検索結果 RESULT
- 旧佐賀市
- 検索結果
[旧佐賀市][ 墓]は30件登録されています。
旧佐賀市 墓
-
俊寛僧都の墓
嘉瀬町の森林公園北の国道207号線沿いに「俊寛僧都の墓」と刻んだ碑がみえる。ここから50m北に入ると法勝寺という僧堂がある。開山は俊寛、開基は平教盛(一説では源頼朝)。本尊は伝教大師となっている。もともとは京都の法勝寺をまねた美しい大伽藍で、あまたの法塔が建ち並び豪華な寺院であったが、数度の兵火で焼失し、いまでは一部分だけが残っている。
-
古賀清右衛門の墓
苗運寺に墓が在る。
-
高太郎丸、小太郎丸の墓所
高太郎丸、小太郎丸と称せられる館跡は、旧西与賀小学校の南方約100mの所に位置していたといわれる。 高太郎丸、小太郎丸は永享年間(1429〜1441)にこの地を領していたといわれている兄弟である。 数年前までは周囲約50坪程度の小高い丘で畑地として利用されていたが、近年すべてが削られ水田化され遺跡らしい姿をみることはほとんどできないが、ただ当時館跡に建立されていたと思われる石祠が地区の人々により近くの広場に覆屋が建てられ合祀された。
-
三蔵塚
かつて、堀立分柴野から西南約200mの所に、自然石の高さ1間程の碑があった。(現在は老松神社境内に移転合祀)、そのいわれを述べよう。 元亀元年(1570)、肥前に乱入した大友の大軍は、今山の戦いに敗れて総崩れとなり東へ逃走した。敵の一族大友三蔵も部下と共に、小副川方面から川久保方面に出て、さらに南方柴野付近まで逃げ延びたが、龍造寺軍の追撃が激しく遂に討死した。土地の人が碑を建てて、その霊を慰めたのが三蔵塚である。 明治42年合祀前までは、毎年7月21日夏祭が行なわれ、露店も多く余興もあって、老松神社に次ぐ祇園祭りで賑わったという。 三蔵塚を始め、1、2坪の塚が柴野、稗蒔分の田んぼに点々と5、6か所にあったが、現在は殆ど姿を消してしまった。こんな塚が他にも2、3か所にある。若宮本村の北方長崎本線の側にも廟角があって5、6坪の草地の中に1基の碑が横たわっている。年代も人物も判明しない。下九郎社付近の本明の前の塚や上野中の田んぼの中、それから若宮、堀立、柴野、稗蒔へかけての塚から推量すれば、これは大友軍の戦死者の墓で敗走の道筋にあたるようだ。 話は前にもどるが、三蔵は入道して三蔵法師といい、大般若経を入れた経箱を常に身のまわりの者に担わせていた。敗走の途中、下和泉の也足庵にこの経箱を預けたものが現存するという。
-
小田資光の墓
小田資光の墓は東巨勢、龍津寺にある。小田駿河守資光は蓮池城主で覚派と号した。資光の祖小田常陸介直光が肥前にきて蓮池城を築いたのは応永34年(1427)であるが資光は戦国乱世のときに出て文武の道に長じ幾多の戦功によって所領も1万6千町に及び肥前の豪族として威勢をふるっていた。後に龍造寺隆信に亡ぼされた。はじめ墓は蓮池の徳恩寺にあったが、無気味なたたりが続くというので、あとで龍津寺に移したという。
-
高尾美少年の墓
昔、高尾に龍造寺政家公のお小姓で中島山三という者が住んでいた。年は13・4の女にしても見まほしい美少年であった。ふとしたことから佐賀市辻の堂、百武武次郎という武士と契りを結び一夜を明かした。その後、武次郎は山三の登下城には、道筋の橋側に待ち受けて見送りなどし、その仲はいよいよ深まった。 『肥前夜話』には山三の風情を「顔は面長で透きとおるほど色が白く殊にふっくりとした淡いバラ色の頬の辺りなど触れなば溶けんかと疑われるばかり、目は黒瞳がちで睫毛が長く物を見るそのまなざしは言うべからざる一種の温かい情がこもっている。