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[旧佐賀市][ 地名・とおり名]は98件登録されています。
旧佐賀市 地名・とおり名
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長崎街道と嘉瀬
近世になって嘉瀬が史上脚光を浴びるようになったのは、何と言っても嘉瀬が、村の中央を東西に貫く長崎街道の重要な位置にあったからである。長崎街道は、鎖国時代日本唯一の貿易港長崎に通じる日本幹線道路であった。江戸時代全国の幹線道路は、五街道・八脇街道であった。長崎街道は山陽道に直結する九州唯一の脇街道(脇往還)であった。オランダ商館員ケンペル(1690〜92滞在)や、シーボルト(1823〜28・再来59〜62)も、この街道を通って江戸参府を行っている。 この街道筋で栄えたのは、本庄川の河港高橋宿で、下流の厘外・今津・相応津と共に用船の寄港地として繁栄した。天草・八代方面からの川船の出入が多く、バラス・木炭・薪・カライモなどを運んできた。入船は多いとき日に14,5隻もあった。その時は市が立ち近隣からの買い物客で賑わっていた。宿場には呉服屋・米屋・料理屋が軒を並べ、西の今宿といわれたという。それに続く扇町は、有名な鍋島緞通の生産地で、扇町出身の古賀清右衛門を元祖とする「扇町毛氈」として有名になった。藩の幕府への献上品にもなっていた。また明治維新に職を失った士族救済の為の士族授産として技術指導が行われたという。 嘉瀬川の嘉瀬津は、河港として中世末から江戸時代を通じて長崎街道の宿場町として栄えていた。嘉瀬上町・嘉瀬下町に分かれていた。藩は、ここに「津方」を置いて、港としてまた宿場町としての商業取引一切を管理していた。特産品として、鍋・釜・障子・襖等があった。本来、農業生産地嘉瀬も、長崎街道筋では交通商取引の盛んな宿場町として賑わっていた。
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千本松のはなし
嘉瀬川河川敷にあるバルーン会場の本部席あたりを千本松と言った。その千本松は、松林で荻野地区が海岸だった頃、有明海の潮風による塩害防止のため松の木が植えられ、松林は川上まで連なっていた。後に、成富兵庫茂安の指示で、松林は伐採され、代りに竹林が堤防に造成された。今は、堤防の竹林は、嘉瀬川改修工事のため消滅した。
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「かせ津の地質上の誕生」
北に連なる脊振山地は約1億年前、地下の深所で生成した火成岩が地殻変動により隆起し山地を形成したものと考えられている。 佐賀平野は、1万年前頃嘉瀬川などが山地を侵食して大量の土砂を運搬し、有明海の潮汐作用と相まった沖積平野である。 約5千年前(縄文時代)満潮位の線は、金立・高木瀬・森田・四条・生立ケ里を結ぶ線。 約2千年前(弥生時代)JR長崎本線が陸地の南限。 陸地化のスピードは百年で、川副1kmへ東与賀0.5km、久保田0.35km 、嘉瀬ごくわずか。 600年前嘉瀬中原、300年前嘉瀬新町、150年前嘉瀬新地籠造成誕生。 720年前の元冦以後干潟荒野が干拓の対象となる。荒野とは葦原のことだが、嘉瀬津にあちこち葦の立っている堀や凹地が見られる。かせ津は、有明海の凹地でもあり潮の満干を利用したよい船着き場であった。
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「嘉瀬津住民の流れ」
嘉瀬津は、昔、戦国期に海氏・平氏・源氏の所領であったり、武雄・多久・小城藩主の領地にもなったり、江戸期には鍋島藩主から久保田領主の領地になる。今の大字荻野は、昔は荻野村で嘉瀬川の西にある集落だった。 嘉瀬津は嘉瀬川の河港として船舶の出入り多く有明海の七つの津の代官所があった。 嘉瀬津の河港は、年貢米の集積また積出しの為、馬車利用の運送者や生活用品の製造販売者、技術者として鋳物製造・井戸堀り・酒造・寺や民家の建築士・石や・菓子製造者等、商店では呉服・小間物・日用雑貨店等の店が立ち並び、千人からの住民が住んでいた。 十を数えた寺も、現在八寺あるが、鍋島藩主の許可で、殆どが外の地区からの持ち込み寺である。河港の機能が無くなるや久保田領主は、寺は残して、住民を主に久保田の土地に移住させた。 その後の嘉瀬津は、主に住宅地になる。
