田、外側を久富とされていたが、圃場整備により古い川跡はなくなってしまった。 宇治端の渡しは昭和45年まで 窓乃梅酒造の前の道路(以前は、県道だった)を通って、集落の東の嘉瀬川筋に宇治端の渡しがあった。旧藩時代に、海岸線が干拓地の造成によって松土井線(現搦)まで進み、福富・大立野・久富などの集落が発生した。この辺の川幅は約200mもあり、川をはさむ嘉瀬新村への交通手段として川渡しが必要となった。渡し場は、元禄8年頃(1695)はあったといわれる。この宇治端付近には、6〜7軒の長屋があり、床屋や渡し守さんの家もあった。戦前の渡し賃は、大人2銭、子供1銭、自転車2銭、リヤカー5銭であった。以前は、白石・鹿島方面から佐賀方面への往来の人々で賑わったが、昭和45年久保田橋の開通と共に廃止された。宇治端には、元禄元年創業の窓乃梅酒造がある。窓乃梅酒造は、六右衛門という人が土井の古賀(現中副)に酒屋を始め、嘉瀬川改修がされてから現在地に移転し、屋号を宇治端と名付け代々酒造業が続けられている。集落の西に永明庵がある。いつごろ建立されたかは定かではないが、御厨健次助さんは、「3代前からあったと聞いている」と話された。この庵の軒先に鐘が吊るしてある。この鐘に嘉瀬福富村明治九丙子再建と記されており、また庵には安政7年(1860)の写経本が残されていることから、江戸時代に建立されたものと推測される。この庵では、毎月のように真宗の行事が続けられている。以前のこの集落には、漁業者もいたが農業は30軒ほどがあり、また豆腐屋・桶屋・床屋・酒屋・せんべい屋・提灯屋・魚の行商などがあった。戦前には、60戸ほどがあったが、戦後の嘉瀬川改修で10軒ほどが移転している。
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久富東
戦前は漁港として賑わった 久富東は久保田町の南東で、国道444号線の南に位置し、嘉瀬川の西にあたる。戦国末期(1600)の潮土井線は「慶長絵図」によれば三丁井樋から久富に通っている道路あたりが海との境となっていた。「元禄国絵図」(1701)に徳万村・快万村の内として、久富の村名が現れている。「宝暦郷村帳」では、土井古賀村の小村として記録がある。文化4年「佐嘉郡太俣郷国」では西久富村と東久富村に分かれている。「明治七年取調帳」では、枝村に恒安村・新搦村・三丁搦村の記録がある。「明治十一年戸口帳」によれば、久富村のうちに「久富津」とあり、戸数82戸・人口442人と記録されている。名前の由来を知る人はいないが、久富とは末長く豊かになることを願って付けられたものであろうか。 天明7年御番所設置 天明7年、藩政時代に御番所が設置され、物資の出入りと人の移動を監視した。この付近は、小高くて丸くなっており、近くには千俵倉と呼ばれる高倉があった。倉の周りには民家が10軒ばかりあり、御番所の広場に、秋になると久保田中の百姓さんが、馬車に米俵を積んで集まってきた。遠くは神戸・大阪方面へも出荷していた。また、大正時代には、石炭や石灰・肥料(まめすて)なども千表倉にいれていたことがあった。久富東は、明治21年に漁浦に指定され、ムツゴロウ・アゲマキ・ウナギなどを扱う漁港として活況を呈していた。また、天草からは芋などを積んできて、農家の人がイノーテ(担いで)村を売り歩いた。南川又三さんは、「子供のころ御番所の近くで遊んでいた時、馬車で荷積みに来ていた馬が急に暴れだし、嘉瀬川に蹴飛ばされ死ぬ思いをしたことがあった」と話されている。この当時川底は砂地で、砂取り船が鹿島や六角川などからやってきて「ここの砂じゃなきゃ、コンクイ(コンクリート)はできん」と言われたほどであった。子どもたちは、この砂いっぱいの嘉瀬川で水泳やしじみ貝・魚捕り等をして遊んだ。からま(小潮)になると、この嘉瀬川に集落総出で(西の端からも)飲み水汲みにやってきて、樽にいれて運んでいた。この水汲みは月2回(5日間ほど)行われ、「水は、透き通って美しかったが、川からイノーテ上がって、またイノーテ大変だった」と古老たちは言う。以前の嘉瀬川堤防は低く、天端は1間ほどで狭く、川岸にもう1つ小さい堤防があった。舟屋に通じる所は、さらに堤防が低くなっていて、よく大水が出ていたという。この2つの堤防で囲まれたところに田圃があったが、昭和28年の水害以後、堤防の改修工事でなくなっている。 昭和20年空襲をうける 昭和20年8月5日午後11時、久留米方面から飛来した米軍機によって空襲された。1機が低空飛行で嘉瀬川筋の久富漁浦を襲い、久富東部の南側の田圃の中に照明弾を投下し、続いて10数機が飛来して数百個の焼夷弾を投下した。火災は翌朝まで続き、全焼家屋72戸で死者もでている。この時に千俵倉も焼失してしまった。昭和45年久保田橋が完成。それまでは、佐賀に行くには福富の宇治端の渡しを利用していた。原田栄治さんは、「橋が出来て便利になった。佐賀へは自転車で通えるようになった」と話されている。久保田橋の南で、堤防の西側に御髪社がある。以前は、堤防の東にあったが、昭和35年に現在地に移転している。旧暦の4月8日には、漁業関係者によって、海上安全と大漁を祈願したお祀りが行われている。この御髪杜の境内には、むらづくりに尽力された中島松次郎氏と佐賀新聞社先々代社長の中尾都昭氏の頌徳碑がある。戦前のこの集落には、漁業者が多く、農業は2〜3軒だった。また、呉服屋・雑貨屋・糸・縄販売店などがあった。 ※写真は御髪社と敷地内の中島松次郎氏・中尾都昭氏の頌徳碑
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久富西
末永く富める地区になるように 久富西は、町の南部で久富交差点付近の国道444号線沿いに位置する。 「元禄国絵図」では、徳万村・快万村のうちに久富村の記録があり、「宝暦郷村帳」では土井古賀村の小村として久富村の記録がある。 文化4年(1807)「佐嘉郡太俣郷図」では、西久富村と東久富村に分かれており、貞享4年(1687)改めの郷村帳には久富村の記録がある。 「明治十一年(1878)戸口帳」によれば久富村戸数92戸・人口502人と記録されている。 名の由来を知る人はいないが、人間誰しも幸福でありたいと願う。久富とは、末長く富めるようにとの願いが込められているのであろう。 久富は戦国末期の海岸線跡 久富から三丁井樋へ通じる道路付近は、戦国末期(1600年頃)の海岸線と思われる。古い土井跡は、久富から搦を経て北に曲り、少し行って西へ折れ、三丁井樋から搦の北部までは、戦後まで低い萱の茂った土井で交通路として残され、櫨(はぜ)の老木が残存していたが、県道大川〜鹿島線の開通で昔の面影はなくなってしまった。 国道444号線の久富交差点から東へ200メートル、三叉路から右へ200メートルほど行った町道が久富バス停南の交差点へ続く。この町道の道幅は、以前は3メートルぐらいで、江越末次さんは「子供の頃、この道を新道と呼んでいた」と話されている。 久富バス停南の交差点そばにお地蔵さんと観音さんが祀ってある。お地蔵さんは文政3年(1820)の建立で、子どもたちが堀に入ったりしないで無事に育って欲しいという願いで建てられている。 古老たちは「夏の水遊びの後、体が冷たくなった時はお地蔵さんを抱いて温めてもらったこともある」と話す。 また観音さんは、周辺も子どもが堀に入って亡くなったり、病気や事故で夫を亡くしたりする人が続いたことにより、周辺婦人7〜8人が相談して「お地蔵さん1人では寂しいだろうと、また地域の繁栄を願って」大正2年(1913)に建立されたという。 圃(ほ)場整備前までは、お地蔵さんから北へ古川籠を回って横江集落南の灌漑(かんがい)小屋の側へと続く三尺道があった。久富の子どもたちは、学校へ通う時にこの三尺道を利用していた。古老たちは「子どもの頃、堤防や道路そばの葦や竹林のある所に『ホンゲンギョー』を作って遊んでいた。正月には、餅などを持っていったりもしていた」と話す。 横江へ行く途中のこの三尺道の側に、大きなマルボイ(丸くなっている堀)があった。馬渡力さんは「この堀で子どもの頃、泳いで鬼ハスの実を採っていた。また冬の寒い時は、付近の狭い所では氷が張っていて、杭などに掴(つか)まって渡ることができた」と話されている。 