検索結果 RESULT
- 旧佐賀市
- 検索結果
[旧佐賀市][ 書跡・古文書]は18件登録されています。
旧佐賀市 書跡・古文書
-
紙本墨書東遊歌神楽歌 一巻
重要文化財
東遊歌(あずまあそびうた)とは関東から東海道の一部を含めた地方の風俗歌で、「三代実録(さんだいじつろく)」の貞観(じょうがん)3年(861)3月14日の条に倭舞と東舞の記述があるが、大和地方の倭舞とならんで祭礼で一定の方式で奉納されるようになった。 この本の東遊歌に続いて記されている神楽歌(かぐらうた)は、もともと神前で奉納する楽舞であるが、その中でも宮中で奏される特定形式の神事歌謡を集めたものである。宮中向きに歌詞や曲調の構成に工夫したものであり、この宮神楽は宮中の清暑堂で奏されたが、長保4年(1002)からは内侍所(賢所)の前庭において奏されるようになった。当日夜になって篝(かがり)火をたいて、神をお迎えする歌舞から始まり、ついで神をなぐさめ、人も楽しむ歌舞が主要部で、最後に神を天にお送りする歌舞が、夜が明けるころに終わるという構成になっている。一夜を歌い舞うので歌の数も多い。 鍋島家本は東遊歌と後に神楽歌を採録してある。字体は万葉仮名を主とし、古い平仮名字体も交える。共に平安時代後期の写本であるが、他本との歌詞の異同・各詩の唱法及びその作法等の記載が多く、奉納の順序が整然と記載されており、優れた資料的価値を持つ。 (写真:鍋島報效会提供)
-
松浦山代家文書(六十六通) 二巻
重要文化財
山代氏は、西松浦郡山代(伊万里市北西部)を根拠とした松浦党の一族であって、松浦山代氏系図によれば、松浦党の祖、源久の孫圍に始まる家である。圍12世の孫、貞は幼名を虎王丸といい、ついで弥七郎、のち喜左衛門尉茂貞と名乗った。天正7年(1579)に龍造寺隆信に従い、隆信没後、鍋島氏に属して、杵島郡葦原に知行2,250石を与えられ、鍋島の姓を許された。 文書は鎌倉初期から南北朝末期に至るもので、「六波羅施行状」「大宰府守護所下文」「関東下知状」「関東御教書」など一連の文書は山代氏が松浦地方における有力な御家人であったことを裏づけるもので、内容は所領についての相論(土地に関して両当事者がおのおの権利を主張し、訴訟して争うこと)などである。また、正応2年(1289)「蒙古合戦勲功賞神崎庄配分状案」では、蒙古合戦で奮戦した山代又三郎栄が、神埼庄竹村などに十町の配分を受けたことがわかり、九州在地の武士として活躍していることも知られる。文書は総数66通が2巻の巻子本に仕立てられている。 (写真:鍋島報效会提供)
-
深堀家文書(三八六通) 九巻
重要文化財
深堀(ふかぼり)家は上総国(かずさのくに)の後家人である。建長7年(1255)一族の能仲が肥前国彼杵郡(そのぎぐん)八浦(現長崎市深堀)に地頭職(じとうしき)を与えられた。蒙古襲来後、異国警固番役(いこくけいごばんやく)に備えるため、この地に土着、以来一族はこの地方に繁栄して近世初期に至った。豊臣秀吉が九州入りすると、一時これに従ったが、のち鍋島氏に属してその宿老(しゅくろう)となった。 文書は、大部分が鎌倉・南北朝期のものである。内容は東国後家人の西国下向(げこう)の実態・その活動・定住後の軍事行動・恩賞配分(おんしょうはいぶん)等を最も詳細に知ることができるもので、正応2年(1289)の「蒙古合戦勲功賞肥前国神崎荘配分状」によれば、蒙古合戦の恩賞として神埼に三町を配分されたことが、細かい坪付(つぼつけ)とともに分る。建武3年(1336)の「深堀時広軍忠状」では豊後の玖珠(くす)城攻めなどにも参加しており、その行動範囲は広い。また、南北朝期には勲功賞として「肥前国宇礼志野(嬉野)」などに地頭職を与えられている。この外関東御教書から足利尊氏・その子直冬(ただふゆ)・一色道猷(いっしきどうゆう)…豊臣秀吉に至るさまざまな文書により在地の九州の武士と中央政権との係わり方を見ることができる。 (写真:鍋島報效会提供)