それに鼻筋通って花英(はなぶさ)のような美しい唇、背たけもまたすらりとして、服装はといえば紫曙染の大振袖に朱色の下着、茶宇の袴を穿ちて黄金造りの大小を帯びたる、その姿の凛々しくもまた気高さ…」とある。 ところが、2年経て山三は政家公のお伴をして上京のさい、船中で不幸病魔におかされ死亡した。遺骸は竈王院境内に葬られた。『肥前夜話』に「古今無双の美少年山三逝いて春風秋雨三百年、雑草茫々の中に碑石苔蒸して淋しく跡弔う人もなく…」とある。
-
梅林寺(庵)直茂伯母夫妻の墓
直茂(彦法師丸)の伯母夫妻の2基の墓が梅林寺墓所の東部にある。伯母於喜久(清房の姉)が久米良家に嫁ぎ、西川内に居住、梅林庵に帰依していた。彦法師丸が同寺で2年余り手習、学問に励んだことも、伯母夫妻の気遣いなどの影響からと考えられる。 「墓碑刻銘」 玉峯常金居士(正面) 久米主税助良家 天正十三年乙酉九月十八日(側面) 花屋妙春大姉(正面) 鍋嶋平右衛門尉清久公(直茂の祖父)御長女於喜久殿 天正七年巳卯 廿日(側面)
-
高傳寺湛然和尚の墓碑
本堂南側に立ち並ぶ40基の墓は、開山・玲巌玄玻和尚を中心に両側に2代、3代、縦列両側に代々住職の墓である。ここに、『葉隠』の口述者・山本常朝が仏道の師と仰いだ11代湛然梁重和尚と常朝の刎頸の友と言われ『葉隠』の成立に大きな影響を及ぼした19代絶学了為和尚の墓がある。 [参考] 湛然梁重和尚:元々肥前の生まれで、三河国の寺にいた湛然和尚を武雄出身の名僧月舟和尚の推薦で高傳寺11代住職に就いた。楊柳寺(西与賀町高柳)の開山にもなった。禁酒など寺風刷新、反面慈悲心に富み、藩主鍋島光茂はじめ諸人の尊敬を集めた。寛文9年(1669)、圓蔵院の村了和尚が寺の昇格を藩主光茂に直訴したため斬首されたのを憤り、この寺を去った。湛然和尚は、松瀬(大和町)の通天庵に入った。藩主はもとに戻ることを説得したが受け入れなかった。そこで高傳寺の末寺として華蔵庵を建ててやり10石の扶持を与えた。延宝8年(1660)、ここで死去した。廃寺になった華蔵庵跡にも墓がある。
-
高傳寺近親者の墓
御位牌所北側に藩主達の主な近親者の墓を集めた墓所がある。藩祖・鍋島直茂の祖父・鍋島清久、同父・清房、龍造寺隆信の母で、直茂の父清房に再嫁し、直茂の継母となった慶誾尼ほかの墓がある。
-
高傳寺龍造寺一門と秀の前(波多三河守親の妻)の墓
墓所北部一画に龍造寺一門の墓が並んでいる。これは天文14年(1545)、少貳勢に謀られ、川上與止日女社で、龍造寺家純、家門、純家、祇園原(神埼町)で周家、頼純、家泰の6人が戦死し、龍造寺家壊滅の危機となった出来事があった。この6人の墓が建っている。 同じ区画に静室妙安大姉と刻まれた秀の前の墓がある。秀の前は、龍造寺隆信の養女(実は龍造寺胤栄の女)で、初め蓮池の小田鎮光に嫁し、後、松浦岸岳城主波多三河守親の妻となった。豊臣秀吉が名護屋在陣の時、名護屋に招かれたおり、秀吉の前で懐剣をとり落としたことからその怒りをかい、夫・三河守親は領地没収、常陸国に流された。その後、秀の前は佐賀に帰り、妙安尼と名乗り仏道三昧、妙安寺(川原町)の開基となった。寛永元年(1624)7月晦日、79歳で死去。
-
高傳寺枝吉神陽の墓