嘉瀬川から飲み水汲みに この集落では、からま(干間)の時に集落の東にある嘉瀬川から列を作って水を汲み、川からイノーテ(担いで)上がってきて、大きな樽に入れて運んでいった。この水は、飲み水として家々のハンズーガメ(大きな甕)に貯えられた。 その後、昭和4〜5年(1929~1930)頃、久富東の中島松次郎さん宅に、深さ80間(140メートルぐらい)の井戸が掘られ、附近の人々は飲み水を貰いにいっていたが、戦後井戸は枯れてしまい(炭坑の影響か?)、上水道が引かれる昭和30年(1955)頃まで人々はまた嘉瀬川に水汲みに行くことになる。この井戸は、現在でも中島さん宅に残されている。 久富バス停附近に、昭和28年(1953)頃まで馬の運動場があり、その北側はクリークが流れていた。久富では、そこに馬車で砂を運び、子どもたちのよき水遊び場とした。また、その下流は馬洗い場になっていた。 久富西は、戦前には60戸ぐらいで、主に農業が多かった。また以前は、駄菓子屋・精米所・苗物屋・床屋・馬車運搬業・桶屋・魚行商・蒟蒻屋・豆腐屋・雑貨屋・染物屋・竹刀造屋・縄ない工場・トウス屋(唐臼、もみすり)などがあった。 現在は、佐賀郡南部消防署久保田出張所(昭和50年(1975))、久保田町漁業協同組合(昭和28年(1953)頃)久保田特産物直売所(平成5年(1993))やコンビニ、飲食店が数軒ある。
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搦東
八幡搦と呼ばれた 搦東は、町の南部で国道444号線の久富交差点の南に位置している。文化4年(1807)「佐嘉郡太俣郷図」では、西久富村と東久富村に分かれ、文化14年(1817)の郷村帳には、太俣郷若狭殿私領に久富村とあり、その小字に搦の記録がある。明治七年取調帳では、久富村の枝村に新搦村がある。搦が東と西に分かれたのは昭和17年のことである。 お金に緑がある不動明王 久富交差点から200mほど南へ下り、それから西へ50mほど行った道路側に不動明王の石祠がある。この石祠には、大正13年と刻まれている。昭和32年ごろまでは、石祠の前にお堂があり、戦後の21年ごろには、青年団による演芸も行われたことがあった。南川スエさんは「以前御参りに来た人から、龍が右の方からお不動さんの額にかかっており、このお不動さんはお金に縁がある。と聞いたことがある」と話されている。この不動さんには、昭和40年代までお遍路さんがお参りにきていた。圃場整備以前の道路は、このお不動さんの前を通り東新地の集落から江戸集落へと通じていた。この不動明王の50m東の道路を、南へ150mほど下った所に搦東公民館がある。ここには、以前庵と呼ばれる藁葺きの家があった。明治の頃に、この庵に南部為一という人が落ちつかれ、寺子屋を始められたという。南部先生は、もとは明治大帝の先生(侍講?)であったという人もいた。先生の墓は、久富の寿慶寺にある。公民館から南へ300mほど行った道路側に、八幡社がある。八幡社の中央と左の石祠には、梵字(悉曇文字)1字で表されている。梵字は、古代インドで発達した文字で、仏教的影響が大きかったと思われる。中央の石祠には、寛文5年(1665)、左の石祠には澳嶌大明神とあり、右側に元文5年(1740)と刻まれている。境内の鳥居の側に丸い石がある。重さ120斤(約72㌔)あるという。搦の古老たちが青年時代に、力石と呼んで力比べをしたものである。西岡又六さんは「私が若い頃は、ほとんどの人が胸まで持ち上げるのが精一杯だったが、持ち上げて背中をぐるっと回す力持ちの青年たちが何人かいた」と話す。隣の芦刈町など他の町村の人たちは、久保田の搦の人達を「八幡搦から」と呼んだ。この地に、八幡社があったからであろうか? 松土居は、寛永年間の築造 以前は、八幡社の南に松土居があった。地元では、松土居とも金土居とも呼んだ。松土居は、江戸初期の潮土居の遺構といわれ、疏導要書の松土居の構築記事などから寛永年間(1624〜44)初頭の築造と考えられる。松土居の名は、堤防強化のために松を植えられたことにちなむ。その後、櫨の木が植えられていたが、圃場整備でなくなっている。松土居から800m南に、第二土居がある。この土居は、維新前までは潮土居で、地先は干潟であった。邑主村田氏が10余の搦の城塞として増築したもので、明和の頃の築造である。戦前までは、この潮土居の切り通しから180mほど東の土居そばに番小屋があり、台風の時など堤防の見回りをしていた。昭和9年に久保田干拓が始まる前までは、第二土居の前面には満潮時には淡く濁った有明海の波が悠々とうねり、干潟時には暗黒色の干満が広々と展開し、大小の澪筋が天然の模様を描いて、ムツゴロウを初め珍奇な海棲生物が跳梁していた。その頃のムツゴロウの捕獲は、掘るか釣るかであった。昭和47年発行の「有明海の漁労と漁具」には、搦東集落の古賀種吉氏(明治26年〜昭和33年)が、昭和15〜6年ごろタキャツポという25cmぐらいの竹筒で簡単に捕獲する漁具を考案したとある。以前のこの集落には、酒類を扱う雑貨屋が2軒と酒類を扱わない小店があった。 ※写真は不動明王
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搦西
搦は干拓地名に付けられる 搦西は、町の南西部で国道444号の南に位置している。搦は、佐賀・白石平野に存在する干拓地名に多く見られる。天明3年(1783)に佐賀藩は、殖産興業のため六府方を創始し、干拓事業のための搦方を置いた。新地に搦の名を付するのは、概ねそれ以後のことと思われる。搦は、からむという意味で、初めに堤防のシンとして松丸太を約1間間隔に打ち込み、それに竹材をからみつけて柵を作り、そのまま数年放置すると、潟泥が付着、堆積して内部の干潟が上昇し、搦の内部に葦などが生えてくる。そこで、小潮を利用して、板ぐわで柵の土寄せを行い、堤防を固める。この種の干拓地は、主として江戸期から近代に造成されたもので、数町から百数十町に及ぶ。明治十一年戸口帳によれば新地村戸数17戸・人口123人とある。明治15年ごろの佐賀県各町村字小名取調書によれば久富村の小字に、搦村・西新地・東新地の記録がある。 搦西は昭和17年から 搦が東西に分かれたのは、配給制度が行われていた昭和17年ごろである。区域は、搦の集落のほぼ中央部の水路を境に東と西に分かれている。以前は、この搦を西久といった。昭和10年ごろの久保田村の図面にも、西久と記載されている。久富交差点から350mほど南に、搦東公民館がある。さらに、同公民館から西へ300mほど行った道路側に、お大師さんを祀った小さな祠がある。お大師さんの石の台座には、弘化2年(1845)と刻まれている。以前は、30mほど北にあったが、多くの人に参詣してもらうために、昭和の初め頃現在地に移されたという。お大師さんとは、弘法大師のことである。 こやうちとは合宿所のこと この大師さんのある地域を、古老たちは『こやうち』と呼ぶ。明和年間に潟土井(2線堤防)の構築中に工役人夫を諸方から雇い入れ、小屋内という合宿後を設けて工事を行ったところからそう呼ばれた。圃場整備前は、お大師さんの前を南へ350mほど行くと土井へ通じる道があった。この土井は、松土居といわれ、三丁井樋の200mほど東から南へ下り嘉瀬川堤防まで巡っていた。この土井は、藩政初頭までに開拓されたものらしい。この土井の内部を搦といい、外部を新地といった。地元では、松土井のことを『かねんでい』と言う。向嶋與四郎さんは「1日働いて、賃金は徳利の中に入れてある銭で払う。徳利の中に手を入れて銭を掴む。しかし、たくさん掴むと徳利から手が出ない。そうして作った堤防だから『かねんでい』といった。と古老から聞いたことがある」と話されている。こやうち集落の西を、南へ300mほど行った所の松土井そばに、茶屋元という大きな堀があった。ここに井樋があり、真水と潮水の境目で、それ以西の奉賀井樋までは潮遊びとなっていた。土井そばには、馬頭観音が祀らていたが、現在は江戸集落西入口の、第2線堤防上の龍王社の境内に移されている。高原忠雄さんは「幕末頃に、この茶屋元の西の松土井に邑主村田氏の射り場があって、的を撃っていた。茶屋元のいでからは、玉が出てきたことがあった。と父から聞いた」と話されている。この茶屋元から松土井を西へ200mほど行った所に、諏訪大明神の石祠があった。石祠には、文久2年(1862)と刻まれている。高原喬義さんは「昔は、この地域はヒラクチが多く、お諏訪さんの境内の砂をまくと、ヒラクチが寄りつかない。と聞いたことがある」と話されている。この石祠は、圃場整備後龍王社の境内に移されている。ここのお大師さんやお諏訪さんで、昭和30年代まで夏に子どもたちの豆祇園が行われていた。平成2年、国道444号線そばに特別養護老人ホーム南鴎荘が開所されている。また、この集落出身に、名誉町民で衆議院議員や町長をされた古賀了氏がいる。
