検索結果 RESULT
- 旧佐賀市
- 検索結果
[旧佐賀市][ 建造物]は20件登録されています。
旧佐賀市 建造物
-
旧嬉野家の武家屋敷の門(薬医門1棟)
重要文化財
杵島・藤津地方を中心に勢力を持っていた一族で、古くは白石氏を名乗った。同氏が歴史の表舞台に現れたのは13世紀の蒙古襲来の時であり、肥後の御家人竹崎季長を助けて奮戦、その様子を描いた『蒙古襲来絵詞』にも白石六郎通泰の名で描かれている。 佐賀藩政期になると家臣団に組み込まれ、正保や慶安の御城下絵図では、片田江竪小路1番(現在の松原神社門前)に嬉野与右衛門の名が見受けられる。明和8年(1771)の「屋敷御帳控」によると、初出は文化6年(1809)正月で、嬉野与右衛門が南御堀端小路13番に屋敷地を得て文政2年(1819)5月まで居住した後、天保3年(1832)6月に現在地である松原小路4番に移っている。 屋敷地は、約30間四方と広大であり、西側は北堀端に移転拡張する前の最初の藩校弘道館敷地に隣接する。小路沿いの南面に門を構え、主屋は屋敷地の中央よりやや北側に配置されていた。この門はかつて「中門」と呼ばれ、さらに東方に配置された長屋門が屋敷の正門であったと伝えられている。 この武家門の形式は薬医門で、三間一戸、切妻造、本瓦葺である。本柱に冠木を載せ、女梁を載せ、男梁を支えて、控え柱と繋ぐ。小屋組みは束を建てて貫で固め、棟木、桁を載せて垂木を配る。中央に一間の両開きの板戸をいれ、両脇は板壁としている。中央一間の柱の見込みは薄く、背面に一筋の鴨居が残され、元は引き分けの引戸であったことが判る。妻飾りは拝み懸魚が付き、屋根本瓦葺きの鬼瓦には「水」の字が入る鬼瓦を載せている。女梁先は簡単な渦目の絵様とする。 この武家屋敷の門の正確な建築年代は判明していないものの、門の内法高が低く古い形式を呈しており、城下町佐賀における貴重な建築遺産といえる。
-
与賀神社三の鳥居及び石橋 二基
重要文化財
与賀神社三の鳥居は慶長8年(1603)佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、高さ3.90メートル、笠木の長さ5.65メートルである。肥前鳥居は、室町時代の末期ごろに肥前国を中心として造立された石造文化の一つで、江戸時代初期に最盛期を迎えている。 その形式は、笠木と島木が一体化し、先端は流線形を呈しており、笠木・貫・柱が3本継で、柱の下部は張り出して生け込みとなっているなど、特色のある構造を有している。 与賀神社の烏居は、造立の古いものの一つとして、また、最も典型的なものの一例として価値が高いものである。 石橋1基は、長さ10.5メートル、幅3.15メートル、川床までの高さは中央部で1.78メートルで、両側に高さ56センチメートルの欄干があり、10個の擬宝珠がついている。ゆるい曲線をもつ反り橋で橋脚は3本併立の6列である。擬宝珠の銅板に 肥前州与賀荘 正一位与止日女大明神 …… 慶長十一年丙午南呂彼岸日 鍋島加賀守豊臣朝臣直茂造立之 の線刻銘があり、江戸時代初期の石橋として県内で唯一のものである。
-
佐賀城鯱の門及び続櫓 一棟
重要文化財
佐賀城は、龍造寺氏の居城・村中城を鍋島直茂(なおしげ)・勝茂(かつしげ)父子によって、慶長13年(1607)から慶長16年までの佐賀城総普請によって整備拡張されたものである。 この鯱の門は、天保6年(1835)から始まる本丸再建に際し、本丸の門として天保9年(1838)に完成したものである。 本来、城門は戦時の防備に重きを置き計画されているが、建築年代が江戸時代後期でもあり、建物があるべき防備の役割は形骸化が進み、装飾的要素が前面に出てくる。 鯱の門周辺の防備は、門の南北に高石垣が連なり、本来、門と天守台までの高石垣の中ほどから、現在は削平されてしまっているが、北方に向かって土塁が設けられていた。 