枝吉神陽は枝吉南濠の長子で、副島種臣の兄である。通称は杢之助、字は世徳、神陽と号され、文久2年(1862)8月41歳で死去された。神陽は容貌魁異、眼光けいけいとして人を射て、音吐鐘の如く、加うるに健脚比なく1日に能く20里を踏破されたそうである。 神陽は始め、父南濠と夏秋富雅に学び、後江戸昌平黌に入り、帰国後藩学教諭となられた。神陽は早くから勤王の大義を唱え「普天の下率士の濱天臣に非ざる者なし。君臣の様は独り朝廷に対して用うべきものにして決して藩公に対して、用うべきものにあらず」と、常に力説しておられた程で、勤王の為奔走し、楠公父子像を祀って、子弟を教養された。 明治維新に際し佐賀から幾多の志士を輩出したのは、実に神陽の薫陶感化による事が大である。 明治44年11月従四位を追贈せられた。 重野安釋は神陽の事を激賞して「之を古今の史中にもとめて恐らくその比を見ず」と言われたそうである。 神陽は大変な親孝行で、母が日頃病身なので幼少から母を労わり、何事もやっておられた。ある時は弟や妹を背負って門外に出て遊び、堀畔に踞して書物を読んで勉強しておられたそうである。両親が死去されてからは必ず忌日には怠らず墓参されていた。 文久2年(1862)12月佐賀に虎列刺病が流行したが、その時神陽の夫人が虎列刺病に罹って死去された。神陽は亡き妻の死屍を自ら指図して処理し葬儀を営まれた。しかし不幸にして、神陽もこれに感染し虎列刺病に罹られ14日まさに死なんとする時、家人を呼んで礼服を持って来させ枕の上にそれを置いて、起蹲伏し、遙に皇居を拝し「草莽の臣それがし事畢る」と言って死なれたという事であり、実に神陽の心中を察して涙をさそうものがある。
-
高傳寺副島種臣の墓
副島種臣は文政11年(1814)9月9日佐賀市赤松町にて生れる。枝吉南濠の二男で、神陽の弟である。幼名を二郎といっていた。 種臣が32歳の時副島利忠の養子となられ、副島姓を名乗られた。 種臣が後世に名をなしたのは、実に勤王家石井松堂の薫陶のしからしめたものである。種臣は蒼海・一々学人の号があり、学問該博、識見高邁、詩文に巧みで、明治天皇の侍講となられた。書は六朝を研究して妙を得、書聖中林梧竹翁と親交があり、梧竹翁が再三中国に渡り書道を研究したのは、偏に先生の書かれた書を見て発奮されたのである。「私は今度こそ、貴方に負けまいと支那(中国)に渡って研究して帰ってみると、先生の書は私より上手になって居られる。どうして支那にも行かれずに上手になられますか」と問われたのに対し種臣はただ笑っておられたそうである。 梧竹翁は書道においては種臣に一歩譲っておられた。しかし種臣はまた翁の書は実に見事だと賞讃して、明治天皇に梧竹翁の書を献上された程である。 種臣は維新の際国事に奔走され、明治元年初めて参与職制度事務局判事に任ぜられ、次いで参与職に補され、明治2年7月参議同3年5月外務省御用専務を経て、11月外務卿に任ぜられた。明治6年征韓の論が起った際議あわず辞職された。 明治17年伯爵を授けられ、明治25年松方内閣成立の時内大臣となられ、また枢密顧問官に任ぜられ、明治38年1月78歳で死去された。 墓地は東京青山及び高傳寺にある。
-
高傳寺家永恭種の墓
家永は弘化元年(1844)佐賀に生る。通称を範之助、嘯倣と号す。早くから文武両道に達せられて維新の際参謀となって、奥羽戦争に従軍され功労があった。 佐賀県参事、水戸裁判所長などを歴任、明治7年佐賀戦争後大いに地方の衰退を慨嘆し、官を辞して帰国され、松風社、戊寅義学を起して佐賀の民風を振興する事に努力された。殊に佐賀取引所の創立等に力を尽くし、その他色々世の為に貢献された人である。 また、明治22年(1889)佐賀市制施行に伴い、佐賀市会(議会)初代議長に選出される。
-
瑞應寺福地吉左衛門の墓