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江戸
昭和13年潮止め完了 江戸は、町の最南端で有明海に面している。久富交差点から1400m南に、第2線堤防があり、その前面に面積約12町余りの江戸搦がある。この干拓については、干拓記念碑そばにある填海拓地之碑に記してある。碑には明治22年と刻まれておリ、邑主村田政矩が干拓の有利なことを思い立ってから、嗣子政匡が亡父の意志を継いでこれを完成した顛末が記してある。第2線堤防の200m南に江戸コミュニティセンターがある。センターの南に、昭和27年に建立された干拓記念碑がある。その後干拓は、昭和7年9月に地元有志により公有水面埋立免許申請・昭和9年3月に工事着工し、昭和13年1月に潮止工事が完了した。の潮止工事の時は、コミュニティセンター辺りから幅1m、厚さ5cmくらいの板が潟面から高さ1.5mぐらいで1.3km先の潮止工事現場に渡してあった。当然この渡し場は、潮が満つと海中に沈むことになる。その当時、工事の飯場が東の江戸集落入口の第2線堤防南に建てられた。ここには、4~50人もの人夫が集まったという。この干拓地は、戦争が激化するにつれ、食料事情が悪化の一途をたどり、学校の児童生徒や非農家までが食料生産のためやってきていた。 昭和22年入植が始まる 昭和22年に、外地引揚者や農家の次男坊など13戸が第1次の入植をしている。入植者は、なるべく標高の高い江戸搦の堤防沿いに自力で麦藁葺きの家を建てることになった。土は、潮止めが完了して必要性を失った江戸搦の堤塘を崩して地高めをした。この頃は、まだ江戸集落に電気は届いてなく、ランプでの生活が始まる。油は配給で、13戸で分け合って使った。ランプは、家には1つしかなく、夕方ランプを布で磨くのが女性たちの日課となった。電気が江戸集落に来るのは、昭和28年ごろである。飲み水は、第2線堤防北側クリークから桶を担いで汲んでくることになる。しかし、当時の道路は凸凹道で、家に帰り着くころは半分ほどに減っていたという。詫摩繁太郎さん(78)は「あのころは、リヤカーに樽をつけて水汲みに行った。最初の10年は、苦難の道だった」と当時の苦労を話す。水道が江戸集落に通水されるのは、昭和31年4月である。入植当初江戸で耕作されていたのは、芋や綿・黄瓜などであった。当時の江戸の耕地は、雨が降ればぬかるんで、リヤカーは泥がついて、滑って引かれない状態となった。干拓地が水田となるのは、昭和27年ごろからである。第1次入植者の高原三郎氏が、佐賀市相応から指導者を招いて水田の試作を始めた。その2~3年後には、入植者全員が水田に取り組むようになる。この入植者の中に、元町長の古賀了氏もいた。古賀氏は、竹葺きの屋根にランプのつましい生活を、昭和27年までこの地で送っている。 昭和56年から江戸集落に この干拓にも農地改革の問題が起こり、村に2つの農協を生む大きな原因となった。そして、2次入植が昭和27年から行われる。セメント瓦葺きで、建坪20坪の入植者用住宅80戸が建てられ、入植者は100戸となった。江戸集落は、干拓や帰農集落ともいわれていたのを、昭和33年に「干拓集落」と呼ぶように統一したが、昭和56年干拓のイメージを変えたいとして、江戸搦からとって「江戸集落」とした。江戸集落への西側入口の第2線堤防上に、八大龍王石祠がある。石祠には、文化2年(1805)とある。1月10日と7月16日が祭りの日である。以前は、搦東・西の新地の人たちがお祭りしていた。この祠は、さらに西方にある「丹右ェ門搦」の地点が大決壊の時、工事の安全を願って祀ったものらしいという。八大龍王石祠横に、「大乗妙典書寫石一部」と刻まれた石塔がある。正面刻字に明和三酉戌年久保田久富村新田再興築とある。この石塔を地元では、「経塔さん」と呼んでいる。経塔さんは、以前は2号カントリーの北西にあった。 ※写真は干拓記念碑と填海拓地之碑
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横江
嘉瀬川の蛇行が横江となって 横江は、町のほぼ中心部に位置しており、大立野、金丸、永里を結ぶ中世の干拓堤塘線に成立した集落である。 横江村は、江戸期の村名で佐嘉本藩太俣郷に属している。「正保国絵図」「天明村々目録」「天保郷帳」では、新田村の枝村として記録されている。「明治七年取調帳」でも新田村の枝村と記録があり、「明治十一年戸口帳」では新田村のうちに横江村とある。戸数36戸、人口170人と記録されている。名の由来は、嘉瀬川の蛇行が横江となって入っていたところより名付けられたとみられるが、近世の中期頃、河川の蛇行を直す工事が行われ、河港津も大立野に移動したとみられる。 横江には学校があった 県道より西へ、横江橋を渡った道路北に学校があった。明治22年、思斉小学校の横江分校として設立された。明治25年には新田尋常小学校と改称され、明治34年に久保田第二尋常小学校と校名を変更している。この学校には、大立野・横江・永里・下新ヶ江・福富・久富・搦の子どもたちが通っていた。学校の屋根は、藁葺きで、教室も12室あり、講堂も児童数にしては大きいものであった。学校の中に井戸が2ヶ所あり、集落の人も利用していたと記録にある。しかし、1村に上・下の学校があっては心情的によろしくないとの考えから、昭和2年4月に現在の思斉小学校の場所に合併設立された。 残したい伝統芸能面浮立 県内の民俗芸能で、代表的なものに浮立がある。源流は、中世にさかのぼり、近世に完成された芸能である。農事を祈願して社寺に奉納する芸能として発達し、町内に7つほどある浮立の中で横江は面浮立である。今から140年ほど前に長崎県高来町湯江から2人の若者が西横江の某家に日雇いにきていた。仕事を終えて夜になると、そのうちの1人が1日の労を慰めるがごとく横笛を吹いていた。その音色が美しく、何とも言えない味があったので、近くの人々は自然と集まって来た。「これは何の笛か」と問うたら「浮立の曲だ」と答え、もう1人の若者が笛の曲に合わせて踊って見せた。この笛の音色といい、踊りも勇壮だったので湯江に習いにいったり、湯江から指導に来てもらったりして現在の横江の浮立がある。4年毎に集落の八幡社や快万の香椎神社の神社御前で舞い、町民の幸せと豊作を祈願している。永瀬義明さん(73)は「以前は、町外(佐賀市など)の知人・友人・親類縁者の家まで舞いにいっていたので3日間余りかかっていた。この伝統芸能は、絶対に絶やしてはいけない」と話す。横江集落公民館の南に八幡社がある。人々から八幡さんと親しまれてきた社には、3体の神を祀ってある。以前は集落の南東にあって、旧暦の6月18日(8月9日)にお祭りをし、夜店まで出て賑わったという。現在は、8月2日を祇園の日としている。岸川栄次さんは「子どもの頃は、祇園の時に舞台を作り、蚊に喰われながら泊まっていた」と話されている。この境内には、以前は立派なお堂があり、周りは広くて桜が植えてあった。春ともなれば桜の花が咲き誇り、人々はご馳走をもってお籠りをやり、お互いの心のふれあいの場とした。この八幡社は、圃場整備後(昭和52〜3年頃)現在地に移されている。戦前のこの集落には、酒屋・駄菓子屋・仕出屋などがあったが、多くは金丸の原田商店を利用していた。公民館西に、昭和23年設立の久保田第一農業協同組合があったが、昭和43年久保田町農業協同組合と合併された。また、昭和38年宇治端(福富集落)から駐在所が横江に移ってきている。平成4年、住宅団地が出来始めるが、それまでは40戸ぐらいの小さな集落であった。
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金丸