「櫓(やぐら)」の本来の意味は、「矢倉(やぐら)」=武器庫であり、この櫓の発展形態が天守である。櫓門とは、通用する門構えに2階を上げた形式をいう。 鯱の門に附属している続櫓は、石垣天端いっぱいには建てられておらず、「犬走り」がめぐる。1階部分の左右には、床張りの門衛所があり、また、門内北側には番所が接続されるなど、近世城郭の初期には見られない機能的な形態となっている。 建物は二重二階の櫓門に一重二階の続櫓が配されている。櫓門の正面の桁行は5間(約11.9メートル)、礎石上から棟瓦上まで約12.5メートルを測る。 この門は明治7年(1874)の佐賀の役でも弾雨にさらされ、現在でも弾痕が観察できる。その後、佐賀商業学校の門として同校のシンボルとなっていた。明治以降幾度かの小修理がなされたが、建築から120余年の昭和36年(1961)に、大修理が行われた。 この昭和の大修理の際、部材に大工の氏名や年代の墨書が発見され、この門が移設や転用材を用いたものではなく、本丸再建に伴う新建築物であることがわかった。 鯱は、北方のものが、高さ1.70メートル、重量190キログラム、南方のものが高さ1.75メートル、重量210キログラム、製作者「冶工谷口清左衛門」(刻銘)とあった。谷口家は、佐賀藩の御用鋳物師であり、幕末にはわが国で最初の「反射炉」建設及び運営に活躍した。 鯱の門は、この城門に続く石垣とともに往時の佐賀城をしのぶにたる佐賀城の建物遺構として貴重である。
-
与賀神社楼門 一棟
重要文化財
与賀神社楼門は、構造形式から見ると、室町時代前後のものと推定される。『藤龍家譜』によれば、「文明14年(1428)大宰少弐政資が、父教頼(のりより)の旧館を改修して与賀城を築き、与賀神社を城の鬼門の鎮守となし」との記載があり、それと推考される。 その後、文禄5年(1596)大修理を行い、寛文3年(1663)宝暦年間や、幕末及び明治・大正にも小修理が行われた。 最初は柿葺(こけらぶき)であったが、後に銅葺に改められた。終戦後腐朽し建物全体が弛緩したので、昭和25年(1950)11月、文化財保護委貝会の指導を受けて、全部解体し、後世改修していた部分は旧状に復し、根本修理が実施され、同27年(1952)5月に完成した。 この楼門は正面3間、側面2間、白然石の礎石に円柱を建て、中央通りの床を石敷とし、なかに両開框組板戸を設けている。正面の両端間には組格子窓、両側面各間と後面両端間は、板嵌である。 初層の斗栱(ときょう)は四方廻縁(まわりえん)の腰組となって、縁廻をうけている。縁四方には和様の勾欄(こうらん)をめぐらしている。斗栱は廻縁下は和様の連三斗、上層は和様の出組で絵様拳鼻がついている。軒廻は地種、飛檐棰(ひえんたるき)とも疎棰(そたるき)に配置して二軒となって、頭貫鼻、墓股等随所に絵模様彫刻が使われている。 この楼門は軸部、軒廻、斗栱等の大部分の化粧材を丹塗(にぬり)とし、格子組は黒塗、木口は黄土塗である。全体の様式は和様の手法によっているが、細部には唐様の手法も使われている。佐賀県下では現存する最古級の木造建築物であって、極めて貴重な遺構といえる。
-
高伝寺釈迦堂 一具 木造釈迦堂 一基 厨子入木造釈迦如来及両脇侍像 三躯
重要文化財