-
催馬楽譜 一冊
国宝
催馬楽(さいばら)は、もともと平安時代初期に民間で広く歌われていた古代歌謡のひとつであったが、やがて貴族の間に取り入れられ、その後宮廷において広く用いられるようになり、譜の撰定も数次にわたって行われ、旋律も不定であったものが、平安時代中期には律(りつ)・呂(りょ)二種の旋法に固定化した。 本書は鍋島本といわれるもので、縦25.5センチメートル、横16.7センチメートルの和綴本で、飛雲文様のある料紙に押界を施し、首に律・呂の順に拍子と段数を記した目録を掲げ、続いて引声(いんじょう)・拍子を加えた本文を記している。目録には、呂歌三十六首と記すが、現在は呂歌のうち真金吹(まがねふく)、此殿者(このとのは)、此殿乃の全部と芦垣の後半、山代の前半を欠く。半葉七行ずつ、万葉仮名を用いて温雅(おんが)な楷書にて一筆で写されている。平安時代後期の書写とみられ、催馬楽古写本では最も古いものである。 (写真:鍋島報效会提供)
-
紺紙銀字法華経 八帖
重要文化財
この法華経(ほけきょう)は、朝鮮半島高麗(こうらい)時代のものである。中国や朝鮮半島の法華経は、7巻本が通例であり、この法華経は高麗写経の中では、極めて珍しい8巻本である。 表紙及び裏表紙には、金銀泥(きんぎんでい)で宝相華唐草文を描き、見返し絵は、金泥で巻第1は釈迦説法図(しゃかせっぽうず)、第2から第7までは多層宝塔、第8は菩薩半跡像(ぼさつはんかぞう)を描いている。巻第1の釈迦説法図は、大東急記念文庫所蔵の中国元時代の法華経に酷似している。 経文は、銀字で1行17字詰めに整然と書く。 第8巻の奥書に、道人玄哲らの発願により、壬申(じんしん)の年制作されたことが記されている。見返し絵の作風などから、干申の年は朝鮮半島高麗時代の忠粛王復位元年(1332)と推定されている。 この法華経は、確認される高麗写経のなかで8巻本法華経唯一の遺例で、特異な図様の見返し絵、経文ともに優れており、また、大変によい保存状態である。 また、東アジアにおける経典見返し絵の変遷を考察する上で重要な作例である。 当地に多く伝えられる、文化的特色をなしている高麗時代の仏教美術を代表する作品である。 (写真:鍋島報效会提供)
-
紺紙金字法華経 七帖
重要文化財
表紙には宝相華唐草文を金銀泥(きんぎんでい)で、見返し絵は釈迦説法や経典内容を金泥で描いている。経文は、金界線を引き、1行17字詰めの金字で書く。経帙は近世の後補であるが、題箋(だいせん)は当初のものである。金剛杵をかたどる象牙の帙(ちつ)留具も当初からのものである可能性が高い。 見返し絵は、極めて謹厳な筆致により細密に描かれていて、経文も力強い。高麗の宮廷工房である金字院の制作の可能性も考えられる。 第7巻の奥書により、至元6年(1340)に沙門淵鑑を発願者とし、柏厳と聡古により筆写されたことがわかり、施主と幹事の名も記される。また,それに続く別筆の施入銘からは、対馬を通じて高麗と交修していた少弐頼尚(しょうによりひさ)が正平12年(1357)に太宰府天満宮に寄進したことが知られ、さらに後に続く再施入銘により尼僧妙安により佐賀龍泰寺におさめられ、寛文3年(1663)に枝吉利左衛門により修理再納されたことがわかる。高麗装飾経の代表作として、美術的価値はもとより、制作から日本に請来された後の伝来事情までを明確に記す歴史資料としても重要である。 (写真:鍋島報效会提供)