八筋濠の恩恵の中で暮らしてきた 金丸は、町の中央より南に位置し、東に横江・西に永里があり、中世の干拓堤塘線に成立した集落である。正保国絵図に「金丸村」と記載があり、「宝暦郷村帳」では1村と記録され、天明3年(1783)の郷村帳には小字として福田・福島・田中の記載がある。「明治七年取調帳」「郷村区別帳」では徳万村の枝村として記録されている。「明治十一年戸口帳」によれば、徳万村のうちに「金丸村」とあり、戸数33戸、人口181人と記録されている。 金丸は鎌倉期の名田名 名前の由来を知る人はいないが、金丸とは鎌倉期に見える名田名。名田とは、平安中期から中世にかけて、荘園や国衙領の構成単位をなす田地。開墾・購入などによって取得した田地に取得者の名を冠して読んだもの。この集落には、2つの大字があり、東を大字徳万、西を大字久富という。また、御髪大明神も2つあり、大字徳万の野口喜好宅東と大字久富の国道444号線そばにある。この御髪神社は、有明海唯一の島である沖の島の祭神を奉祀している。沖の島さんは、後世は豊作の神、雨乞いの神として広く信仰されている。さらに大字久富には、金丸公民館西に天満宮があり、石祠には文久2年(1862)と刻まれている。この3つの神社では、春・夏・冬の3回それぞれの氏子によってお祭りがなされている。お祭りの日は、神社の清掃をして家内安全・無病息災・五穀豊穣を祈願し、大人たち(男性)で懇親の酒席を設けている。以前は、この天満宮で舞台掛けの祇園をやったこともあった。下新ヶ江などから夜店が2~3出て、あめ湯・ポンス(飲料水)ラムネなどが1銭や2銭で売られ、地域住民や子どもたちの楽しみでもあった。同集落の原田ツヤさん(78)は「みんな祭りを楽しみにしていた。これがなくなると寂しかなんた」と話されている。金丸集落から、昭和9年頃に「もりゃあしや銭太鼓」の浮立を出したことがあったが、これが最初で最後だったという。この地域には荒木濠・金丸濠などの八筋濠があり、昔から自生した菱が沢山あった。明治・大正・昭和の最盛期には入札によって菱の実の採取権を定めていた。この菱の実採りは、初秋の農家の絶好の日銭稼ぎでもあり、姉さんかむりの娘たちが、夕暮れ時から佐賀市内で「菱やんよ~、菱はいらんかね~」とふれ歩く。久保田菱は、佐賀菱の代表であった。佐賀県が生んだ歌人中島哀浪の歌に「菱の実半切桶にためて、うでて(ゆでる)売り歩く姉さんかむリ、あれさ久保田の菱娘」と歌われている。昭和50年以降圃場整備後は、久保田菱も少なくなり、今は菱探りをする人もいなくなった。 もやい風呂は昭和8年頃まで 金丸の西に荒木川があり、そこに大きな井樋がある。水もよく流れていて、以前はこの井樋のそばで子どもたちはよく水泳や釣りを楽しんだ。また、荒木川の近くには「もやい風呂」も昭和8年頃まであり、おばあちゃん達が濠から水汲みをし、風呂を沸かした。このもやい風呂は、農作業の汗を流すのと地域の交流の場でもあった。子どもたちは、おばあちゃんたちからさくずの入った手ぬぐい(石鹸の代わり)を渡されもやい風呂に入った。この集落に、横江から永里に通じる道がある。以前は、馬車が通るくらいの道幅であったが、昭和26年春各家々から夫婦で集まり、道路の拡張を行った。またそのころの農道は、ほとんどが三尺道(90cm)で、畦には豆などを作るので、栄えてくると使える道幅はもっと小さくなった。野口喜好さん(87)は、「以前は、稲もモミも全部イノーテ(担いで)きた。農道には水落としもあり、昔の百姓は大変苦労した。」と話されている。この小さな集落に、以前はアメガタ屋が2軒と医院(荒木井樋の側に大正5、6年頃まで)があったが、現在は昭和の始めから続いている原田商店が1軒ある。平成5年以降宅地開発が進み、19戸程度であった戸数も70戸を超えるようになった。
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永里
信仰心が厚い人々が暮らしている 永里は、久保田町の南西で国道444号線から北へ約500mの所に位置する。金丸と永里を結ぶ線は、中世の海岸線上で、自然陸地化から干拓へ移行する漸移線上とみられている。永禄10年の龍造寺隆信判物に、太俣郷内に散在した西持院領として「1反(大坪)作(同永里之内)」の記録がある。正保絵図に永里の記録があり、天明3年(1783)の郷村帳には、永里村の小字に上永里・下永里の記載がある。明治十一年戸口帳によれば、久保田村のうちに永里村とあり、戸数57戸、人口318人と記録されている。 永里盛秀と何等かの関わりが 名前の由来を知る人はいないが、およそ600年前に福所の天台宗西持院を建立した永里盛秀と何等かの関わりがあるものと思われる。久保田内に西持院(福所)の檀家が20軒ほどあり、その内8軒が永里にある。明治以降は、下新ヶ江と永里が一緒に統括されていたようであるが、大正の終わり頃に下新ヶ江から分離して「永里集落」として独立したとも伝えられている。永里集落は、東西に走る道路を挟んで家が建ち並んでいる。この道路は、横江から金丸、永里、下新ヶ江、三丁井樋を経て芦刈町へと続いている。戦前のこの道路は、馬車が通れるくらいの道幅で、道路南の家のそばには大きな楠の木があった。白石、福富方面から佐賀に向かう通勤、通学やまた芦刈方面への魚類や雑貨などの行商人たちの通行もかなり多かった。集落の中ほど(鶴丸正士さん宅西側)に、リヤカーの通れるくらいの道路があり、北へ福所から西持院のそばを通り久保田駅へと続いていた。西高輝さんは、「子どもの頃、この道路を幌馬車が通ったのを見たことがある」と話されている。集落の東で中島清さん宅の東側には、福島集落へ続く道があった。この道は、集落の人から「学校ノンボイ」の名で親しまれ、朝夕の学童の通学路として、また永里の人々が佐賀方面へ行く時は、横江には出ずこの道を利用しており、年2〜3回集落総出で砂入れや除草などの作業が行われていたという。 明治の頃まで寺子屋があった 集落の中ほどの道路北側に、明治の頃まで寺子屋(現西高輝さん宅)があった。山田ヤス子さん(75)は、「子どもの頃母から、寺子屋の授業を縁の端に立って、子守りをしながら聞いていた。と聞いたことがある」と話されている。集落の東に、朱塗りの鳥居の正一位稲荷神社がある。いつ頃建立されたかは分からないが、境内には明治16年と刻まれた石柱がある。12月8日のお祭りの時は、4つの班の代表が、お供えやお神酒を上げて翌年の農作物の出来高を占ってもらう。この日は、家々からお参りをし、夕食を兼ねた懇親会を設けている。また、12月15日(現在は第2日曜日)は、村祭りで班ごとに収穫の感謝とちゃごうちの懇親会が行われている。この集落では、大般若祭、大日如来祭、四万六千祭、施餓鬼供養などが続けられている。祇園祭は7月10日で、以前は神社の周りにあめ湯、駄菓子、ラムネ、ところてん等の出店が出され、人々の楽しみでもあった。境内には、永里集落の農業振興に尽力された福富集落の醸造家古賀文一郎翁の頌徳碑がある。この碑は、大正15年永里集落の有志の発起によって建立されている。神社の境内と道路の境に土塁があり、そこに大きな桜の木が10本以上もあった。戦前には、春になると集落総出の花見も行われたこともあった。永里集落では、昭和38年まで「踊り浮立」が秋のお供日に行われていた。笛・鉦・大太鼓・銭太鼓それにお化粧をして、長襦袢などで着飾った婦女子の「もりゃあし」など多彩でリズミカルな浮立であったという。以前のこの集落には、呉服屋・床屋・荒物屋・酒屋・うどん屋・豆腐屋・八百屋・また刀研ぎ屋などもあった。
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下新ヶ江
