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[旧佐賀市][ 民俗芸能]は11件登録されています。
旧佐賀市 民俗芸能
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嘉瀬浮立の始まり
秋の彼岸が過ぎて10月に入ると、日暮れから浮立稽古の鐘や太鼓の音が聞こえ始め、鎮守の神のお祭り(おくんち)の近いのを知る。おくんちと浮立の結びつきは200年ほど前にさかのぼる。鍋島藩第八代藩主治茂の頃、天然痘(疱瘡)が大流行したので、治茂は難病回避と五穀豊穣を願って祈祷を命じ、神社に浮立を奉納させたのが始まりといわれている。
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浮立
・荻野には乙護神社があり、字荻野と野田東原が氏子で秋の収穫祭として神社に浮立を奉納している。(供日)・昭和50年代までは10月21日に奉納していたが、稲の収穫日、子供の参加等で現在は10月の体育の日となっている。・昭和30年代までは青年団で浮立をしていたが、以降若者が少なくなり、子供が参加して現在に至る。・戦中、戦後は出征者の家、戦死者の家を廻っていたが、現在は地域の役員宅を廻っている。野田、東原が浮立をしないので、荻野が毎年行う。
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権現堂の浮立
権現堂にかつては玄蕃一流の浮立が伝承されていた。笛と太鼓の囃し浮立に合わせて踊る所作は民俗芸能の要素を濃厚に示している。 末次峯二家に相伝される『浮竜太鼓帳之巻』によると、「晝夜ニ限ス太鼓ヲ打ハ諸魔ヲ拂ヒ諸願ヲ成就スト」と記録され、悪魔払いの民間信仰の行事であることを物語っている。また、悪魔払いのほかに、五穀豊穣・てんぴ追い・雨乞いなどの時に、この浮立を舞うという伝承がある。 玄蕃一流の浮立を練習する時期は盆過ぎから部落の広場で夜になされていた。そして、巨勢神社の「おくんち」に12年に1回、お上り、お下りのときに浮立を舞って送迎し、奉納もしたものである。 浮立役者の役目・年齢層・行装・服装は、 1.笛…3〜4人(中老・青年)。黒足袋を履き、横笛1本を持つ。 2.大太鼓…一人(4代目の末次峯二氏に相伝されている。)わらじ・きゃはん・てんじく(天竺)を身につける。 3.大太鼓の助手…1人。ハッピ・わらじ・きゃはん・てんじくを身につける。 4.鉦……16人(30歳以上の男)。しゃぐまを被り、ハッピの黄の帯をしめ、きゃはん・わらじを身につける。 5.もりゃーあし(踊り子)…30人以上(子ども・娘)。紋付・ぞうり・花笠・小太鼓を身につける。 6.長老…二人。紋付を身につけ、お謡いをする。 7.さいりょ人(世話役)…13人。紋付を身につけ、ちょうちんを持つ。 などである。 浮立役者は権現さんの所に集まり、鉦-もりゃーあし-大太鼓-笛の順に並び道ゆきをする。そのときは、部落内の入り口のところで鉦を打つ。 巨勢神社へ奉納されるときは、「神の舞」として、てんじく(天竺)を頭に被り、「西方舞い」の「うしろ巻き」を太鼓に合わせながら、 そもそも浮立と申するは 古のころよりも 龍神祈る かしわ手に 打って祈れば龍神も ゆるぎ出でさせ 給ひける 東西南北の悪魔を払って 白酒の露をば 授け給ふ と、謡い終わると、直ちに笛の合図で踊る。 「神の舞」のタブーとしては、「てんじく(天竺)を頭にして、こざを祈って、昔は舞いそこなうと、ござ敷いて切腹せんばらん」とある。 末次峯二家を中心に伝承される玄蕃一流の浮立は、古くから農耕儀礼の系統が巨勢神社の降神儀式の芸能化であり神事芸能であったとみられ、民俗芸能としての価値を高めている。また、その芸能集団が権現堂の末次家を中心として存在したといえよう。