名は貞長、六郎右衛門家定の嫡子で、有馬の陣に従軍し、戦功があった。墓が瑞應寺にある。 寛文3年(1663)12月21日没。法名功翁道績。妻は鍋島孫左衛門の娘で、寛文12年(1672)7月24日没。 法名 善慶妙霊
-
大應寺比翼塚
佐賀市北川副町大應寺境内には軍国比翼塚と江副次郎、江副美子さんの二つの墓が建っている。 今は語る人々もなくひっそりと八田江の流れを背に寄り添っている。 次郎さんは元本庄村長の江副九郎氏の二男で、早稲田大学高等学院卒業後昭和11年4月入隊、その後中支江南の流洞橋の激戦に参加し惜しくも戦死をとげた。 美子さんは井上作次郎氏の三女で、次郎さんとはいとこにあたり婚約者であった。 昭和13年4月13日に次郎さんの戦死を知った美子さんは、5通の遺書を残して4月15日に数珠を片手に後追い自殺をなした。その顔は微笑さえ浮かべ美しかったという。 昭和13年6月11日次郎さんの遺骨が門司港に無言の凱旋をした。美子さんの遺骨も江副家に入り、14日本庄村葬に続いて、魂の結婚式が行われた。 美子さんは「長崎女人」に属する歌人で遺書とともに8首の辞世の歌を残していたので全国から多くの同情が寄せられた。美子さんの遺作は栗原荒野先生の紹介で佐々木信綱博士の推敲のもとに遺稿集『散りにし魂』が出版された。美子さんの死は当時戯曲化され、東京の常盤座で上演されたという。 春深む 江南の野に 魂散りて 君は護国の 神となります 春の夜は 真深く更けて せきあぐる 己がなげきの 泣く音聞ゆる 〟美子〟 (豊増幸子著 『肥前おんな風土記』より)
-
西光寺重松基吉の墓
西光寺に重松基吉が葬られ、その墓があります。基吉は、佐賀の七賢人の一人島義勇の弟です。藩校弘道館で学び、藩主閑叟公に重用されて上佐賀代官、横辺田代官から、江戸藩邸の公用人となりましたが、明治維新後は無役となり、明治7年(1874)に起きた佐賀戦争では、兄義勇、弟副島義高と共に憂国党の幹部として活動しました。佐賀戦争では政府軍に敗れて、2月13日、中川義純と佐賀を脱出し鹿児島に潜行したが捕縛。佐賀で臨時裁判が開かれ、義勇、基吉、義高三兄弟ほか10人、合わせて13人が最も重い罪に処せられました。佐賀ではこの処刑された人を、十三烈士と呼んで称えています。 齢52歳。 辞世の詩歌 死なば死なん 生くとき生きん 二つなき 其の負ふことの 道に尽さん
-
慶誾寺多久安順と一族の墓
多久家は龍造寺隆信の弟長信が多久梶峰城に入り、後を継いだその子安順が鍋島直茂の長女をめとって多久姓を名乗り、2万1千石を与えられ幕末まで多久邑を支配した。 系譜は次の通り 龍造寺長信→多久安順(以後多久姓)茂辰→茂矩→茂文→茂村→茂明→茂堯→茂孝→茂鄰→茂澄→茂族→茂穀→龍三郎 慶誾寺に6代(茂明)迄の墓がある。7代以降は多久町円通寺にある。
-
妙玉寺深堀領主の墓
深堀氏の先祖は三浦氏という。上総国深堀の住人で三浦深堀太郎左衛門尉仲光が、鎌倉時代の建長7年、肥前國戸八浦を賜ったので、来住して、地名を戸八浦より深堀と改める。(長崎市深堀町) 18代の孫深堀左馬助純賢茂宅入道は天正の初め、龍造寺隆信が西肥前彼杵・高来地方を攻略した時、純賢は真先に味方して、天正15年(1587)に豊太閤(豊臣秀吉)より「朱印」(領地を確認した朱印状)を賜り、直参になった。 文禄元年(1592)朝鮮侵攻の際に、増田長盛に頼み、龍造寺の家臣になることを願い出て許され、次いで鍋島氏に従い、鍋島直茂、勝茂から重用された。 (中尾正美氏編 『深堀資料集成』より) 深堀代々領主の墓が妙玉寺にある。
-
妙玉寺鍋島安芸守茂賢と追腹の墓