高伝寺本堂に安置されている釈迦堂は、正面1間、側面1間の総欅(けやき)造りで生漆を塗って仕上げている。構造は正面入母屋造り、軒唐破風で妻入り、背面は切妻造りで柿葺(こけらぶき)となっている。柱は上端・下端が中央部に比して細くなっている。建具は桟唐戸で上下を藁座で受けている。 この釈迦堂は、本堂左の三間の室内中央に据え置かれているが、室内の柱間は中央を広く、左右を狭くとっていて、明治建築である本堂が釈迦堂に合わせた設計であることがうかがえる。 厨子は、外側を黒漆、内側を金泥塗りとし、釈迦如来像の頭上に天蓋(てんがい)を吊るしている。 釈迦如未像は、像高42.7センチメートル。脇侍像は、文殊(もんじゅ)菩薩と普賢(ふげん)菩薩で、像高は51センチメートルと50センチメートルを測る。3体とも木造の一木造り、玉眼、素地仕上げ。本体と台座、光背までを赤栴檀(しゃくせんだん)と伝える硬質の広葉樹で作っている。各像の光背には承応(じょうおう)4年(1655)に京の仏師宗仁(林長右衣紋衛門尉国次)陰刻銘がある。 赤栴檀御仏像之書物や鍋島勝茂判物類は、高伝寺釈迦堂が承応4年に制作されたことやそれに至る経緯などが記されている。 釈迦堂は、その制作年代や経緯が明らかで保存状態も極めて良く、近世初期の基準作品としてその価値は高い。 厨子入木造釈迦如来及び脇侍(きょうじ)像は、漆箔や彩色を施さない檀像で、正当な作風と的確な彫技が認められるもので、近世初期の作品として優れている。
-
石造肥前鳥居 慶長八年の銘あり 一基
重要文化財
本庄神社の二の鳥居とされる肥前鳥居は、神社の門に通じる石橋の前に建てられており、慶長8年に鍋島直茂によって建立されたものである。 高さ3.8メートル、笠木(かさぎ)の長さ5.15メートルで、笠木と島木および柱・貫(ぬき)はいずれも三本継となっている。島木は形式化して笠木と一体となり、木鼻(きばな)はゆるやかに反っている。柱の上端に台輪があり、下部になるにつれて次第に太くなり基部は埋め込まれており、肥前鳥居の形式をよく備えている。 県内に広く分布している石造肥前鳥居は、地方色のある鳥居として注目されているが、本庄神社の烏居は、古い造立銘を有する鳥居のひとつとして価値が高い。 両柱には、次のような銘が陰刻されている。 大日本國鎮西肥前州佐賀郡与賀荘 本荘淀姫大明神奉建立石烏居二柱 大徳本主鍋鳴加賀守豊臣朝臣直茂 慶長八年癸卯九月廿八日 (願文略)
-
神野のお茶屋
重要文化財
佐賀藩10代藩主、鍋島直正(閑叟)が弘化3年(1846)に佐賀城下北西のはずれ、多布施川沿いの神野に築いた別荘である。別荘は木造平屋の寄棟造り藁葺1棟と木造平屋建の四方廻屋根、藁葺(わらぶき)1棟の2棟からなり、この2棟を瓦葺の廊下で継いでいる。 寄棟造りは桟瓦葺の庇(ひさし)をつけ、南と西は1間幅の縁がめぐる。主室は4間半に2間半の畳の間で床の間がつき、この主室の北側に4間に1間の畳の副室がついている。 四方廻屋根は、4棟を方形に結合した形で方形に畳の間が廻り、その中央は庭園となっている特殊な構造である。東棟の北隅に千鳥破風本瓦葺の玄関が付いている。 2棟ともに床下は吹放しで、本柱は、すべて1面又は2面が矧(は)ぎ付けとなっている。庭園は、天山を背景にして多布施川の清流をひいて、池、小山を造り、石と樹木を配したもので、別邸の建造物とよく調和し、江戸時代後期の県内では代表的庭園である。 藩主の休息の場としては粗末すぎると感ずるほどの質素なものであるが、構築は藩をあげての総意で樹木や庭石などは、藩士たちが持ち寄ったものである。この別荘は大正12年(1923)に鍋島家から佐賀市に寄附され、神野公園と名を改めて、市民の憩いの場として親しまれている。
-
武家屋敷の門 一棟
重要文化財
小路に面し、南を正面として設けられている武家屋敷の門で、創建の年代は明らかでない。門は、3間1戸の平門で、切石礎石上に4本の方柱で直接棟木を受け、貫の上方は連子となっている。貫の上に肘木(ひじき)をとおして軒桁(のきけた)を支え、軒は疎棰(そたるき)で本瓦葺となっている。中央は両開きの板戸で、左右の脇間は片開きのくぐり戸である。両側の破風(はふ)に懸魚(げぎょ)が用いられている以外は、飾金具もなく、装飾的な構造は全くみられず極めて簡素な造りではあるが、木組みは比較的に大きくて安定している。 門の両側には、棧(さん)瓦葺の塀も残存していて、保存状態は良く藩政時代における武家屋敷の遺構が極めて少なくなった今日、その価値は高いものがある。