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東分下の浮立
この地区には郷土芸能としての花浮立が伝承されていて、巨勢神社のお下りの時の熊野神社と巨勢神社に奉納される。この浮立は正しくは神野の掘江神社の神主が始めたと言われ佐賀平野一帯に広がった玄蕃一流の浮立である。笛や太鼓と鐘の囃子に合わせて踊るものでこれに天衝舞と言われる独特の踊りがあり民俗芸能の姿をしている。 末次氏宅に伝わる浮立大太鼓陰之巻によると弘治元年(1556)山本玄蕃に始まり安永8年(1779)古賀次右衛門が当地区末次栄蔵に伝授したものであると記され、どんな理由でこの地区に取り入れたかは明らかではないが、この巻き物には大太鼓の打ち方などが記されている。また、その中に、「昼夜に限す太鼓を打つは諸魔を払い諸願を成就す」と記され、悪魔払いや五穀豊穣、てんぴ追い、雨乞いなどにこの浮立を舞うという伝承がある。 浮立の練習は13年に1度の巨勢神社のお下り当番の年に盆過ぎから地区の広場で夜行われ、巨勢神社お下りの日には地区の人々でこの浮立で送迎し、奉納をする習わしである。 浮立役者の役目と服装 1.鐘 約16人(中年の男) 法被に股引きで身を固め、黄色の帯をしめ、しゃぐまをかぶる。 2.笛 約4人(中老) 黒足袋をはき、横笛1本を持つ。 3.もりゃあし(踊り子 若者男女) 約20人〜30人 ぞうり、花笠、小太鼓、手甲、たすきを身につける。 4.大太鼓一人(末次家) わらじ、脚絆、天衝を身につける。 5.大太鼓の助手1人 法被、脚絆、わらじ、天衝を身につける。 6.さいりょう人(世話役) 数人 紋付きを身につけ、提灯を持つ。 当日、浮立役者は権現さんの所に集まり、鐘、もりゃあし、大太鼓、笛の順に並び道行きをする。 巨勢神社に奉納の時は、「神の舞」として、天衝を被り「西方舞」の「うしろ巻」を太鼓に合わせながら、「そもそも浮立と申するは、古のころよりも 竜神祈るかしわ手に 打って祈れば竜神も ゆるぎ出させ賜いける 東南西北の悪魔を払って白酒の露を授けたもう。」と謡い終わると笛の合図で踊る。 舞の曲は神の前、四方拝、道行き、高い山、豊年、世渡りなど十数目で曲の変わり目に「後ろ巻」のお謡をあげる。
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金立鉦保存会浮立
浮立が奉納され始めた時期は不明であるが、五穀豊穣や無病息災などに感謝するために、毎年11月3日に金立神社に奉納されている天衝舞浮立である。 昭和14年から55年までは奉納を中止されていたが、地域の人の努力により、昭和56年から再開されている。 11月3日当日は、金立神社に浮立を奉納し、その後、大字金立地域の自治会関係者の家、希望される新築家や地域の中の神社(公民館を併設)を廻って浮立を奉納されている。 出演者は、小学生と中学生、鉦、こもやし(小太鼓)、笛の奏者で構成しているが、現在、小・中学生が少ないため、人の手配に苦慮されており、奉納を続けるために苦労がたえない。
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千布浮立