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「佐賀の名のおこり」
「肥前風土記」は景行天皇・日本武尊の巡幸説話でその中から。九州全域の行政は筑紫大宰。肥前の国府は大和町久池井附近。国府の下組織に郡があって賢女郡があった。賢女郡がなまって佐嘉郡になったと思われる。賢女についてだが、反抗的な土蜘蛛に人形・馬形をつくり、国王の大荒田が占ないをしたら従順になった。この土地を賢女郡となすとある。「日本霊異記」777年奈良時代の説話集で、それには肥前国佐嘉郡(さかのこおり)とある。佐賀と言う地名は日本にあちこちにあるが、アイヌ語で「サガ」とは浜辺の土地を言うとある。平野自然造成の源は川上川であるが、弥生時代の後期(2.000年前)と思われる国主大荒田も国主卑弥呼と同じく、世俗的な権力と宗教的な権威とを兼ね備えて君臨したと思われる。
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倉屋敷
藩政時代に多久家(小城藩との説もある)より鍋島藩に嫁入りされた時に荻野に倉を建てたとされている。乙護神社の東の地区を以前より倉屋敷と呼んでいた。北島線の道路工事時に跡地と思われる遺跡が出たとの話もある。 また、嘉瀬川沿の、現魚市場より南に「遠の江」の地名(字名)が有り現在も使っている。この地は嫁入りの際に持参された土地で、現在でも小城市(三日月町)に、この行政区名がある。又この地は「化粧田」とも呼ばれていた
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相応搦(干拓地)
面積16町7反9畝20歩を測る。周囲よりも一段低く、その恰好が如何にも入江の様相を今に残している。完成時期は明確でないが、南の再興搦が文政期頃の所産とされているのでそれより多少遡るものと考えられる。
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再興搦(干拓地)
丸目の富農が主体となり、3期3搦に分割して築造したものである。最初に東部を築造して東新地といい、次に西部を築造して三丁搦といい、最後に中央部の江湖筋を築造して中の搦とした。総面積26町9反12歩を測る。
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新搦(干拓地)
再興搦の南にあり、面積は15町3反8畝15歩を測る。明治初年に始められたもので、丸目の富農の外、嘉瀬新村、元相應、高太郎よりの参加もあったという。築堤には土居心に松杭も打たず、鍬のみで築造し、工事作業員は白石地方より雇い入れたとのことである。
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戊辰搦(干拓地)
西与賀地区最大のもので新搦の外搦である。昭和3年戊辰の年に起工したのでその名がある。築造は近代的な工法によって行われ、昭和6年には潮止めが出来上り、昭和10年にはすべて完成した。出願者には東雅彦外65名で、面積は46町7反3畝24歩である。
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相應津
本庄江に面しており、近世に入って発達した津で慶長絵図(1596〜1615)には村名の記入がなく土地の造成された様子もない。また、正保絵図(1644〜1648)にも村名がない。安政4年(1857)の川副、与賀、嘉瀬津諸目安によると、相應津は上町と下町に分れ、津なので村の庄屋に相当する別当の支配を受けていた。上町は船23艘で人別は448人であり、その内訳は男239人女209人で戸数87軒で、侍2、手明鑓3、足軽6、諸家来31、御船手4、寺1、山伏1、被官2、百姓37となっている。上町は、商業か日雇いなどの職または漁業に従事していたと考えられる。下町は船数39艘で人別は512人で、その内訳は男264人女248人で戸数95軒で、足軽7、諸家来41、御船手2、被官5、百姓40となっている。 上町同様に足軽や諸家来が多いが、上流の今津に比べて御船手(水軍の船頭)が少ないのは、今津が佐賀藩水軍の基地であったのに対して、漁港または商港の性格が強かったからであろう。