-
佐賀(龍造寺)八幡宮石造肥前鳥居 一基
重要文化財
文治3年(1187)龍造寺季家が鶴岡八幡宮の分霊を勧請し、龍造寺村 (旧城内)に創建した。その後慶長9年(1604)に鍋島勝茂が佐賀城拡張に際し、当地に移したと伝える。 鳥居は慶長9年佐賀藩祖鍋島直茂の北方藤女(陽泰院)の奉献になるもので、笠木の長さ4.80メートル、高さ3.40メートルである。石柱の下部は生け込みとなっていて、笠木は太い柱に対に反る特有の様式である。貫は三本継ぎで中央部分は後補により原形がいくらか改変されている点が惜しまれる。 この烏居は、造立年代の古いものの一つで、また、笠木の曲線などに独特な華やかさをもっており、最も典型的なものの一例として価値が高い。
-
御位牌所 一宇 附一、木造阿弥陀如来坐像一躯 二、御位牌二〇二霊分
重要文化財
高伝寺は天文21年(1552)に鍋島清房によって建立され、鍋島家の菩提寺となって歴代藩主に尊崇された。明治初年鍋島家先祖と龍造寺家の墳墓を当寺に集め合祀した。 御位牌所は明治29年(1896)の建立である。本堂の北にあって南面し、土蔵造で腰を海鼠(なまこ)壁とし軒も塗籠めである。内部は北側一面に位牌壇をつくり、中央に阿弥陀如来座像を祀り左右に鍋島家と龍造寺家の位牌を安置する。 外観は唐風な花頭窓と唐戸そしてギリシャ風の柱に支えられ、屋根は破風造りの向拝である。鎌倉時代に移入された唐風様式が時代と共に和風と完全にとけあった独自な折衷模様を取り入れたものである。和唐洋折衷の時代相を現した好建築で明治建築を知る上で貴重なものである。 御位牌所の中央に安置されている阿弥陀如来坐像は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の寄進によるものである。像高1.45メートルの上品上生((じょうぼんじょうしょう)(定印)の印を結ぶ寄木造りの木造で金箔の堂々たるものであってその価値が高い。 御位牌は、鍋島、龍造寺両家の202霊が奉安されている。最大のものは総高1.34メートルの堂々たるものであって、彫物や彩色などが華麗に施されていて、近世における工芸品としてその価値が高い。
-
鐘楼 一棟
重要文化財
浄土真宗真覚寺は、永禄年間(1558~1569)に創建され、鐘楼は元禄12年(1699)に建立されたものである。 桁行(けたゆき)2.81メートル、梁間2.55メートルで平面は正方形に近く、軒の高さは3.04メートルで、用材はすべて欅(けやき)材である。 屋根は本瓦葺、照り屋根で切妻造り、棰は二重角棰で化粧裏板張り、妻は破風打ち、懸魚(げぎょ)は腐朽して外れているので様式は不明である。柱は方柱で江戸風な細い面がとってあって、わずかに内転びに立てられていて、頭貫(かしらぬき)、腰貫、地貫によって軸部が固められている。柱下の礎石は30センチメートル角、厚さ6センチメートルの平石で基壇は高さ60センチメートルの乱石積み、床は粘土たたき仕上げである。 妻の大瓶(たいへい)束及び斗(ます)に四方に木鼻がつけられていて、大瓶束の下の方は獅子面の彫刻で飾られている。蟇股(かえるまた)は桁方向のものは、くり抜き墓股で、妻側は梵鐘の重みを考慮して板蟇股(平安後期以前)が使われている。梵鐘受けの虹梁と妻の虹梁は共に二段眉がとってあって桃山調、また頭貫の上に台輪が梁えられていて、これ等の木鼻が賑やかである。 屋根の重厚さに対し、吹き放しの四本柱の架構は簡明すぎる感じがするが、上中下三段の貫で絞め固められた柱は、やや内側に倒れて踏ん張っていて、力強さを表現している。 この鐘楼は県内の寺院建築の中でも、その価値は高く評価される。