妙玉寺本堂の南東部に鍋島安芸守茂賢、同後室外22名の墓がある。これには『葉隠』に述べられている追腹の物語が残されている。 茂賢は正保2年(1645)2月11日行年75歳で没す。茂賢が病死した時、藩士18人と組下二人が追腹を申し出たので、家老衆から「殿様でなく大組頭のあとを追って、追腹を切るのは妥当でない」と重ねて翻意を促された。ところが、この者たちは「先年筑後の八ノ院の合戦のとき、主水殿(茂賢の兄茂里)の組の中から、安芸殿が特に我々を選び出してくださり、八ノ院で枕を並べて討死しようと言い交わしました。そのとき安芸殿も討死されなかったので、我々も今日まで生きながらえてきたのでございます。武士たる者が、枕を並べてと、約束しながら1日も後に残ることができましょうか」と言って、ついに追腹を切った。 18人および供の者4人の位牌と墓は妙玉寺にある。
-
妙玉寺鍋島主水茂里の墓
鍋島主水は、石井安芸守信忠の嫡子である。鍋島直茂が40歳になっても男子がなかったので、茂里の器量を見込んで、実子伊勢龍姫の婿養子とした。後、勝茂が誕生したため、茂里には別に神埼郡西郷村の旧地3千石を与えて一家を立てさせた。 幼名を太郎五郎、次いで左衛門大夫平五郎と改め後に主水佑茂里と称した。安芸守茂賢(深堀)の兄である。 慶長15年(1610)8月9日没 行年42歳 法名 見性院殿法山白妙大神袛 伊勢龍姫 寛永20年(1643)7月23日没 法名 月窓院天林妙清大姉(墓は妙玉寺にある) なお妙玉寺には勝茂公より、鍋島主水墓所に供養米を賜わった古文書が保存されている。
-
武富常古・寿珍の墓
武富常古・寿珍(武富廉斎の両親)の墓は、佐賀市呉服元町・称念寺に建っており高さ2.5m余りの巨大なものである。 その文字は、「やげん彫り」という特殊な工法で彫られており、柔らかな文字の筆感が墓石に表現されている。
-
古賀穀堂の墓と静古館跡
古賀穀堂は安永7年(1778)寛政の三博士の一人である古賀精里の長男として佐賀城下西精町に生まれた。穀堂は幼年の頃より学問を父精里に学びその英才と識見を称揚せられ後年佐賀弘道館の教授に任ぜられた。文化14年(1817)父精里の逝去に遭い江戸に赴むいたが天保元年(1830)隠居により佐賀へ帰った。晩年この地に家塾として静古館を築いた。穀堂時に天保7年(1836)9月16日享年59歳で死去。遺骸を静古館の所に葬った。今は木や苔が繁茂し当時の遺構は何一つ残っていないが、ただ周辺の閑静なたたずまいだけが当時を偲ばせてくれる。 金立町字大門、金立神社第二鳥居の在り所より道を東に進み5、60mで墓地に達する。 墓地は余り広い区域ではないが大檜樹の下に穀堂先生の墓を第一に左記の如く並んでいる。(其後檜は惜しいことに切りたおしてしまった) 西側より東面するもの北より順に 穀堂古賀先生の墓 燈篭が立ち其の北側には墓碑が立っている。 良密儒人宮富民墓 琴友儒人江口氏墓 古賀坤嗣子蘭秀之墓 同 庶子蘭声之墓 古賀聰関儒人之墓 鳴呼儒子蘭玉之墓 東側より西面ずるもの南より順に 鍋島綾子之墓 素堂古賀先生之墓
-
島義勇の墓
島義勇は安政3年(1856)鍋島直正の命により蝦夷、樺太の原野を踏破して調査し、現在の札幌市街の建設を始め開発に貢献した。明治7年(1874)の佐賀戦争の中心人物として江藤新平とともによく知られている。義勇は憂国党と称する佐賀の不平士族の党首に推され、同年2月、大久保利通のひきいる政府軍と戦って敗れ島津久光を頼って薩摩に向かったが、鹿児島で捕えられ故郷に護送され、嘉瀬の刑場に露と消えた。島義勇の墓は来迎寺の山門入って左側にある。墓石の表に楽齊島府君之墓、裏に明治七年甲戌四月十二日卒行年五三歳と記してある。