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厘外津
慶長絵図(1596〜1615)には厘外として「石高二千六百十八石二斗二升二合」と記されている。厘外と書くのは江戸後期になってからと思われる。文化14年(1817)の郷村帳には厘外東分村(高柳、平松、野田、宮ノ丁)、厘外西分村(中村、中島、八竜)と記されている。佐賀本藩の蔵入地で村内に山本常朝の師湛然を開山とする曹洞宗の楊柳寺などがある。
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今津
天正年間(1573〜1592)、大宰少弐が龍造寺康家に命じて龍泰寺小路に築城するにあたり、小津江岸の賑いが城にあまり近いため、料理屋、宿屋の比較的多かった東岸の家を今の地に移させ今宿と名づけた。それにならい、港も今津と名づけられた。
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元相應
慶長、正保、元禄の絵図には村名の記載がなく、慶長年間(1596〜1615)頃の海岸線と考えられる。その後の沖積と干拓とによって陸地化し、耕地化が進んだのである。相應津の東にあって戦国末期までは小津江の河口の潮待港の役割をもっていたと思われ、のち本庄江に沿った相應津にその役割を奪われ、内陸が水田化した。文化14年(1817)の郷村帳に与賀下郷元相應村とある。明治初年に高太郎村となり、のちに西与賀村となった。
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高太郎
足利時代大宰少弐資嗣が佐賀に存りし頃、中国の豪雄大内徳雄なる人物が飯盛城に在住した。飯盛城は本庄村上飯盛の常照院の地であった。 時に事情あって資嗣がこれを攻めた。その時、資嗣は本庄、与賀、川副方面の郷士をつれて夜襲をかけ飯盛城を陥落させた。大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て筑前に逃れた。その時軍は退却しつつ高太郎に来て潰滅した。その追撃戦に大いに功績をたてたのが小太郎丸、高太郎丸の両名であった。これによりこの地を平定し豪族として勢いを得た。現在の高太郎は領主の名をとって字名とした。 文化14年(1817)の郷村帳によれば、秋丸小路、中ノ小路、舟津小路、蔵床小路、野口小路、唐津村の各集落からなる、かなり広範囲の村であった。
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西与賀町の地理的環境
佐賀市は佐賀平野のほぼ中央にあって、北に脊振・天山山系を臨み、南には有明海が広がっている。西与賀町は南北に細長い佐賀市の西南部に位置し、西はゆるやかに蛇行しながら南流する本庄江で嘉瀬町と接し、北東部を本庄町、南東部を東与賀町に接している。面積は5.35kmであり、産業は干拓事業で広大な土地があり、第1次産業の占める割合が大きい。特筆すべきものとして、有明海に近い土地柄のせいかノリの養殖や水産物加工産業がある。 佐賀市の中心部から車で十数分の通勤圏であるが、町の大半は市街化調整区域であるため、高木瀬、鍋島地区に見られるような急速な市街化は見られない。しかしながら既存宅地周辺は少しずつではあるが住宅が増加する傾向にあり、昔日の西与賀町は日をおって遠くなってゆく感がある。
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西与賀町の成立
藩政期には本藩の蔵入地であったこの西与賀周辺も、版籍奉還という全国的な改革の中で新たな行政区分が設けられた。 明治6年(1873)の大区小区制では厘外村を第14大区第2小区、高太郎村を第14大区第1小区とされていた。次いで明治21年(1888)に公布された市制・町村制では、佐賀郡厘外村、高太郎村を合わせて西与賀村が成立した。この時、佐賀市は町制か市制かの論争を経て、明治22年(1889)に旧城下と周辺の地域を含み市制がしかれた。 大正11年(1922)に佐賀郡神野村を市に編入。昭和29年(1954)3月、佐賀郡内の高木瀬・兵庫・巨勢・嘉瀬と同時期にこの西与賀村も佐賀市に編入され、同年10月、同じく久保泉・金立・鍋島・本庄・北川副を編入。翌30年には神埼郡蓮池町(一部を除く)を編入し現在に至っている。