-
正法寺文書 三十二通
重要文化財
正法寺(しょうぼうじ)文書は、佐賀平野の中央部、現佐賀市北部の臨済宗東福寺派正法寺に伝来したもので、総数32通、時代は鎌倉時代から室町時代にわたるものである。 最も年代の古い正和(しょうわ)3年(1314)の鎮西御教書(ちんぜいみきょうしょ)は、鎮西探題北条政顕(まさあき)が寺領内に武士が乱入して乱暴なふるまいを働くことを禁じたもので、当寺を保護するための命令書である。 以後、南北朝時代・室町時代にわたり、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・一色道猷(いっしきどうゆう)・征西将軍宮懐良親王(かねながしんのう)など、著名な人物が当寺に文書を与えて、祈祷を依頼し、また保護を加えている。 当寺は、もともと肥前の有力な御家人(ごけにん)高木氏歴代の菩提寺で、このため、高木氏の成長とともに寺の勢を拡大維持し、他寺に抜きん出たものと考えられる。 一か寺として、鎌倉時代から室町時代にわたる著名な差出人の文書がまとまっており、肥前の有力御家人の菩醍寺(ぼだいじ)がどのような勢力と結びついていったかが、一貫してうかがえる貴重な文書である。現在は巻子本(かんすぼん)2巻に仕立てられている。
-
泰長院文書(一〇五通)十二巻
重要文化財
泰長院は、天文5年(1536)龍造寺大和守胤久によって建立された曹洞宗の寺院。もと今の佐賀城内にあったものを、慶長年間(1596~1614)佐賀城構築の際、現在の地に移された。現在は、臨済宗の南禅寺派に属している。 泰長院に保存されている文書は、全部で105通あり、これを大小12軸の巻子に仕立てられている。これを大別すると次のとおりである。 1、龍造寺氏から当院の住僧にあてた書状。隆信(2通)政家(2通)高房(5通)村田安良(2通) 2、鍋島氏から当院三世住職是琢和尚にあてた書状。直茂(10通)勝茂(18通) 3、肥前国内諸家その他からの書状。江上氏、神代氏、元佶和尚(各1通) 4、文禄慶長年代朝鮮役のとき、敵国諸部将から鍋島直茂にあてた書状その他(62通) 5、是琢の日記(朝鮮在陣中のもの1巻) 上の内、1,2,3の肥前国内関係のものは、おおむね私信といってよく、寒暑の見舞、物品贈答の添状謝状、また茶事の招状などである。この私文書によって、是琢(ぜたく)が直茂、勝茂父子といかに親密で、かつ信任されていたことが知り得られる。 一方、4に属する朝鮮軍部将の書簡は、ほとんど講和についての内容をもっており、直茂が戦闘部隊の指揮官の外、外交についての重要なものであることを特記しなければならない。 この寺に、これだけの重要文書が遺されているのは、泰長院の住職是琢が直茂に従い渡朝し、外交担当の要人として渉外に関与していたからである。また、5の是琢日記も貴重な文献である。
-
紺紙金字法華経 七巻
重要文化財
高伝寺の紺紙金字法華経は12世紀半ばに定型化する釈迦説法図の構図を受け継いでおり、謹直な描線でモティフの形態を精密に描く画風は、12世紀第3四半世紀ごろの制作と考えられる。 表紙には、宝相華唐草文を、見返し絵は釈迦説法図(しゃかせっぽうず)や経典内容を金銀泥(きんぎんでい)で描いている。経文は、金銀界を引き、1行17字詰めの金字で書く。軸木は檜材割軸。軸首は8個が残り、内2個が当初のもので、金銀製撥型で魚々子地に花文を線刻し、金銀の鍍金を施している。 また、大鎧を身につけた武者など時代性を反映した新しい図像もみられる。 当初の軸首が一部にのこっていることも貴重である。 平安時代後期の優れた紺紙金字経と認められ、菩提寺である高伝寺に伝えられることは鍋島家の文化受容の一端をうかがわせ興味深い。