-
観音寺住職法印の墓地
西隈部落の南にある法印の墓地がある。墓石の法塔には下記のような住職名及其他が刻まれている。 権大僧正慶舜(当山開厳) 昌舜大和尚 第四世法印栄舜大和尚位 六世垣舜塔 権大僧正真舜塔(寛政2年5月3日寂) 法印範舜塔(嘉永2年西正月10日寂) 信楽院権僧正舜如塔 十三世定舜 不明 塔 権大僧都秀舜塔(於野州真岡円林寺寂) 蓮光院舜昌塔(嘉永廿元戊甲年2月16日寂)
-
築山(父母寺)
父母寺にある小高い墓地を、通称築山という。昔は樹木がうっそうとし、明治・大正末期まで、北側の通学道路を通るときや夜間は気味が悪いほどであった。 この築山の上の方の墓地には、昔は余程の悪童でなければ恐ろしくて登れないほど薄暗い墓地であってよく試肝会の場所として選ばれた所である。 当寺の開基と伝えられる多々良壱岐守信澄の墓は見当たらないが、多々良家祖先の墓という小石祠の両側に堂々たる2基の有耳五輪塔がある。
-
諫早家墓所
現在の墓所は一ヶ所に累代の墓標だけを合葬する形でまとめてあるが、珍しい「弥勒四十九院様式」の建て方を残してある。弥勒四十九院とは、弥勒菩薩が住む浄土、すなわち兜率天の内院四十九院のことで、墓標の周りを囲っている石柱に塔婆のように一本一本に四十九院の院名が彫ってある。
-
江副次郎・美子の墓
大応寺境内には、江副次郎、美子二人の墓が八田江を背にしてひっそりと、寄り添うようにして建っている。 次郎さんは、元本庄の村長で佐賀郡の在郷軍人会長(海軍大佐)であった江副九郎さんの二男で早稲田大学高等学院卒業後、昭和11年4月入隊、その後中支江南の流洞橋の激戦に参加し惜しくも戦死をとげられた。 美子さんは井上作次郎さんの三女で、次郎さんとは従妹であり婚約をしていた仲であった。昭和13年4月13日に次郎さんの戦死を知った美子さんは、5通の遺書を残して4月15日に数珠を片手に、後を追って自殺をした。その顔は微笑さえ浮べて美しい死に顔だったそうである。昭和13年6月11日、次郎さんの遺骨が門司港に着き吾が家に無言の凱旋をした時、美子さんの遺骨も、江副家に迎え入れられ、14日村葬が行なわれた後、二人の魂結婚式が挙げられた。 美子さんは「長崎女人」に属する歌人で、遺書と共に8首の辞世の歌が残されて、全国から多くの同情が寄せられた。美子さんの遺作は、栗原荒野先生の紹介で、佐々木信綱博士の推敲のもとに、遺稿集『散りにし魂』が出版された。 美子さんの死は当時戯曲化され、東京の常盤座で上演されて全国的に話題になった。それから50年、今では語る人もなく、忘れ去られている。 「春深む江南の野に魂散りて 君は護国の神となります」 「春の夜は真深く更けてせきあぐる 己がなげきの泣く音きこゆ」 (『肥前おんな風土記、写本荘の歴史』より)
-
『葉隠』 の筆録者田代陣基の墓
田代又左衛門陣基の墓が瑞龍庵内で発見されたのは、昭和13年の頃であった。碑面には、『松盟軒期酔之碑』と彫られていて、浪花節語りの名のようだといわれ調査の結果、田代又左衛門陣基の墓と判明しました。 三代佐賀藩主鍋島綱茂に仕え、祐筆役を務めた田代又左衛門陣基が役職を解かれた翌年、宝永7年33歳のとき山本常朝に初めて会った。 山本神右衛門常朝は、二代佐賀藩主鍋島光茂のとき、御側役、御書物役を務め、元禄13年藩主鍋島光茂の逝去に当り殉死しょうとしたが、 追腹禁止の藩令があったので剃髪して金立山麓の黒土原に閉居していた。 