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蓮池の由来
蓮池に関係する地名はいつ頃から世に知られたのであろうか。『図書編』という古書に「肥前州法司奴一計(はすのいけ)あり。」とあるが、その起源、いわれは不明である。この場合、蓮ノ池が現在のどの範囲を指すか詳らかではないが、中地江から西、大字蓮池が主邑であることは間違いなかろう。また、地理的にみて、今から1.200年前頃の海岸線が佐賀江に沿うた線ではなかったかと推定されることから、1.200年以前より古い時代とも考えられるが、天平の初め頃出来たとみられる『肥前風土記』にその名が出ていないところから、まだ、目立った集落、地名はなかったのではなかろうか。 蒲田津については、『肥前風土記』に「神埼郡蒲田郷郡西に在り。第12代景行天皇巡幸のときから蒲田郷の地名が起こった。」とされている。また、同風土記にいう蒲田郷の地域については明確なことはわからないが、元広島大学米倉教授の研究になる「条里から見た肥前の郡、郷、里」によれば、「蓮池町蒲田津を主邑として餘江、柴尾を含み、直鳥の南に及び、城原川左岸の用作等にわたり条里の10里余りの地であったろう」と推定されている。いずれにしても相当古い土地柄であることは判明しているが、その頃の情況については殆ど知られていない。
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蓮池5ヶ町など
お城下は、城内のほか郭内と郭外に分けられ、郭外には武家を配置し、郭内5町を町人の町とした。 本町は5か村のうち一番早くからの町のようで、小田氏の頃は嘉与丁と続いていたらしく、浄国寺の山門は、嘉与丁にあったという。鍋島時代も商店街として栄え、明治以後は、法務局(登記所)、駐在所、郵便局などが並び、大正に至り、肥筑軌道の蓮池駅もでき、種々製造業があって活気を呈したが、現在は空地も見られるようになった。 魚町は、今宿江が今の形に出来てから船着場の商人町として栄えた。慶応年間橋の架かる前は、嘉与丁との間は舟渡しで、魚町の方に水口として番所があった。問屋は唐芋でよそにも知られたが、(トコロ)テングサなども扱われた。廃品回収業も九州初の業者として、上方へ船積みして盛んであった。種油、うどん、水引、傘、カマス、米なども出荷された。明治には人力車の「タテ場」が出来、順を待ってたむろしていたという。 西小路・北小路は武家屋敷で、明治になると、軍人、官僚、学校の先生等になって蓮池を離れた人が多い。 城原町、神埼町はその名の通り、元日の隈山の東、城原の江上氏に従って移り住んだ人達で出来た町で、城原町は職人の町、神埼町は商人の町として栄えた。 藩の御用金を承ったという丸木屋は薬種商が本業で知られた。ここに昔伝わった「髪の毛綱」は城の普請に使われた物とも言われ、拝領ものと想像されるが、今は、千代田公民館に保存されている。 紺屋町は昔、金銀細工、うるし細工など盛んで、今佐賀に残るマトイにも紺屋町、本町の名が記されている。度々の火災で昔の紺屋町の繁栄を知る資料が少ない。
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鷹屋小路
「鍋島直澄公寛文2年田獵に用いる所の鷹を中地に養い鷹屋小路を置く。」と記録があるが、見島地区の南部一帯の字名は中地名と云い「鷹屋」という地名がある。比の処が鷹を養った場所と推定される。
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平重盛と経の島
大化の改新後、大宝律令が制定され、公地公民の基本的政策のもとに政治が一新された。 しかし、貴族や官職の位階、大小の社寺、朝廷に対する功労などにより応分の私的所有田が与えられた。いわゆる荘園である。これは班田制の崩れるもととなり、武士の起こりの要因ともなった。やがて中央集権制度の弱体化に伴い、地方は争乱のちまたとなり、政権は貴族から武士に移り、封建時代が始まった。 12世紀頃西国の武士団は平氏の権力に属し、平正盛、忠盛らは山陽、南海、西海に勢力を伸ばしていた。『長秋記』によれば、忠盛は長承2年(1133)、肥前国神埼荘で宋船と貿易を行なっており、杵島郷は大功田として平清盛に与えられ、鹿瀬荘は教盛の所領で、わが兵庫の地域に平重盛の領地があった。 重盛は父清盛の罪障消滅を祈って、高倉天皇の治承3年(1179)、領地の千住に経島寺を建立した。みずから金泥をもって紺紙に法華経を浄写し、これを石棺に納めて霊域を選び、ここに埋め周囲を掘り上げて島を造った。 今も経島寺の門前に5アール余りの濠にめぐらされた小島が現存する。これを経の島と呼んでいる。