-
正法寺所蔵大般若経 一括
重要文化財
正法寺は、佐賀平野のほぼ中央に所在する臨済宗東福寺派の古刹(こさつ)で、佐賀地方の代表的な武士の一家であった高木氏の菩提寺として鎌倉時代から室町、戦国時代にかけて有力な寺院であった。 この写経は、もと縦26.8センチメートル、横13.0センチメートルの折帖装(おりちょうそう)であったが、風水害によって重なっていた紙と紙とが密着してしまい、紙塊(しかい)となったものが多い。書き写された時代は平安末期~鎌倉初期と推定されるものから江戸時代の補写のものまでに至っている。使われている料紙(りょうし)(文書を書くのに用いる用紙のこと)は楮(こうぞ)と雁皮(がんぴ)のまぜすきを黄蘗(おうばく)で染めたものと思われる。 中は罫高(けいだか)20.3センチメートル、罫間(けいかん)1.9センチメートルの罫線に1面7行、1行17字を典型的な写経風の整った書体で書いている。 巻末の奥書きには「大般若波羅密多経巻第二百五十一 明徳五年甲戌三月一日 天叟書」や「東大寺以正蔵院本一校了」など、書写の年代の記されているものや、東大寺記録によれば建長5年(1253)ごろまで存在したという東大寺子院の正蔵寺の本によって校正されたものなど興味深い貴重なものがある。
-
深江家文書 一〇五点(一〇四通と一冊)
重要文化財
深江家文書は、市内に所蔵されている龍造寺家文書、深堀家文書とともに代表的な武家文書として高く評価される。深江家はもと安富氏といい、文永2年(1265)に安富泰嗣(やすつぐ)が肥前国高来東郷深江村の地頭職を得て、その子頼泰(よりやす)が鎮西引付として関東から九州入りし、島原半島の深江村を本拠として土着したことに始まる。 近世初期のころ、西九州の豪将であった龍造寺隆信の勢力が、この地方に及んだときに、安富氏はその勢力下に入り、その後隆信の島原の戦における敗死と同時に一族をひきいて鍋島氏に属した。 この安富一族に相関連した文書は、総数104通、巻子本3巻に仕立てられているが、比較的に保存がよく貴重な歴史資料である。 その内容として、上巻は、33通からなり、文永10年(1273)6月の「六波羅御教書」正応2年(1289)3月12日の「蒙古合戦、勲功賞、肥前神埼荘配分状」、正安2年(1300)12月7日「仁和寺領、肥前高来東郷荘、深江村年貢状請取状」、正和4年(1315)の「関東御教書、鎮西御教書」などがある。 中巻は、32通からなり、建武3年(1336)7月8日の「足利尊氏感状」、貞和6年(1350)7月10日の「足利直冬御教書、同下文」などがあり、下巻は38通からなっており、正平17年(1362)5月、他の日附2通の「征西将軍宮懐良(かねなが)親王令旨(りょうじ)」などがある。いずれも南北朝時代の肥前領の動きや、当時の政情を学ぶ上で重要な資料である。
-
副島種臣の書 二幅
重要文化財
副島種臣は、文政11年(1828)、佐賀藩士の家に生まれ、幕末、明治維新にかけては国事に奔走し、新政府のもとで参議、外務卿、一等侍講、宮中顧問官、枢密院副議長、内務大臣等を歴任した。また、号を蒼海(そうかい)、一々学人(いちいちがくじん)といい、詩書にすぐれ、その書は創造力豊かで、極めて格調の高いものとして評価されている。本書は、明治26年 (1893)、種臣65歳の時の揮毫(きごう)である。 これは、願正寺裁松上人の13回忌法会にあたり追悼の詩2首を、用紙を中国に求め、椽大(てんだい)の筆をもって揮毫し贈られたものである。
-
島義勇の旅日記 一巻
重要文化財