千布浮立は、江戸時代末期の大干魃の時に当時の千布村の西原家・堤家・早田家を中心に全村あげて雨乞いのために金立神社に奉納したのが始まりとされており、西原家・堤家・早田家が市川の浮立や大和の浮立を千布村に持ち込んだものと言われている。 その後代々に渡り毎年「白鬚権現神社」に五穀豊穣・家内安全・無病息災・豊かで平和な生活が出来たその報恩感謝の御礼として浮立の奉納をし、それが伝承されて今日至っている。 また、金立神社大祭の「お下り」「お上り」の先払い浮立としての伝統ある浮立でもある。 現在、大太鼓と天衝舞を担当されている堤・早田両家は代々施主として受け継がれている。西原家の子孫は現在こちらに住んでいないが白鬚権現神社の狛犬はこの西原家の子孫によって奉納されたものである。 天衝舞浮立は県内から長崎県にかけて広く分布している浮立で、頭にかぶる大きな冠には左右に日月が描かれていて、天衝、天突、天月と呼ぶところからこの名がつけられたと言われている。 市内神野の掘江神社の社記によれば室町末期、弘治2年(1556)に掘江神社の祠官であった山本玄蕃が始めたとある。従って、天衝舞浮立は「玄蕃一流浮立」とも呼ばれている。 厳粛な神事浮立を残す地区では、口を布で覆い、足の動きにも、大太鼓の打ち方にも厳格な方式を残している。また、浮立の途中にお祓いがあったり、祝言のお謡いをうたうのが特徴である。 千布浮立は舞の途中で祝言のお謡いをあげるのが特徴で、この様式は現在も代々引き継がれている。以前はお祓いもあったと聞いているが、現在は舞の前にお祓いを受けている。 浮立の奉納は、11月3日の文化の日に行われている。
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新栄浮立
八戸の五龍神社の秋祭りは、10月20日に行われ、玄蕃一流の浮立が奉納される。笛太鼓のお囃し浮立に合わせて踊り、神の御心を慰め、五穀豊穣、悪病退散の祈願をこめて舞う姿は質実剛健そのものであった。 昭和35年頃までの浮立役者は、 笛…………3人か4人、紋付羽織、横笛3本。 大太鼓……1人、わらじ、きゃはん、てんじくを身につける。 大太鼓の助手。 鉦…………15人(壮年)、しゃぐまを被りハッピに黄の帯をしめ、きゃはん、わらじを身につける。 もりゃーし…(踊り子)30人以上で、こどもや娘でお揃いの衣服、ぞうり、花笠、小太鼓を身につける。 銭太鼓は小学生が行っていた。 長老………2人、紋付を身につけ、お謡をあげる。 さいりょ人(世話役)…3人か4人。 また、青年の離村、その他で保存は危ない現状にあり、浮立(笛・鉦・太鼓)だけだが、かろうじて存続していたが、平成4年新栄小学校の創立20周年を機に復活した。
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郷土芸能「しゃーの毛」
西宮社に伝わる神輿祭の行列浮立で、大名行列をまねたのが始まりだと言われている。 (始期) 龍造寺家門公・鍋島直茂公・鍋島勝茂公が、慶長9年(1604)に西宮社の宝殿を再建されたこの頃から、春秋2回の御神幸が始まったといわれている。 (実施場所) ・ 西宮社の境内 ・ 角町と阿高、光法・光法団地と光法新町、山津と犬尾、増田と増田宿、小杭・野町と福田、水町と諸富町山領の各地区を毎年2〜3地区廻る (開催日) ・ 秋の大祭の時のみで、10月20日に近い日曜日に開催 (以前は、春は4月20日、秋は10月20日の年2回の例大祭の時に開催していた) (道具) (1) しゃーの毛 5本 ・長さ3.3m 重さ4〜6kg ・柄は樫の木で毛倉の毛の部分は馬の尻尾の毛等で廻すと円盤形に広がる (2) 挟み箱 2個 ・大きさは100cm×50cm×50cmで柄がついている ・箱は杉板、柄は樫板を使用 ・書類や常備薬等が入れてあると思われる。 (3) 御神燈 14灯(直径40cm、長さ130cm) ・上は番傘1m、紅白の花飾り、その下に円筒形の提灯1.3m、握り部分2m (4) 堤灯 2灯(楕円形) (挟箱持ちの向上) 1 ここから お江戸は三百里 2 ひょうたん ばかりがうきものか 裸で道中が なるものか 私の心も ういてきた ドッコイ ドッコイ ショーナ ドッコイ ドッコイ ショーナ 3 こーら こーら 4 まいこんだ まいこんだ こんにゃく みそをつけたら えびすさんが まいこんだ でんがくよ 西宮に まいこんだ ドッコイ ドッコイ ショーナ