-
勝宿神社本殿 一棟
重要文化財
勝宿(かしゅく)神社は佐賀市久保泉町川久保の北端で山に囲まれた景勝の地にあって、神代勝利を祀り、江戸末期に長崎から棟梁を招いて建立されたと伝えられている。 社殿は本殿と拝殿とから成り南面し、拝殿入母屋造り瓦葺で近世の新しい建築であって、造りも簡素である。本殿は、一間社流造りで向拝に江戸風の軒唐破風がつけられている。 基壇は、高さ四尺(1.21メートル)、花崗岩の白然石乱積みで上端に葛(かずら)石を配してある。屋根は、銅板葺で棟、鬼板、鳥衾(とりふすま)共鋼板で加工され、鬼板には三つ巴の紋が小さく型打ちされている。軒は二軒繁棰、地垂木、飛燕垂木共に角材、軒唐破風は疎棰で屋根の反りに合わせて曲の棰が使われている。本殿の四本の柱は円柱、向拝の柱は角柱で唐戸面が取ってある。妻破風の上下は透し彫りの木彫で飾られ、拝懸魚(おがみげぎょ)は室町風の藁(かぶら)懸魚に三つ巴の紋を浮き出し、鰭(ひれ)及び降(くだり)栱懸魚は若葉模様の木彫、妻壁は蟇股、斗栱(ときょう)、虹梁や竜頭(たつがしら)の彫刻の真束で組み立てられていて、それらの空間は波や雲型の彫刻で充たされ、柱頭には植物の木鼻なども添えられている。 また、正面唐破風の壁も、斗栱、二重虹梁、獅子の彫刻の束や、二重虹梁の空間の波に戯れる竜の彫刻などで埋められている。向拝の柱の正面、側面には前肢を伸ばして、口を開いた獅子の木鼻がついていて、両妻と正面の上部の壁は豪華に飾られている。本殿正面には、両開きの格子戸、右側面には壁の中央より左に偏って両開きの浅唐戸が吊ってあって、この扉の上面の鏡板には木彫の三つ巴紋が浮かしてある。扉を除いた壁面及び左側面、背面の壁は、すべて中の広い横板張りである。本殿の四周には縁を廻らし、組勾欄を設けてあるが、正面階段と、右側面の浅唐戸前に擬宝珠柱が立っている。縁は三手先の斗栱によって支えられ、縁の下の建物周囲には亀腹が施されている。 用材は欅(けやき)を主体に桧(ひのき)も一部に使われていて彫刻材には楠を使用し、木部見え掛りはすべて白木の化粧仕上げである。屋根は現在銅板葺であるが妻飾りなどの華美さに比して鬼板、鳥衾(とりぶすま)、棟などの手法が簡単すぎて、ややふつりあいである。 やはり、創建当時の屋根は古来の神殿造りの様式を踏襲して、桧皮葺(ひわだぶき)であったものを後世に補修した折、銅板葺に葺き替えられたものと思われる。 この本殿は一間社造りの小規模の建築であるが、その木彫技法の巧緻さはいうまでもなく広い重量感のある反り屋根と、斗栱に支えられた廻り縁とのすばらしい調和など、山の緑を背にしたその姿は美しく江戸後期の数少ない遺構として貴重な建物である。
-
旧古賀銀行及び旧古賀家 二棟
重要文化財
古賀銀行は、明治18年(1885)1月に佐賀市蓮池町1番地の両替商古賀善平が設立した。明治39年(1906)5月には佐賀市蓮池町76~78番地(現在地)に本店を移転新築した。その後資本金の増資等により、大正8年(1919)末には九州における五大銀行の一つに数えられるまでに成長した。 しかし大正15年(1926)には、大正9年以降の慢性的な不況によって休業に追い込まれ、昭和8年(1933)9月には遂に解散を決議するに至った。 その後、昭和9年6月から昭和29年(1954)まで佐賀商工会議所として、昭和29年から昭和61年(1986)までは佐賀県労働会館、平成4年(1992)7月まで労働団体の本部として使用されてきた。 旧古賀銀行の建物は創建後に数度に亘ってその用途が変わったが、中でも大正2年(1913)の大幅な資本金増資のころに大きく増築され、東西方向に約2倍、南北方向に約1.5倍に拡張され、現在の規模になったと推定される。