慶応4年(1868)2月26日から始まって、同年5月6日に至る109日間の記事である。多忙な間に書いたものだから、なかには単なるメモに過ぎないところもあるが、江戸城明渡しを中軸とする前後の世相と義勇自身の動静を知ることのできる貴重な記録である。 殊に義勇が接触した人物は、明治維新史に現われる主要人物の大部分といってもよい。それが日記に明記されている。特に、個人の遺墨としては書画の類が多いのに義勇の旅日記は異色である。 島義勇は、佐賀藩士で明治維新に功績のあった人だが、明治7年(1874)の佐賀の役に江藤新平とならんで、首領であったことが有名である。 義勇は、文政6年(1823)有師(ありみつ)の長子として、佐賀城下西精に生まれ、弘化元年(1844)家督をついだ。はじめは皇学を学んだが、弘化年代江戸にでて、佐藤一斎の門に入り陽明学を学んだ。郷里に帰ってからは藩命によって国学指南となった。明治2年(1869)7月には蝦夷開拓掛を命ぜられ、同年9月石狩国府に赴任して開庁している。北海道開拓には義勇は非常に力を入れ、今でも追慕する人が多いという。
-
大興寺所蔵大般若経 一括
重要文化財
大興寺所蔵の大般若経は、600巻(欠本10本)で全巻を通じて見れば筆者も数名を超え、筆写の時期にもかなり大幅な年代差があるが、大半は僧慶雲、同玄詮の両人によって天授3年(1377)から同4年にかけて筆写されたものでこれが中核を成している。天授年号は南北朝時代、長慶天皇の代に当たり、南朝号は衰微、九州における南朝方征西将軍府も次第に衰退しつつあった時ではあるが、この写経の奥書にはほとんど南朝年号を記している。 慶雲、玄詮の写経にまじって僧寛海等の写経も若干あるが、寛海筆の永和4、5年(1378、79)筆写の奥書がある。永和は、北朝(将軍方)の年号であって、永和元年は天授元年に当たる。また、同じ慶運筆の写経の奥書にも天授4年1月24日までは、天授年号を用いているが、2日後の1月26日の奥書には、北朝年号を用いて永和4年と記している。 当時の政治的情勢の変化を反映して歴史的興味が深い。室町時代や江戸初期の補巻も2、3あるが、ほとんど南北朝時代の写経であって、時代的にいえば県指定を受けている高木瀬正法寺の写経に次ぐものである。なお、若干の経巻には寄進者の名が記してあるが、それらには、高木瀬村、三溝村等の居住者名が多い。これらは、江戸時代の人々である。写経の大半が南北朝のもので奥書が多く当時の歴史を考察する上で、仏教遺品としてその価値が高い。 残念ながら、平成18年2月13日未明の失火により、一部が焼失し、焼失を免れた経巻は佐賀県立博物館に寄託されている。
-
有田家文書 九〇通
重要文化財
有田家の出自と歴代については明らかでないが、有田家に伝来している有田系図によれば、松浦氏の祖とされている久に出て、12代ののち政に至り、さらに次のような世代を経て茂成・紀に至っている。 政―親―盛―茂成―紀 茂成は龍造寺隆信の弟龍造寺信周の子で、家名を有田と改めた。鍋島氏に仕え、寛永2年(1625)7月7日死去した。紀は寛永5年(1628)の着到によれば知行1700石を領している。 文書は鍋島直茂以下、勝茂・忠直・光茂・綱茂等を始め、勝茂夫人高源院などの書状(手紙)や覚書類のそろっていることが有田家文書の特色である。 殊に勝茂の書状、覚書は慶長初年(1596)から明暦年間(1655~1657)にわたって総数38通に達し、佐賀藩の歴史を明らかにする上に価値の高い資料である。
-
上林家文書 一〇五六通
重要文化財
