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[大和町][ 書跡・古文書]は2件登録されています。
大和町 書跡・古文書
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河上神社文書(二四七通) 十四巻
重要文化財
河上神社文書は佐賀市大和町に所在する河上神社(与止日女神社)に伝わる古文書で、平安期10通、鎌倉期92通、南北朝期85通、室町期60通の計247通からなり、武雄神社文書とともに、県内の神社文書の双壁といえる。この内、院庁(いんちょう)・大宰府・国衙(こくが)等の関係文書は肥前国のおかれた立場を明らかにし、南北朝関係文書は14世紀の九州の動向を示す、史料として貴重である。 正応5年(1292)8月の「河上宮造営用途支配惣田数注文」は、鎌倉後期に肥前国内における公領(こうりょう)や荘園をその面積(田数)とともに報告したもので、公領の約三千五百町に対して荘園は約一万三千町に及んでいたことなど公領荘園の大概(たいがい)がうかがえる。また、文治(ぶんじ)2年(1186)「後白河院庁下文(ごしらかわいんちょうくだしぶみ)」では、武士化していた在地領主層が共同して皇室領荘園神埼荘を襲い放火、略奪、殺害等を行うなど、源平争覇(そうは)後も先の戦乱中の権益を獲得しつづけようとする新興勢力の武士たちとこれを守ろうとする旧勢力の荘官たちの対立の図式がうかがえる。 これらは佐賀県ひいては北部九州の平安、鎌倉、南北朝期の歴史的動きを知る上で貴重な文書である。
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高城寺文書 一〇〇通
重要文化財
高城寺文書は、佐賀平野の北端、脊振山地の南麓にある臨済宗東福寺派高城寺に伝来したもので、鎌倉期から江戸期にかけた総数100通からなる。 最も年代の古い文治2年(1186)の源頼朝下文案(くだしぶみあん)は在地の武士高木宗家を土地の地頭に任命したものである。以後、鎌倉期、南北朝期、室町期にわたり肥前の歴史上に活動する著名な人物の多くは当寺と関わりをもち、保護を与えている。征西将軍宮懐良(かねなが)親王令旨(りょうじ)によれば、正平年間に当寺が兵火で焼失したこともわかる。 また、中世の佐賀平野南部の干拓の進展の模様を窺うことができる一連の文書がある。正応元年(1288)肥前守護北条為時は当寺に河副荘(かわぞえのしょう)の米津土居(よのつどい)などを寄進している。鎌倉後期の海岸線が現在の米納津付近で且つ、このあたりが単なる干潟ではなく、生産を期待できる地であり、人工的に土居を築き、耕地化が計られていることなどがわかり、中世の佐賀平野における干拓進展の推移を知る上で貴重な文書である。