多くのまつりが続けられている 下新ヶ江は町の南西部で、国道444号線沿いに位置している。宝暦郷村帳(1751〜64)では、久保田村の小村に新ヶ江村とあり、天明郷村帳(1781〜89)では小村に下新ヶ江とある。新ヶ江は新開からつけられており、新開とは荒地を新たに開墾して、田畑や宅地にしたもので、江は川や海などの呼び名であるが、特に陸に入り込んでいる部分をいう。つまり、福所江筋の荒地を開墾した土地ということであろう。久保田宿西口から上新ヶ江を通り三丁井樋を経て芦刈村に通じる道路は、大正7年頃に着工されているが、下新ヶ江部分は昭和9年頃に完成している。それまでの芦刈村へ通じる道路は、中野禮吉さん宅前の道路を南へ通り、原田信義さん宅の南から右へ曲がって堤防へ上がる。その道幅は、やっとリヤカーが通れるくらいであったという。岡島アサ子さんは「子どもの頃、窓の梅の小さなトラックが、酒を積んで通ったのを見たことがある」と話されている。 鵜飼いの船も下った福所江 集落の西に福所江があり、その途中に何ヶ所か荒籠があった。その荒籠の下流で大正時代まで四手綱が行われ、佐賀市の人が操る鵜飼いの船が上流から下って来た。古賀勝さんは「船が来ると網を下ろし、鵜に追われた魚(鰻・ボラ・鯰など)をうっとい(網)で何杯も掬って獲った」という。また、福所江排水樋門の改修は、昭和35年に行われ、村管理の三丁井樋の改修工事は昭和29年ごろに行われている。以前の福所江樋菅は石造りで、芦刈側に2つと久保田側に2つあり、その真ん中には恵比寿大黒さんが祀られていた。この恵比寿さんは、福所江橋の改修の時に、北側の管理道路の真ん中に移されている。集落の南の国道444号線(旧県道大川・鹿島線)は、戦国末期(1600)の潮土井線で、以前は萱が生い茂り人々が農作業などの行き来で利用するくらいであった。この道路改修は、昭和45年に久保田橋の開通で完了している。 邑主村田家の米倉庫もあった 福所江橋の東で、道路南に3軒の民家と昭和44年に建てられた漁業組合の培養場があったが、度々の高潮の被害で昭和52年頃に移転している。その中に、大正時代まで邑主村田家の米倉庫があった。またこの附近は、大正・昭和期になって、カキ養殖が盛んになると、共同のカキムキ場となっている。三丁井樋前から堤防を50mほど南へいった右側に広場があった。以前はここに熊本県八代などから砂利などが運ばれ、また藁の積み出しにも利用されている。この広場の堤防から南へ200mぐらいの所に大神杜がある。境内の石柱には、大正14年と刻まれている。大神社は、以前は福所江排水樋門そばにあり、昭和30年代までは旧暦6月23日に舞台を作って豆祇園が行われていた。大神社の南に、大正8年と刻まれた金毘羅社の石祠がある。金毘羅社は、以前は培養場の東にあった。大正から昭和の初めころまで、夏になると金毘羅さんの祭りがあり、役者さんたちが近くの民家に泊まって芝居をしていたという。4月の第2日曜日に英彦山参りが行われている。4つの班が回りばんこで、8〜9人の人がお参りをした。戦前は、1月7日に「やんぼしさん」が各家々を周り、家の角に置かれた水をかぶって回ったという。この集落では、昭和57年頃まで沖の島さん詣り(旧6月19日)が行われていた。当日は、夜の8時頃から船出し、翌日の昼過ぎに帰ってくる。陣内峰雄さんは「若い頃は、芦刈と久保田から10艘ぐらいの船が出ていた。芦刈には3本マストの100トンもある船が2艘もあった」と話されている。沖の島さん詣りは、他に上新ヶ打や永里でも行われていた。以前のこの集落には、雑貨屋と酒屋があった。また、般若さん、四万六千日、念仏、お地蔵さん、12月第2日曜日には集落のお祭りなど、多くの祭りが続けられている。 ※写真は恵比須さん
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福島
1300年頃の海岸線 福島は、ほぼ町の中央部にあたり、小中学校の西に位置している。佐賀市大和町の高城寺文書には、正応元年(1288)に「肥前国河副荘米納津土居外干潟荒野一所之事」とあり、当時の海岸線が現在の佐賀市川副町米納津・南里・佐賀市本庄町上飯盛・同嘉瀬町中原・久保田町福島・上新ヶ江・芦刈町下古賀を結ぶ線で、開墾から干拓への漸移線地帯であることが推察されている。因みに荒野とは、有明海沿岸では芦原のことである。宝暦郷村帳(1752)では、恒安村の小村に福嶋村があり、明治15年ごろの「佐賀県各町村字小名取調帳」には、久富村の小字に福島とある。文化4年(1807)の太俣郷国では、地図中央部に福島とあり10軒ほどの民家が描かれている。集落は、3つに分かれた島のようで、周囲を大きなクリークに囲まれている。福島の福は、幸せを願って付けられたと思うが、島はクリークに囲まれているところから名付けられたものであろうか。 以前の道路は学校の中を通っていた 久保田保育園前交差点から福島集落へ通じる道路がある。この道路は、昭和34年ごろに新設されている。以前は、思斉校正門の60mほど北側の裏門と呼ばれるところを通っていた。思斉校は昭和2年に上の学校と下の学校が合併して現在地に移転している。古賀ナリエさんは「その当時、道路そばにはレンガ塀があり、中ほどから学校の中へ入れた。学校に入ると、中央廊下の前に出た。2年生の時(昭和5年)に台風が来て、北側と南側の校舎が倒れた」と話されている。道路の北側には実習田があり、戦時中には学校の生徒たちが食糧生産のために耕作をしている。戦後、新制中学校が設立されることになり、学校用地も拡大していった。保育園前交差点から600mほど西の道路南に、福島集落の公民館がある。その建物の西に天神社が祀られている。石祠には、寛政8年(1796)と見える。以前は、天神社の前にお堂があったが、昭和49年に福島公民館が建てられた。この天神社で、毎年正月・5月・9月の3回、地区の安全を祈願した村御祈祷が行われている。当日は、真光院さんの御祈祷の後、集落住民が集まって酒食を供にした懇親の場となる。12月25日は村祭りで、集落を東・中・西の3班に分かれて、大人から子どもまでが集まり、当番の家回りで行われている。真光院さんの御祈祷の後、その年の村の経費を精算して、飲食を共にしながら1年間の労をねぎらった。戦前には、2日間も村祭りが行われていたこともあったが、昭和37年ごろ廃止になっている。この天神社で7月25日に、子どもたちの豆祇園が行われている。戦前には、出店が2〜3軒出されたこともあった。原田兵一さんは「明治のころから祇園の時に、舞台を組んで仁○加などの芝居があっていた。と聞いたことがある」と話されている。 浮立がだされたことが 昭和7年頃、この集落から秋の供日の時に、もりゃあしや銭太鼓の浮立が出されたことがあった。踊りの師匠には、新田の生方玉六さんがやってきたという。集落内にその浮立で使う鉦があったが、戦時中に鉄の供出などでなくなってしまった。村中の道路は、昭和30年代後半に広くなった。以前は、今の半分(3mぐらい)の道幅で、古老たちは雨が降るとぬかるんで歩きにくかったという。道路改良前の集落中ほどの橋は土台は石組みであったが、橋梁部分は木造りで、泥で盛土をして高くなっていた。雨が降るとこの泥がぬかるんで、魚屋さんなどが自転車のハンドルを取られ川に落ちたこともあった。この道路を、昭和20年代までは、春・秋の年2回徳間の高士居(たかでー)から、車力で砂を運び補修をしている。この集落の、戦前の世帯数は16軒ほどで、豆腐屋が1軒あった。豆腐屋さんは、天秤棒を担いで町内のあちこちを売り歩いたという。 ※写真は公民館敷地裏の天神社
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上新ヶ江
以前は新開村と呼ばれた 上新ヶ江は、町のほぼ中央部の西にあたり、福所江沿いに位置している。慶長年中(1596~)肥前国絵図に新開村とあり、現在でも地区内に新開の字名が残されている。宝暦郷村帳(1752)では、新ヶ江村とあり、天明郷村帳(1783)では上新ヶ江とある。文化4年(1807)の太俣郷国では、新ヶ江村とある。古賀・空閑は、比較的古い開発新田であるのに対し、新開・籠・搦等は古くから行われている干拓に依る新田である。久保田保育園前の交差点から1200m西の道路そばに、大日如来の石祠がある。石祠には、明治10年と刻まれている。この石祠の前の道路を、100mほど西へ行くと上新ヶ江の交差点に出る。この道路は、昭和10年ごろ改良工事が行われている。以前は、幅の狭い道路が曲がっていたのを真直ぐにしたものである。交差点に繋がる南北の道路(町道北田~下新ヶ江線)は、大正8年頃福所から交差点まで、田圃の中に一直線に通された。下新ヶ江までは大正12年頃である。それまでは、堀のそばを広狭まちまちの道路が廻っていた。交差点から西に芦刈町へ通じる道路は、昭和30年以降に改良工事が行われている。船津丸嘉郎さん(74)は「以前の道路は道幅が狭く、雨が降ればぬかるんだ」と話されている。交差点から西へ100mほど行った道路南側に馬頭観音の石祠がある。