宝永7年3月5日、田代又左衛門陣基が金立山麓の黒土原に山本常朝を訪ね、『しら雲やただ今花に尋ねあい』期酔 と詠み山本常朝も『浮世から何里あらふか山桜』古丸 と応えお互いに喜び会った。 宝永7年(1710) 3月から享保元年(1716)にかけて草庵に足しげく訪れ、7年間におよび山本常朝の談話を筆録し、1342項目の全部を全11巻に筆録編集した。この『葉隠』の冒頭に、この始終11巻、追て火中すべしとされ、この『葉隠』は秘本とされていたが、佐賀藩士の間にこっそり写されて愛読されていた。 『葉隠』とは一体何ですかと聞かれたとき、 一口に言い切ることは難しいが『葉隠四誓願』は葉隠の要約されたものを表現しています。 『葉隠』とは『山里の木の葉がくれに聞き、ひそかに書きとめたもの』という気持ちをこめ、さらには、『陰の奉公』の意味合いも持たせたものでは ないだろうかといわれています。 山本神右衛門常朝の仏道の師で、高潔無比の禅僧といわれた湛然和尚、儒教・仏教の造詣深く当時佐賀藩第一の碩学とうたわれた元佐賀藩士石田一鼎宣之、山本神右衛門常朝、田代又左衛門陣基の四哲に、 『校註葉隠』を編纂し、だれにもわかりやすく説いた栗原荒野を加え、『葉隠』の五哲と呼ぶにふさわしい。
-
右近刑部少輔墓
天永年間(1110~1113)菅原道真の子孫右近民部太夫良遠が肥前に下向し、蛎久天満宮の社職を命ぜられ、其子満遠は対馬守に任ぜられ蛎久の地頭となり、その後数代を経て刑部少輔の代となって鍋島直茂に重く用いられ知行五十石を領し慶長年間(1596~1615)佐賀城下建設にあたり建設頭人を命ぜられた。刑部はその時中元寺新右衛門其他の有力者と計り、十数年間あらゆる辛酸をなめ艱苦に堪え、遂に蛎久、岸川、植木の町家を佐賀に移転し、八戸町、六座町から白山町、呉服町、東は高木町、慶長町に至る佐賀城下を造りあげた。そして自分も町人となり伊勢町に旅人宿を経営し、傍ら内密に目付役を仰せ付けられた。なお慶長年間(1596~1615)朝鮮出兵に直茂副将として出征の際には、刑部は病気のため従軍できず嗣子生良が御用を拝受した。生良の生の字は直茂の前名信生の一字を戴いたものである。刑部は佐賀城下建設の功業をとげ元和元年(1615)7月没し、その墓は蛎久の栖竜院にある。
-
千葉胤正(胤誠)の墓
千葉家は下総(千葉県北部・茨城の一部)の桓武平氏で、蒙古襲来の文永の役(1274)に九州に下向した武士団で、戦後そのまま小城の晴気荘の地頭となり、小城・杵島・佐賀の一部を領した。全盛時代は、肥前国主と自称し小城を国府・尼寺国府を府中と呼ばせたこともあるが、戦乱の頃は親子兄弟の内輪もめが絶えなかった。 永祿2年(1559)正月11日、龍造寺隆信によって千葉胤正の小城晴気城は落され、兄の胤朝は陣没。少弐冬尚は逃れて仁比山で自害した。 胤正は、この仇を打つには神代勝利の力を借らねば出来ないと考え、勝利に援を乞いに山内に来た。勝利は若い頃一時千葉家に居たこともあり、胤正を三瀬の土師村に住わせた。胤正は家伝の八龍宮を氏祖と崇め、妙見菩薩の祠を建て祀った。 仇討ちの機をうかがっていたが、来せぬまま文禄2年(1593)逝去。『平日義大神祇』とおくり名(法名)され、皿山の西の丘に葬られた。ここを屋形山というのは、千葉家の家柄に対する敬称で、館の字を当てない。 ここには敗戦後まで、立派な松があった。江藤新平はその末孫という。 一緒に葬ってあるのは、胤正の一人娘で数奇な一生を送り寛文元年(1661)7月晦日卆。眞如院殿妙光日住大姉である。