西面中央には寄棟屋根で石造円柱を有するポーチも付された。その後、佐賀県労働会館、労働組合県本部としての使用に際し、南面入り口2か所の3層の塔状突起部の撤去や内部の改造等が行われた。 この旧古賀銀行は、新しい都市機能の一端を担う銀行建築として、従来の構法である土蔵造りを採用して建設されただけでなく、その建築自身の中に改造の歴史を残している。それは、石造りの帯を巡らした煉瓦タイル張りという形式で建物の表面を飾り、少しでも「近代建築」風であろうとする点において、近代建築が地方へと浸透していく過程を知る上で貴重な歴史遺産といえる。 旧古賀家は、旧古賀銀行の西隣にあり、旧古賀銀行の頭取を務めた古賀善平の住宅であった建物である。主屋は、古賀銀行の開業に先立つ明治17年(1884)に建てられたと伝えられている。 戦後、昭和29年以降は料亭として用いられ、宴会場などへの改築後現在に至った。 旧古賀家は南を正面として屋敷を構え、町家ではなく武家屋敷に似た配置形式をとる。西側に二階建ての土蔵造りの厨房を配し、主屋は敷地のほぼ中央に建ち、東側に17畳半の座敷を配する。主屋は座敷を中心に東西に長く延び、西側に茶室、北側背面に奥座敷、南側正面に玄関を設ける。これを覆う屋根は入母屋造り桟瓦葺きで、全体の形状はT字型をなし、その前に独立した入母屋造りの玄関棟が付く構成である。 表座敷の床構えは創建時の特色を良く伝え、土蔵造りの厨房と付属の座敷も同時期の建設と見られる。座敷を始め住宅の主要部分は良く残存し、旧古賀家は本格的な屋敷構えで規模格式にも優れ、明治期の上流階級の住宅遺構として貴重な存在であり、旧古賀銀行と合わせ重要な歴史遺産である。
-
旧牛島家 一棟
重要文化財
旧牛島家住宅は、佐賀市朝日町3番24号(旧今宿町63番地)に所在した町家建築で、佐賀江川に面した北側を正面として建っていた。通りに接して主屋を建て、続いて釜屋、奥には2棟の土蔵があり、水路を背に配していた。平成5年度に前面道路拡幅の際、佐賀市が主屋と釜屋を譲り受け、実測調査及び痕跡調査を行い解体し、佐賀市柳町に移転・復原され、平成9年10月に佐賀市歴史民俗館の一館として開館した。 旧牛島家住宅の屋敷地は、嘉永7年(1854)「下今宿町竃帳(かまどちょう)」に下今宿町の姥役(おとなやく)を務めた問屋を営む高柳伊助の屋敷として記載される。明治23年(1890)制作の銅板画「佐賀県独案内(ひとりあんない)」にも、煙草仲買商・海陸運漕店を営む高柳伊代助の店として外観が描かれる。明治後期以降は油屋を第二次大戦時まで営んでいたという。 解体された主屋の外郭は「佐賀県独案内」の描く姿と異ならず、屋敷地の規模も7.7間、奥行き18.5間で、「下今宿町竃帳」記載のものと異ならない。以上と建物形式から主屋と土蔵の建立年代は江戸期に遡ることは疑いないが、佐賀市の旧城下町域に残される町家建築と形式技法を比較・編年した結果によると、主屋が建てられたのは18世紀に遡ると推定される。 解体時の調査によると、建築当初の主屋は西側と南側に土間を巡らし、居室部に表の間と中の間を設けた単純な平面構成で、2階は表の間のみに設けられ、中の間・土間部分は上部を吹き抜いている。座敷と目される居室はなく、表の間2階に床柱のみ設けられる。柱を間引かずに整然と建て、南側の閉鎖的かつ広大な土間空間を備える点と、床と床脇からなる定型的な座敷飾りを備えない点が、江戸中期の特色を示している。当初の表構えは土蔵作りではなく、2階に出格子を設け、1階は大戸と蔀戸(しとみど)を建て込んだもので、その姿は「佐賀県独案内」にうかがえる。 主屋には明治中期に至って、南側の土間空間に続き間の座敷が設けられ、明治末期には2階表構えが土蔵造りに改められ、さらに釜屋を建て替え、表構え1階東側にも出格子が設けられ、それぞれの時代にふさわしい姿に整えられてきた。 佐賀旧城下町域に残された町家建築の中では最古のもので、多くの改造を経ているとはいえ、城下町における生活の基盤をなした町家建築の江戸中期の構成を知る遺構として貴重な存在であり、数少ない佐賀の明治期における町家建築の構成を知る資料としても貴重である。