石祠には、文政8年(1825)とある。戦後の20年代までは、どの農家でも馬が飼われていた。春になると、その馬の爪切りがここで行われていた。 夜泣きの神様「三太夫社」 この馬頭観音の前の道路を、北へ350mほど行った田圃の西に天神社がある。お堂の中には、天神社と並んで三太夫社が祀られている。地元では、「さんだいさん」と呼ぶ三太夫社は、この地区では夜泣きの神様という。江原栄さん(76)は「子どもが夜泣きをすると、ここに7色のお菓子を上げてお参りをする。お参りが済むと、近所の子どもたちにお菓子をあげて食べてもらった。以前はこの地区だけでなく、芦刈などからも御参りがあった」と話されている。天神社の祭りは12月25日で、地区の東側の住人がお祭りをする。また、馬頭観音の前の道路を西に100mほど行った道路北に若宮社がある。若宮社の祭神は、仁徳天皇である。若宮社の祭りは西地区の人が行い、12月15日であったが、現在は天神社とともに12月の第2日曜日となっている。2月1日は、この境内で百手祭りが行われている。弓と矢は竹で作り、直径2尺の竹を組んだものに障子紙を張った的を作る。10mぐらい離れた所から的を射る。的に当たった人は、その年は運がいいといわれている。地区内には、他に金毘羅社・祇園社・毘沙門社など多くの神仏が祀られている。これらの社は、地区の鬼門や裏鬼門に当たる所などに多く祀られて、人々の災難防除と幸せを願って建てられたものと思われる。 面浮立は明治の頃から 若宮社から西へ150mほど行った道路北側に、松壽山桂秀院がある。元亀元年(1570)2月、勝海和尚は曹洞宗高傅寺末として桂秀院を建立したが、万治元年(1658)2月、檀中の帰依によって高傅寺10世渓雲和尚を請じて開山した。この元亀元年には、8月19日に今山の戦いがあり、7月末には国内で大洪水が起こっている。昭和18年頃の夏の祇園の時に、お寺の境内で青年団による仁○加が舞台を組んで行われた。新しく仲間入りをした青年たちは、提灯を買って周りに下げたという。上新ヶ江には、面浮立がある。この地の面浮立は、明治34~5年頃芦刈村の東道免で行われていた面浮立を習いに行って、この地で行われるようになった。高岸龍夫さん(71)は「昭和28年の伊勢の遷宮祭で、県の代表として踊ったことがある。その時は汽車で、1車両貸し切りで出かけた」と話された。この集落に、戦前には雑貨屋が1軒あった。世帯数は55軒ほどで、現在とほとんど変化がないという。
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福所
幸せを願って付けられた地名 福所は、町の西で国道207号線の南に位置し、西に福所江が流れている。貞享4年(1686)改、天保5年(1834)の郷村帳には独立村として記されているが、嘉永4年(1851)、万延元年(1860)改の郷村帳には久保田村の小字の1つとして記載されている。名前の由来を知る人はいないが、福所とは福が集まる場所。幸せを願って付けられたと思われる。所は、以前は庄の字を充てていた。庄とは、荘園の廃止後、かつて荘園の名を受け継いでいる土地の呼び名であり、福庄もかつては荘園のあったところであろうか。字快満、字恒安、字福庄などの田面下4、5mの層には貝殻まじりの粘土層があり、このあたり一帯は、以前は海であったと考えられる。同集落の古賀昭さん(68)は、「以前福所と丁永へ通じるクリークの中に、大きな木の抗があった。それは船の帆柱だと父から聞いたことがある」と話されている。 保福寺に龍造寺隆信が度々休息 福所の交差点から西へ入ると、水田の中に長寿山保福寺がある。この寺は、龍造寺隆信によって天正年代に建立されたと伝えられている。保福寺は、福所江や昔の有明海の海岸線にも近く、付近は格好の狩り場であったと思われ、龍造寺隆信が有明海沿岸に鴨猟に出かけた際に度々立ち寄ったと伝えられている。また、保福寺の西で福所江に人の通れるくらいの小さい板橋があり、芦刈から来る人はこの橋を渡り、村中を通っていったという。この集落の北に、木立に囲まれた閑寂な寺院がある。彦隆山安養寺西持院と大権現の社である。西持院の前から南へ約80m、幅3mぐらいの道路がある。この道路は、西持院馬場という。地元では「しゃあじんばば」と呼び親しみ、参道から大権現までの桜並木は絶景であった。久保田宿からは、弁当持参で花見を楽しむ人達もいたが、この桜は枯れ果てたので、平成元年に再植樹し、また人々の目を楽しませてくれるようになった。 子々孫々までの繁栄を願う大日如来 東には興福寺があり、400年前に建立されたといわれている。この寺の境内に大師堂があり、中には大日如来が祀られている。戦前にはこの境内で夏祭りの祇園が行われ、沢山の出店が並び、久保田宿から狂言役者などを呼んでかなりの賑わいがあったという。戦後途絶えていたが、10数年前より子供クラブが中心となり、子々孫々までの繁栄と人々の健康を大日如来に願い、豆祇園が復活されている。字上新ヶ江、字丁永、字中副以北には、八筋濠がある。八筋壕は、条里制のなごりだと思われる。この濠は、農耕のためのものであるが、生活用水としても重要な役割を果たしてきている。秋には、集落総出で掘り干しを行い、用水の確保と副産物としてフナ・コイ・蓮根などをとり、供日のご馳走として客をもてなした。また、菰・葦などの水草やタナゴ・ハヤ・フナなどの小魚、渡り鳥なども多く見られた。享保・天保などの度重なる自然災害により、西の福所江そばに災害や疫病退散を願った天神社が祀ってある。地元では、「おていじんさん」と呼び、12月には現在でも家々にしめ縄を飾りお祭りしている。藤木キヨさん(83)は「以前は、17坪濠井樋から東は中村、西は福所と呼んでいた。30軒前後の家があり、ほとんどが農家であった。いざこざも少なく、のんびりしていた」と話されている。平成3年以降宅地開発が進み、50戸程度であった戸数も100戸を超えるようになった。掘割りと密着した生活形態であった昔、自然と共存しながら祭りと農業の暮らしを住民の結束で支え守り続けて来た。今度はこの先人の功を受け継ぎ、祭りや行事をどう伝承していくかが重要な課題であろう。
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上恒安
世帯数27戸から現在は150戸へ 上恒安は町の中北部で、旧長崎街道の国道207号線をはさんだ地域に位置している。 永禄年間(1558~70)当地に後藤貴明(武雄領主)が自運庵と称する居館をもっていたが、龍造寺隆信に追われ、塚崎城(現武雄市)に逃れた。元亀元年(1570)満岳宗久が父宗成の意思を継ぎ、貴明の草庵を改築し、曹洞宗満岳山龍顔寺を創建、恒安に居館した。宗久の出自は不明だが、居館跡は現存する。天正年間(1573~92)隆信と貴明は和睦し、貴明の子弥次郎晴明を隆信の養子として、太俣郷に500町の領地を与え、晴明は恒安に居館したという。満岳宗久の子孫は連綿として、江戸時代には太俣郷の大庄屋(地元では、うーじょうやと呼んだ)を世襲し、明治維新後満岡良貴は第2代村長に就任している。(現在地藤瀬民男氏宅付近) 大神宮さんでお祀りをしていた 満岳山龍顔寺は、上恒安の西南にあり、道路を挟んだ東に大神宮がある。この大神宮は、永禄年間に後藤貴明が草庵の鬼門にあたっていたために祀ったもので、戦前は春5月に集落総出でお籠りをしており、家々からご馳走など持ち寄りお祀りをしていた。鶴丸静夫さん(80)は、「以前は、大神宮さんの境内は広く、お籠りの時は弁当を持っていって老いも若きも楽しみにしていた。また、子どもの頃はぺチャや投げゴマで遊んだことがある」と話されている。このお籠りは、戦後は王子宮で続けられている。正保国絵図に恒安村の記録があり、万延元年(1860)改の郷村帳には、恒安村の小字として福島・館屋敷・口ノ坪・王子の記載がある。「明治十一年戸口帳」によれば「久富村のうちに恒安村」とあり、戸数52戸・人口270人と記録されている。名前の由来を知る人はいないが、この地は中世に戦乱や天災に人々が苦しみ、故に「いつも平穏な所であるように」との願いを込めて、恒安と付けられたものであろうか。国道207号の南に朱塗りの鳥居が見える。王子権現社と王子森稲荷社である。ここで旧暦の8月8日に夏の祇園が行われていた。