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津出し道
東中野の中央部を通っている道路は、藩政時代「津(船のつく所を津といった)出し道」といい、上は山内地方へ、下は巨勢郷高尾に通ずる往還(道路のこと)で、人馬の往来が絶え間のないほどであったといわれている。
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長崎街道跡
江戸時代の地図でみると当時の橋は今の構口橋のやや南に架かり街道は川に沿って南に下り構口公民館の横を通り丸中木材市場の南を回り九州恵商会の南を経て五叉路に出て牛島宿の旧道につないでいた。 今は構口公民館で消えている。
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東西の「蔵福坊」
田原伊勢守尚明は大友宗麟の家臣であったが、今山の戦いの際、宗麟に諫言したが用いられず怒りにふれ浪人となった。そこで、龍造寺に降り、佐賀東西に領地を受け住むことになった。その長男は感ずるところがあって、修験者となり蔵福坊と称した。以後、天正7年には熊野権現社を同地に勧請し、氏名を代々世襲にし、明治20年ごろまで祈祷を続けていた。 蔵福坊の祈祷所は東西にあったが、勧請した熊野権現は現在、権現堂の修理田神社となり、境内には巨楠、老松あり、いかにも往時を物語っている。東分下を権現堂と呼ぶのはこの堂に由来する。また、この辺りを千本山というがそれは田原家調練所跡と伝えられている。 現在長江寺横、東西稲荷神社前(※)に建っている鳥居は、明治時代まで蔵福坊御坊397番地に建っていたものと言われ、「東西村高平山、保食社蔵福坊良政貞亨四年」と刻まれている。徳川綱吉の生類憐みの令が、出された年に作ったもので、歳福坊が専心郷土の五穀豊穣を祈願したものと思われる。この一大勢力を保持した蔵福坊も時代の流れには抗することができず、いつしか彦山権現に移ってしまった。 ※東西稲荷神社とは保食神社のこと。長江寺は保食神社そばにあった寺で、すでに廃寺である。 ※写真は保食神社鳥居。蔵福坊の名前が刻されている。
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東分の「雪隠角」と「柳原の裏門」
修理田311番地、現在の東島部落の東南、長崎街道筋にあって旧藩時代上使上下向の際、あるいは、佐嘉城入城前不浄のため、また任務終了後の帰途、身を整えるため大小便をした。「雪隠角」とはその公衆便所があった一角と言われている。 なお、その西南の土橋を「柳原の裏門」という。昔、ここに大庄屋が住んでいて、その大邸宅の裏門があったとも、上納米を蓄える郷倉があって門番がいたその東門の一の橋を裏門といったとも言われている。
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高尾の「堂屋敷」「八幡屋敷」
学校から西方約200mの地点で堀で囲まれた約5.500㎡を高尾堂屋敷という。また、池田氏宅堀南を八幡屋敷という。現在水田や住宅地で何の変哲もないが、藩政時代は佐賀の東の入口で、一大要害所であった。ここに城郭があって竈王院などもその城郭の一角であったと言われる。(明治24〜5年までは小笹や松が生い茂り荒蕪地であった)また、その西には「藤棚があり江戸への参勤交代の際の送迎の地であった。なお、その辺りには慰安所が置かれ、昭和の初めまで名残りを留めていた。
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高平と「長専寺」「高平寺」