-
旧福田家住宅 一棟
重要文化財
旧福田家住宅は、明治末期から大正期・昭和初期にかけて、佐賀を代表する実業家として活躍した福田慶四郎の居宅である。大正6年(1917)9月3日に起工し、翌7年10月25日に落成したと、棟札に記されており、戦後の一時期は佐賀県議員会館として利用されたこともある。 北面して建つ入母屋造り二階建ての主屋を中心に、和洋それぞれの様式の応接室や数奇屋造りの茶室などを配し、南側には庭園、東側には土蔵が設けられている。 建物の内部は、細部に至るまで丁寧な造りであり、接客のために多様な空間が用意されている。また、落ち着いたたたずまいの中に、華やかなアクセントがちりばめられ、端正な中に華麗な表情を見せている。 江戸期に完成した伝統的建築技術は、近代には技術と芸術がその頂点を極めたとされる。この旧福田家住宅はこうした特徴をすべて備えた、大正期の近代和風建築である。
-
旧三省銀行(付属棟含む)一棟
重要文化財
三省銀行は、明治15年(1882)7月に佐賀藩士柿久栄次を頭取として設立された三省社を、明治18年に正式の銀行に改めたものである。当初は順調な経営であったが、投機師専門の金融機関化し、明治26年(1893)、廃業するに至っている。 その後、この建物を買い取った杵島郡大日村の医師木塚紋太郎が、医院を開業し、昭和4年(1929)には池田医院となり、昭和51年(1976)まで営業を続けた。 建物は、三省社創業時の明治15年に新築されたもので、南面して建つ妻入り切妻造りの主屋の背面に、庭と土蔵などが設けられている。 医院時代が大半であるため、そのための改造が大きかったが、平成10年(1998)の解体修理により、新築時代の形状に復元することができた。内部は、佐賀の伝統的町家の形式である吹き抜けのある中の間を中心にしつつ、業務用建築らしい大らかな空間構成をとり、外部は上方に向かってふくらみを持つ屋根や、大胆な形状の窓など、人目を引く特異な表情を持つ。 このように、明治時代前期の息吹をも感じさせる、他に類例のない、個性豊かな建築物である。
-
旧佐賀城本丸御殿 御座間及び堪忍所 1棟
重要文化財
〈背景・経緯〉 佐賀城は慶長13年から16年(1608~1611)にかけて建設されたが、享保11年(1726)の火災で焼失し、天保9年(1838)に10代藩主鍋島直正によって再建された。 明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)で滅失を免れた本丸御殿の御座間・堪忍所は、明治42年(1909)から赤松小学校の校舎として利用され、昭和33年には移築されて南水ヶ江地区の公民館(南水会館)として活用されるなど、用途を変えながらも建物の価値を踏まえた適切な維持と活用がなされてきた。 〈特徴〉 本丸御殿の南西部、藩主の日常生活空間にあたる「内(うち)」と呼ばれる区画の南側奥に位置する。 御座間は中奥に相当する藩主の居間(執務の機能もあり)にあたり、西面に座敷飾を設ける24帖間で、西廊下と南廊下、中廊下が凹形に取り囲む。 警護詰所にあたる堪忍所は18帖間で、中廊下東側に配置されている。 〈指定の理由〉 現在確認されるところ、天保9年に再建された佐賀城本丸御殿を構成する唯一の遺構として、多くの情報と歴史性を有するものである。 また、藩主が日常を過ごした内向きの建物である点も貴重であり、天保年間建設の本丸建物遺構として高い価値を有している。
-
武家屋敷の門 一棟