舞台掛けで浪花節(上恒安出身の伊勢清さん)や狂言などが行われ、徳万町等からムシロをもって場所取りに訪れるくらいに賑わった。その後集落の青年たちにより素人演芸なども行われたこともあった。現在は、9月の日曜日に秋祭りを行い、集落総出でレクリエーションなど楽しみ、住民の懇親の場となっている。また、平成9年1月には、集落の鬼火たきも復活している。 季節保育所を開設 王子宮の南に町最古の寺、三学寺(838)がある。承和5年全国的に疫病や天災がおこり、大宰府の鎮守府将軍俊仁は、僧仁海にこの災難を防除させるために三学寺を創建させた。この寺で昭和10年頃に農繁期の季節保育所が開設さている。この保育所には10人ぐらいの幼児が預けられ、非農家の奥さん達が世話をしていた。昭和18年には、村より表彰状が贈られている。上恒安集落は、毎月12月8日と4月8日に当番が祐徳稲荷神社に詣で、お札を貰って家々に配る。100年以上も続いているといわれている。古老たちは、「昔は、おじいさんたちが夜なべして草履を造り、朝暗いうちから履いてお参りにいった」と話している。納スミさん(80)は、「この地域はクリークが多く、春のごいあげや秋の堀干しの時には、フナやコイなどがよく獲れた。家の裏の道は今よりもっと狭く、久保田宿から南へ通じる道路は、以前は堀だった」と話されている。戦前は、この集落の戸数は27戸(国道北側には2戸)で、昭和60年頃より徐々に戸数が増えてきて、現在は150戸を越すようになった。また、戦前には酒饅頭屋や床屋、染物屋もあったことがある。
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久保田宿
戦国時代に繁栄した宿場町 久保田宿は、町北部の旧長崎街道(国道207号)沿いで、徳万交差点から約800m西に位置している。「明治七年取調帳」では、久保田村の枝村に久保田宿の記録があり、「明治十一年戸口帳」には戸数69戸、人口307人と記録されている。久保田宿は、千葉一統が小城一円に勢力を張っていた戦国時代に、軍用、平常用の物資の取引拠点であったらしく、附近に式町・高町・入道町・西徳万の商業地名をいまに残している。戦国時代には民家・寺院・神社などたびたび兵火にかかり、その面影は失われている。以前は、集落の東の交差点に死角道があり、中世の街道の特色を伺うことが出来た。 長崎街道を別名シュガーロードといった 江戸時代、海外貿易の唯一の窓口であった長崎に通じる長崎街道は、様々な人や物が行き来した。その1つに砂糖も数えられている。中国から日本へ大量にもたらされた砂糖は、長崎街道から各地に広まっていった。長崎街道は「シュガーロード」ともいい、久保田宿には砂糖菓子等を製造する商家が数軒あった。集落中央で、国道207号線沿いの北側に祇園社がある。祭神は、素戔鳴尊。暴風神、農業神、英雄神などの神とされる。創建は、天保9年(1838)頃とされる。当時、この地方に災害・疫病が流行し、神助を得るため小城の祇園社から分神を仰いだといわれる。この祇園社で、旧暦の6月15日に夏祭りが行われている。以前は、神事の後歌舞伎役者を呼んでの興行や一幕だけ集落の若者による仁〇加などがあり、境内や道路に出店が並び賑わったという。昭和60年から平成6年まで子供神輿が出されたが、ここ4年ほど余興は中止されている。集落の中心を東西に国道が走っている。この国道は、以前は荷車がやっと行き違えるくらいに狭かったが昭和12年頃改修工事が行われ現在の道幅になった。大島勝さんは「改修工事は、道北側の民家が移転し、南側は軒先を削ったぐらいだった。当時は、人力で道路に栗石を並べて造られたが、この栗石は昭和30年頃水道の敷設工事でなくなった」と話されている。 昭和31年頃まで駐在所があった 明治22年、道路北側で祇園社の2軒西側に附近の治安維持のため駐在所が設置されたが、昭和31年頃廃止されている。 明治・大正・昭和の初め頃は、鍛冶屋(農業用具、刃物)・祈祷師・狂言役者・歌舞伎役者・雑貨屋・鍋や釜の蓋造り屋・大工・桶屋・舞台装置業・畳屋・菓子屋・精米所・按摩さん・履物屋・豆腐屋・乾物屋(イリコ・カツオブシなど)・蒟蒻屋・仏具屋・独楽屋・醤油屋・床屋・酒屋・ユバ屋・ラムネ製造所・ランプ屋・カンピョウ製作・竹屋・士かまど屋(イズミヘッツー、イズミとは、石炭を燃やした殻)・運搬業など多くの商家が軒を並べていた。家の入口は、板戸を手前に引き上げ全開する造りで、入口のそばから道路に面したところは半間の板敷があった。松永安雄さんは「子どもの頃、夏の夕方は裏の堀から水を運び、道路に水まきをし、バンコを出してウチワで仰ぎながら夕涼みをした。大人たちは将棋を楽しんでいた」と話されている。宿交差点から西へ約100m、国道の南から福所の権現社と西持院に通じる道路がある。この道路は、1間ぐらいの広さがあり、道端には外来の疫病や悪霊を防ぎ旅の安全を願う道祖神もあり、一般の人々の往来が多くあっていたのであろう。以前の西持院附近は樹木が多く、久保田宿や周辺の子どもたちは、この森でグミやへボの実、椋の実、野いちごなどを採って食べたりして遊んだ。この集落は、公民館活動が盛んで、毎年集落独自の運動会や文化祭などが催されている。
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下満
以前は三日月村の飛地があった 下満は町の北西部で、国道207号線沿いに位置する。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」に1村として記録があり、貞享4年(1687)改正「御領中諸郡郷村附」「天明郷村帳」では古賀正兵衛の給地との記載がある。「明治七年取調帳」「郷村区別帳」では、久保田村の枝村として記録されている。「明治十一年戸口帳」によれば、久保田村のうちに「下満村」とあり、戸数7戸、人口35人と記録されている。下満には、明治の頃まで小城郡三日月村金田ヶ里の飛人地があったが、明治30年の行政区画変更で久保田村になっている。名前の由来を知る人はいないが、三日月町に上三津とあり、そこと何か関係があると思われている。また明治生まれの古老たちは、三日月の学校に通っていたという。下満の西方を西古賀という。貞享4年改の郷村帳に太俣郷(村田家の所領)内に久保田村とあり、その小字に西古賀の記録がある。西古賀とは、久保田の西にあたる荒野であったことにちなむと考えられる。下満と西古賀は、以前は別々であったが、昭和30年代前半に一緒になったといわれている。 旧長崎街道を畷と呼んだ 集落の南に国道(旧長崎街道)が通っている。この道を古老たちは畷という。(久保田宿のはずれから牛津新宿までの道、地元では″のうて”と呼ぶ)畷とは、田の間にある道で、古くは広さ6尺の畦道をいい、低湿なものを道路にしたものである。隣の牛津町には、十丁畷の地名も残されている。以前の村中の道は、3尺道(約90cm)が多かったが、車力が流行るようになって6尺道(約180cm)になったという。戦前の下満には、長勝寺、押明寺、如意庵、修善寺、光明寺など小さな地域内に多くの寺院があったが、現在は永福寺と明春寺のみとなった。また、集落の北西には廟田(びゅうだ)と呼ばれる田圃もあった。以前の下満には、館屋敷、北久保田屋敷、式町屋敷、同心屋敷、三王屋敷などと呼ばれるところが多くあった。屋敷には、石祠や竹薮があり、その周りは堀に囲まれていたという。稲股三郎さんは「祖母から、佐賀戦争があった時は、近くの竹薮の中に逃げ込んだ。と聞いたことがある」と話されている。昭和35年頃まで、境川の東の田圃からかわらつつ(表土の下の層の青土)を取って、瓦焼きなどに利用していた。この辺りの土は、素焼きや瓦焼きに適した泥であったようだ。千綿成一さんは、「以前西古賀の館屋敷と呼ばれる田圃附近には、鋤を使う時に“ほうろ”(素焼き)の小くずが多かった」と話されている。 下満の氏神様山王社 久保田宿のはずれから北へ150m、下満の民家を少し離れた圃場の真ん中に三王社と天満宮・弁財天の石祠が祀ってある。山王社の祭神は大山咋神で、農業の神様である。山王社は下満の氏神様で、以前は80mほど東にあったが、圃場整備で現在地(天満宮の境内)に移されている。戦前には舞台掛けで浪速節や狂言などが行われていた。また、牛津の商人野田家の日記によれば、下満で文化9年と天保7年春に狂言が興行されている記録も残されている。現在は、12月23日にお籠りが続けられている。山王社から300mほど西の田圃の中に若宮社がある。昭和15年の皇紀2600年祭の時にご神体を新しく作り替え、境内には桜の木が植えられた。春には家々から弁当を持ち寄ってお籠りがあっていたが、昭和53年に境内に遊具を備えるため桜の木は無くなってしまった。この若宮宮に20cm位の木彫りの像がある。この時は、大正の末ごろここに何日か逗留した人が、お礼に置いていったものである。この集落から昭和22年・26年・30年の秋の供日に、もりゃあしなどの浮立が出された。この時は、牛津町の練ヶ江までも、浮立を踊りに回ったこともあった。以前のこの集落には、駄菓子屋と酒屋の2軒の店があった。戦前は、西古賀に7軒と下満に12軒の民家があったという。