江戸時代の初期以来、宇治において茶の栽培と製茶に従事して、皇室や将軍家を始め、諸大名その他を対象として、手広く茶業を営んだお茶師仲間の中の一団があり、御物仲間と称して特に格式を誇ったといわれる。上林三入(かんばやしさんにゅう)家はその御物仲間8家(のち11家)の中のひとつであって、鍋島勝茂以来、鍋島家とは深い関係のあった家である。この家に伝わった古文書は、佐賀市呉服元町で茶を販売する商店に保存されている。そのほとんどは各方面からよこされた書状であって、勝茂以下鍋島直正に至る鍋島家歴代を始め、熊本の細川三斎・仙台の伊達政宗・沢庵宗彰・千宗易・金森宗和・小堀遠州・柳生宗矩等、多彩な顔ぶれを含み、その数も千数十点に及んでいる。 ただ佐賀におけるだけでなく、日本の茶業史ないし茶道史上、貴重な史料である。
-
末代念仏授手印
重要文化財
略して「授手印」ともいう。浄土宗の開祖法然上人(源空)相伝の念仏往生の正義を明記し、手印をもってこれを記したものである。法然上人の死後、その教義について、徒弟の間に異なった多くの解釈が行われたので、これを統一するため、高弟の一人弁長(又弁阿、聖光房鎮西上人)が法然の教義を選述し自ら手印を押したので、これを授手印というのである。 弁長の書いたものを、更に書写したのが8巻であったと伝えられるが、現存するものは次の5巻である。 肥後 往生院所蔵 聖護本 佐賀 大覚寺所蔵 唯称本 博多 善導寺所蔵 円阿本 筑後 善導寺所蔵 極楽寺本 京都 清浄院所蔵 善弁本(断簡 この中に大覚寺所蔵のものもあるわけで、唯称本というのは、唯称という人によって伝えられた意味である。一説には唯称が書写したともいう。巻尾に朱の両掌が押されている。なお、貞和(北朝)2年(1346)6月全寂、文政3年(1820)4月豊怐の後記がある。 伝来は明らかではないが、大覚寺開山が持ってきたのではないかとも考えられるが、ともかく浄土宗にとっては貴重な存在であることは、大正15年(1926)9月1日宗宝に指定されていることでも明らかである。 授手印を遺した弁長は、筑前遠賀郡香月の生まれ。承安5年(1175)14歳で仏門に入り、36歳の時法然上人に侍して浄土門の秘奥を伝承。師の死後安貞2年(1228)10月、九州に下り肥後白川往生院に住して、この記述をなしとげた。入寂は暦仁元年(1238)3月29日。ときに77歳。 大覚寺の創建は慶長11年(1606)。開山天誉上人は、もと肥前の多久長信が大旦那となって現在の境地を喜捨し、神野の極楽寺を移した形で建てられた。寺号は勅によって大覚寺と改め今日に至っている。
-
長尾山年譜
重要文化財
『長尾山年譜』は、第1巻、第2巻、第3巻の上、第3巻の下、第4巻と区分され、全5冊からなっている。本年譜は「肥前之州、佐嘉県、河副江上、護国長尾山福満寺年譜序」より書きはじめてあり、当寺の開基の由来、各世代住持における出来事、皇室や武将との関係とその信仰状況、伽藍再建の模様、寺領及び寺有地の内容、各種の年間行事仏事法要などについて詳細に年代順にしたためてある。 本年譜には、各巻の巻末奥附に記録年号が奥書してあり、第1巻は「貞享三年九月初七夜染毫」とあるので貞享3年(1686)9月から、したためたものである。したがって、それ以前の開基より鎌倉、室町、桃山の各時代の年譜は、その当時、当寺に所蔵されていた各種旧記や文書、伝承によって記されていた各種旧記や文書、伝承によって記されたものであろう。 第2巻は、貞享3年9月に書かれたものを汚損甚だしかったために「享和元年夏五月住諦観識」として再写してある。したがって、最初に記録されてから150年後享和元年(1801)に再録されたものである。 第3巻の上は「貞享三丙寅十月二十一日書了」とあり、第3巻の下と第4巻は「貞享四年正月十三日書了」とあるので、2年にわたって記録された年譜である。