修理田451番地の堀に囲まれた一角を長専屋敷と呼ぶ。ここには昔「長専寺」という一大寺院があったと言われる。その東北の角には大正時代まで1本の巨楠と薬師堂があった。今は「ヤクシドウ」という地名として名残りを留めている。またその南を「サラマチ」、西南を「寺町」と呼び、竹薮からは墓石が発見される。 なお、この地は古文書によれば「古溝が里」と記され、今宿江と巨勢川の合流地であり、佐賀東の入口として重要な船運の地であり、交通運輸の中心地であった。 長専寺の北には高平寺があり、いつの時代からか一帯を「高平」と呼ぶようになった。高平寺は大友宗麟の佐嘉城包囲の際焼失したと伝えられる。 現在の巨勢町の中心地、高尾・平尾などは後年開けたので高平の尻尾の意味だともいわれ、昔の高平とは現在の西分・東分下・東分上を称した。
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高尾宿
長崎街道は構口より丸中市場の南を通り、牛島宿の五叉路にでて旧道をとおり高尾宿の旧道をぬけ、東で南に折れ、公民館前に出た。また、寛政元年の巡見録によると当時の人数550人、戸数は、100軒ほどと書かれており、郷村帳には宿、南小路、中小路、井手小路、竈王院小路などの集落が書かれている。この宿が高尾宿で他は高尾小路である。 また、菱屋平七の筑紫紀行には「7、8町いけば人家100軒あまり、茶屋多し」と書かれ、高札といって、宿屋をおかない、小店並ぶ宿場町であったそうである。 このように、長崎街道と巨勢川の交差点で恵まれた場所で、高尾宿公民館付近は佐賀藩の年貢米の倉庫があって、ここをお倉浜といって「津出し浜だし」といい、高尾津より米の積出しが行われ、牛島宿には、「高尾市場」と呼ばれる農作物の市が開かれ、物資の集散地として栄えた。 昭和初期までは、魚屋、八百屋、酒屋、豆腐屋、菓子屋、床屋、荒物屋、畳屋、仕出し屋、自転車屋、醤油屋、肉屋、飲食店、粉ひき屋、煙草屋、製麺屋、精米所、小菓子屋が軒を並べ、それに酌婦を置く遊里が5軒ぐらいあって、さらに、高尾宿の公民館前の倉庫は巨勢町の役場があり、駐在所、病院もあって巨勢町の中心で人通りも多くつねに賑やかであった。 しかし、南に新しい道が出来て、店なども他に移り、ぽつぽつと空地もできて次第にさびれていった。
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本庄の地名の起源
平安時代になると土地所有の仕組みがゆるみ、有力貴族や寺社が土地を所有するようになり、荘園制度が発達した。平安時代後期になると佐賀地方でも与賀荘を含む多くの荘園が設定された。 与賀荘は、建長2年(1250)には与賀町からその南部に存在していたことが史料(『東福寺文書(京都)』)などで確認されている。正応5年(1292)の史料(『河上神社文書(大和町)』)には、与賀本荘120丁、与賀新荘600丁との記載がある。 建長2年以降与賀荘に近接してできた荘園を与賀新荘(鍋島町新庄一帯)と呼び、もともとの与賀荘を与賀本荘としたことが分かる。この与賀本荘から「本荘」を地名にしたことが考えられる。荘園の名残りの地名と言える。 明治22年(1889)の市制・町村制施行に伴い、村名を「本荘」から「本庄村」と公示したことから「本庄」が用いられるようになった。
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本庄町の変遷
本庄町の藩政時代は、本庄東西を本荘郷とし、末次東西、鹿子、上飯盛を与賀上郷と称し、六庄屋を配し、六郷蔵一社倉を置いていたが、明治維新の際に、川副郷の一部であった袋村を編入し四十大区三小区と称した。また本庄村外三ケ村戸長区域としていたが、明治22年市制・町村制実施の際、厘外村の一部であった正里村を編入し、上飯盛の一部を西与賀村に割き、また、鬼丸、田端、大崎等の転在地を佐賀市に譲り、面積は約6.8k㎡となった。 藩政時代は藩の直轄で、庄屋、村役、咾、吟味人、散使(さじ)等をもって一つの村の行政を形作り、筆者をもって、名寄帳の整理をさせていた。 また人、馬の数により年貢を納めさせ、郷蔵を置き腐敗苗に備え、御囲苗(オカコイナエ)を播き、斃馬のためには、馬拝借(金員)を下賜し、雇人取締のためには小頭を置き、農家のため保護をした。 維新後は大区、小区となり、区長の下に副区長を置き、また小区ごとに戸長を置く制度となり、その後村長となる。 また納税は金納となり、戸長においてすべての収支を司どる。