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浮立
○蛎久天満宮の春祭りは3月25日に、秋祭りは11月に行われる。ここの浮立のおこりは、蛎久の西の窓口である川原口が、中国などと貿易があっていたのではないかと想像される。 昔、岸川の丈六に流れついた仏像が、川を下って川原口から陸に引き揚げることになった。 仏像は長い間、海中にあったので蠣がいっぱいつき、その上、1丈6尺もある仏像であるため、簡単には揚がらない。そこで鐘、笛、太鼓などおもしろく吹きならして引き揚げた。これ以来、浮立がはじまったそうである。ただ、この浮立は大変もの静かなことが特色である。 ○新庄神社の秋祭りは、11月3日に行われ、江里桜の青年たちが200年前から伝わる浮立を踊り収穫の秋を祝う。 はちまき、ハッピ、黄、赤の色鮮やかなタスキ姿の青年が踊り、小学生の小太鼓、年配の方の吹く笛のひびきがにぎやかに奉納される。その後、各家庭の庭先で収穫を喜び、来年の実りを祈り打ち回って歩く。 江里の浮立は、元亀元年(1570)に今山夜襲、戦勝祝賀のとき、江里地区に浮立が起こったと伝えられる。それを毎年、郷社新庄八幡神社で奉納されるようになった。 文化元年(1804)浮立役割帖ができ、今なお現存する。文化11年(1815)浮立様式を杵島郡地方に習得に出向き、それが現在に至っている。 -役割帖- 江里地区に生まれた男の子は、全員役割帖に記載されることになっている。 小鉦……小学校入学前の子ども 〆太鼓…小学生 綾竹……上級生 大鉦……青年 笛………青年 あとは全部後巻として記載され全部記録帳が残っている。戦時中、鉦を供出したため、一時中止されたが、再び開始され現在もつづいている。
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獅子舞(大神楽)
今から約700年前、檪木村の北の松林、現在は地区立納骨堂前左の楠あたりに鬼の岩屋があり穴の中に、獅子がいて、『これを見たら家内安全・無病息災・安産の御利益がある』といわれ、みなが拝観したがった。ところがなかなか、お姿を現わしては下さらない。 たまたま、丹波の国の小間物売り「与作」がこのことを聞き、村の衆のお役に立つことならばと、村人に笛や太鼓で囃させ、自らは造花の『めずい棒』を両手に、面白おかしく踊りめずった。獅子は何事かとチラット姿を見せたゲナ。それからは、与作はもとより囃手の村の衆は、御利益てき面、みなが幸せになり、村は繁盛したとサ。 この獅子を神獅子とあがめ、全国の社寺のお札で獅子の面を造り、小鼓打ちを「もらーし」と呼び、詞章(よみ歌)を作り、舞として後世に継承するようになった。これを『檪木のジャーカグラ獅子舞』という。 隣地区の尾崎獅子舞によく似ているが、伝承が異なり当方のはササラが無く、よみ歌の節回しが違い、神埼の櫛田神社には出場せず専ら金立神社の50年に一度の大祭りや、雨乞いのみに先導露払い役を勤める。 出場総勢は、60名だが小地区なので少なくなった。 ○音頭取 数名 むらの長老がなり、紋付羽織で、赤白の三角紙を吊した杖を持つ。 この中から頭領1、歌い手2が出る。 ○獅子めずい又は「与作」 2名 少年が交替でなり、造花のめずい棒を両手に、あご吊り彫り黒面を、かむり、 赤白の女の長襦袢を尻からげして、腰にひょうたんを下げ、面白おかしく踊る。 ○獅子っきゃー 10名の2組 青年がなり、獅子の胴内に入る。服装は獅子めずいと同じ、先頭が獅子の面を操る。 ○笛の役 8名 熟練した若者で、頭領の旗による指揮により、横笛の調子を変える。紋付羽織 ○小もらゃーし 6名の2組 小太鼓打ち、筒袖の白衣に紫のたすき、緑の帯。花笠をかむる。 ○うう太鼓打ち 2名 太鼓は2人が担いでいたが、今は車に乗せる。 獅子の頭部獅子頭は全国の神社の神符を竹編みに幾重にも貼り、赤に塗り、たてがみには白紙の御幣が結ばれ、胴体の前は無地の麻布を垂らす。胴体は紅白の幕布で、尻尾はない。 「ジャーカゲラ」は「大神楽」でなく、「代神楽」とも考えられる。伊勢詣りの代りに、伊勢の御師が神楽の一座を連れて各地を訪れ、舞をしたのを「代神楽」という。中国にもこれに似た舞がある。 左右の狛犬の左の口を開いた方を「しし」という。 野獣を総称してもいうし、特に鹿を指す場合がある。鹿ヶ谷・鹿垣。
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白鬚神社の丸祭り
川久保白鬚神社には、10月9日早朝、今もなお続けられている「丸祭り」がある。この祭は、上代の姿を供え物・直会(なおらい)の肴・供え膳に残していることで注目されている。 前夜のお籠りに続いて早朝、丸持ちの家の人達が紋付羽織袴で集まり、祭典中は氏子と雖も境内に立入りさせず行なわれる私祭で、一切言葉を発してはならなかった。昔は神官を招かず、蔵人さんが司宰(しさい)したという。 供え物の品は、人家幣と書く御幣19本・花米と書く御饌米1升・甘酒1徳利・新米で搗いた月形日形の餅各19個・オキョーサンという大きな御供さん19個・みょうたん柿・くり・キノス柑又はユズ柑各19個の6種を、70の御膳に乗せて供える。 御膳は30×25センチメートル角で小竹を折り曲げた角物に5本のわらを格子状に組み、その上に和紙を敷いただけ。直会の肴は、結び昆布又はわかめ・コンニャク・煎り大豆・茹で里芋・針生姜の5品目だけの古い食べ物。 天保11年(1840)、たまたま花納丸の古墳より、鏡・三環鈴・管玉が出土。この模様と十九丸の由来を、古川徳基・南里有隣・草場佩川が書いた『花納丸文書』が、県立博物館に在る。この文書には次のことが記されている。 「推古天皇34年(626)邑長祠を立て、江州(滋賀県)白鬚の神を奉ず、このとき江より来る者19人、明丸・石丸・泰郎丸・千徳・彌頭.関行・犬王・倉童等皆丸を以て、祠の傍に宅す、後丸を以て其の宅を呼ぶ、総べて19丸。花納丸はその一也、祠に最も近し、云云」 残りの丸は地名として、吉丸・米丸・有吉・太郎・三郎・六郎・彌以・光富・有富・乗貞の合計19丸で、その所在地は付図の通りである。丸の所在地には、もと古墳らしきものがあり、石の小祠には薬師・不動・天神等の仏の名が刻まれていた。 白鬚神社の項で述べた祭神・勧請年代・十九丸の性格を、この花納丸文書と照合すれば、古墳後期の百済新羅系農耕祭祀集団に比定される。一説にはシラギがシラヒゲに転じたともいう。(金達寿氏説) 上代の日付の変り刻は、日のくれた日没で、9日は8日の日没からであった。9月9日は重陽(ちょうよう)の日で、お供日の祭り日であった。 明治5年(1872)暮の太陽暦採用により、10月19日が祭り日となった。18日の夜のお籠りは、潔斎の最後の日のなごりである。18日に田楽を舞って、神の降臨を仰ぎ、夕みけの饌を供え、厳粛なお籠りを行ない、日の出前に朝饌を供え、神にお礼の祝詞を上げ、また来年も豊作をと祈願し、終れば田楽を舞って神の昇天を見送った。この一連の祭典を『丸祭り』というが、長い年月の間には、いろいろと変わり省略された。