重要文化財
元来、門は出入りする者の身分によって格式があり、上位から四脚門、棟(むな)門、唐門、上土(あげつち)門、薬医(やくい)門、平門、冠木(かぶき)門等の順に定められていた。 この門は、元鍋島家の家臣水町氏の屋敷門として、多良の名工、託田の番匠の手によって建築されたと伝えられている3間1尺の薬医門である。 もともと、薬医門は医師の門として使われたもので、病人の出入りを妨げないように門扉はなかったらしく、後に公家、武家の屋敷等に使われるようになってからつけるようになった。 四角な本柱4本を前方に、控柱2本を後方に立て、その上に切妻屋根を置く。側面から見ると、棟は本柱の真上より後方にずれているのが薬医門の特色である。屋根は本瓦葺で破風には、かぶら、懸魚(げぎょ)その両側に鰭(ひれ)が装飾されている。 軒裏は、棰(たるき)、野地板とも化粧に仕上げられ、裏側の一部には鏡板の軒天井が張られていて、肘木の先端には繰形彫刻が施されている。扉は両開板戸が吊ってあるが、これは後になって取り換えられたもので、当初は引き分けの板戸が建て込まれていた。なお、平成20年度の解体修理で、扉は引き戸に戻した。 用材はすべて欅(けやき)が使われている。建設年代は不明であるが、構造形式から江戸後期と推定される。永い期間風雨にさらされ、本柱や控柱の脚廻りの損傷が処々にみられる。しかし、屋根瓦は幾度か葺き替えられたらしく、棰や野地板の損傷はほとんどなく、普段の管理が行き届いているので脚部を除いた小屋組、軸組材はほぼ原形のまま保存されている。 昭和45年の道路拡幅の折、3メートルほど東へ移設されている。 桃山、江戸と時代が変わるにつれて建築方法も華美に流れていく中で、特に質素を旨とした当時の佐賀藩の気風を表現したこの門は、簡素で均整のとれた風格を備えた武家門として価値が高いものである。
-
伊勢神社の石造肥前鳥居及び肥前狛犬像 一対
重要文化財
石造肥前鳥居の特徴は、笠木・島木・貫・柱が通常、2~3本の継材で形成されており、笠木と島木が一体化して木鼻は流線形になっている。さらに、柱の上端の笠木・島木を支える部分には、台輪が必ずつけられており、楔は使われていない。 慶長12年(1607)の造立銘があるこの鳥居は、笠木・貫・柱いずれも3本継ぎで、肥前鳥居の特徴をよく現わしており、造立年代の古いもののひとつとして価値が高い。 石造肥前狛犬は、一般に小形で、姿態は静的であり、また、その彫法は簡潔で素朴なものである。前面と側面を浅く彫り、全体は、丸彫り的に彫整され、前肢をそろえ、前肢の関節を節形に区切をつけて、表現している。後肢は屈して前に伸ばし前肢に接する。 背は半円形、顎は角ばって張り出し、口は顎いっぱいに浅く陰刻している。側面、背面は、極度に簡素化され、毛髪等も数条の線と頭部の項目尻尾、前肢、後肢を浮彫的に表現しているのみである。 在銘のものは少ないが、寛文7年(1667)の造立銘があるこの狛犬は、市内でも最も古い作として注目すべき価値を有する。
-
武家屋敷の門 一棟
重要文化財
八幡小路に面して建つ二階建ての長屋門がある。この屋敷跡は佐賀藩の家老という要職をつとめていた鍋島監物の屋敷であった。 門は、潜戸(くぐりと)付長屋門で、正面向かって左側に2階建の番所があり、右側には駕籠を納める倉庫があって、屋根は本瓦葺入母屋造り、外壁は漆喰塗り、腰は簓子下見板(ささらこしたみいた)張り、番所の2階正面には出格子(でこうし)窓が設けられ、門扉には両開き板唐戸(からど)で、扉の釣元(つりもと)に入八双(いりはっそう)金具、閂(かんぬき)の金具隠しに饅頭金物が装飾されている。 規模は間口12.7メートル、奥行3.9メートルで、建築年代は明らかではないが、江戸時代の様式をとどめた武家屋敷の長屋門として、当時を物語る貴重な遺構である。