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北田
久保田駅の発展とともに歩む 北田は、町の最北部で小城市三日月町との町境に接している。この付近は、以前は葦野であったといわれ、その葦野を切り開き入植したと伝えられている。嘉瀬川堤防の禅門井樋から西の福所江へ堤防が築かれていた。溝田重雄さんは、「久保田の殿様は、三日月村といざこざがないようにと久保田内に堤防を築いて、北田は捨地と呼ばれていた。と父から聞いたことがある」と話されている。この堤防は、三日月村の木嶋溝の堤防がよく切れて水害が起きていたので、久保田全土が水害を受けないように築かれたものだといわれる。中野善四郎さんは、「以前は、徳万町に住んでいたが、廃藩置県(明治3年)後に北田に移ってきたと祖母から聞いている」と話されている。名前の由来を知る人はいない。北田とは、久保田の北の方にある田圃という意味か?。以前は、現在の主要地方道佐賀外環状線(旧国道203号)より東を東北田、西を西北田と呼び、東北田に2軒と西北田に4〜5軒の民家があったといわれている。明治15年「佐賀県各町村字小名取調書」に、徳万村の小字として北田の記録がある。 県道の設置は明治22年頃 北田の東で三日月町側に3mぐらいの農道がある。この道は、三ヶ島の小学校前へ続いており、小城の殿様の鍋島本藩への登城道だったといわれていたが、曲がりくねって不便であったため、明治22年頃徳万から北田を通り、小城、唐津を経て呼子に至る県道(当時の通称は呼子県道、のちに国道203号)が開設された。この道路は、軍用道路を兼ねた産業道路として着工された。また、馬車や荷車の利用が増え、旧来の里道では狭隘になったため、明治33年頃大字三ヶ島から四条、久本を経て久保田停車場に至る里道の拡幅工事が三日月村の負担で行われている。そのころ山崎實さん宅東の架橋も、三日月村の負担で行われたという。北田踏切から西に200mぐらい行ったところの北田公民館前に、天満宮の石祠がある。この石祠には、大正13年10月25日と刻まれている。天満宮は、以前は主要地方道側の消防車庫がある場所にあったが、昭和38年頃の道路改修で現在地に移されている。その頃は、境内に10本ほどの桜があった。3月の花見ごろにはお籠があり、家々からご馳走を持ち寄って集まり、大変賑わったという。天満宮の祭は8月25日で、昭和35年頃は筑紫美主子さんの佐賀にわかの公演や映画などもあったことがある。 明治29年久保田駅設置 明治29年10月に、「佐賀には55連隊、松原神社、神野茶屋、久保田を北に乗り換えて、ゆけば鮎つる松浦川」と鉄道唱歌にも歌われた久保田駅が設置されている。この久保田駅の建設のための盛土は、王子製紙体育館東側の水路から土砂を採り盛土をしたといわれている。戦時中には、この駅から出征軍人の見送りや軍馬の積み出しが行われ、村内からも軍馬の徴発などもあった。駅では、明治・大正・昭和の始め頃まで駅弁とともに久保田菱が売られていた。久保田駅は、その後唐津線の分岐駅として乗り換え客が増え、駅前商店街が潤うことになる。集落の西に王子製紙佐賀工場がある。大正12年の創業当時は、西肥板紙株式会社と称した。昭和28年に創立30周年記念式典が挙行され、北田婦人会も道囃子などを踊り大変賑わっている。この工場は、名称変更など幾多の変遷を経て今日にいたっている。以前のこの集落には、旅館・豆腐屋・ガラス工場・弁当屋・飲食店・精米所・床屋・洋服屋・釣具店・パチンコ店・製材所・鋳物工場・瓦屋・鉄工所・石炭屋・饅頭屋・タクシー・また駅前には昭和10年頃まで人力車の小屋があり、4〜5人の車引さんもいた。北田は、久保田駅の設置で大繁栄をみせ、世帯数150戸を超える大集落と飛躍するが、車社会の進展に伴い無人駅となり、現在は世帯数も減少しつつある。
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桜木
桜木の名称は、御館社の桜と桜堤計画から 桜木は、徳万交差点から南に900mほど下った左手の道路を、L字に200mほど行った所の集落である。この集落は、町当局からの要望を受けて、平成7年に佐賀県住宅供給公社が宅地開発をして、分譲住宅地として売り出したものである。第1期25戸が分譲地として売り出され、平成13年度までに28戸の住宅が建設されている。桜木の名称は、集落の100mほど北側にあった御館社の桜の木とそのころ県森林公園に桜堤計画があって桜木と命名された。県住宅供給公社の副島課長は「住宅の名称は、宅地の売り出しの時に付けるが、通常はその地区の字名とか〇〇ニュータウンなどが多い。久保田町では、古賀善行助役(当時企画課長)に相談して決めた」と話されている。御館杜は、5代邑主村田政義が龍造寺隆信・政家・高房を祀って建てたもので、境内には50本以上の桜があり、近隣集落からも花見に訪れ大変賑わったという。しかし、その御館杜も、昭和50年ごろなくなっている。在、桜木の低床公園の周りに20本の桜の木が植えられている。古賀助役は「名称は、横文字よりも、なにか謂れがあるほうがいいと思った。春になれば、家族で花見でも楽しめるようになるといいが」と話されている。桜堤計画は、平成12年度に完成し、森林公園の球場南に広がっている。そこは桜堤広場といい、他の樹木もあるが50本以上の桜の木が植えてある。 以前の嘉瀬川堤防周辺にあたる 桜木は、以前の嘉瀬川堤防周辺にあたる。この付近を文化4年(1807)の太俣郷国を見ると、御蔵入嘉瀬郷麦新江とある。御蔵入とは、直接領主の蔵に年貢が入ることである。この図面では、まだ嘉瀬郷に属しており、道路や水路などが記載されていない。この地域は、嘉瀬川の短絡により出来た地域である。嘉瀬・久保田の土居筋に決壊の憂いあり、久保田邑主村田氏から藩当局に願い出て、寛延3年(1750)に嘉瀬川の曲がりを堀切されている。圃場整備以前は、草木田の志波商店南から南西に向かって周囲よりも小高い道路があり、中塚被服の西を通り、龍宮社の東を通って土井の古賀の集落へと巡っていた。この道路は、嘉瀬川の堤防跡である。道路の東には、小さい水路があり葦や小笹が繁っていた。その東には、水田や桑畑などの農地が広がっていた。また、この道路から150m〜170m東に小高くて幅が小さい道路があった。これは対岸の堤防にあたる。この堤防跡は、道路として利用されていたが、堤防として役に立たなくなった周辺部は次第に切り取られていった。この旧堤防跡に囲まれた地域を町の字図でみれば、古川籠となっている。 瓦用の泥も採れた 小路の高森慶治郎さんは「ここの畑周辺には、櫨の木が何本もあった。戦後までこの櫨から実を探っていたが、昭和30年ごろ木炭にした。ヌカ殻を置いて焼くと、いい木炭ができた。また畑の側に、戦時中周辺の人たちが防空壕を作ったことがある。戦後まで防空壕はあり、長持ちなどが置いてあった」と話されている。田畑は、小路・草木田・麦新ヶ江の人たちが耕作にきていた。食料難の時代には、芋や野菜を作って大変助かったという。また、ここの農地からは瓦用の泥を掘り出した。ここの泥は、あず混じりの泥でいい瓦ができるといわれた。馬車に泥を積み込んで瓦屋さんが運んでいった。(あずとは、佐賀の方言で小砂あるいは粉砂のこと)桜木は、佐賀市にも近く静かで地理的にも恵まれ住みよい所だと思うが、現在経済の低迷でまだ25区画が売れ残っている。住宅公社の担当者は「宅地だけでも売れればいいが」と思案している。