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[旧佐賀市][嘉瀬校区]は117件登録されています。
旧佐賀市 嘉瀬校区
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鑑真和上記念碑
聖武天皇の招きにより、唐の国揚州より遣唐使船に乗って日本に向った鑑真は、5回の渡航失敗にもめげず、6回目の渡航にて漸く成功し、天平勝宝5年(753年)薩摩の坊ノ津にたどりつき、そこから東支那海を北上し、嘉瀬の嘉瀬津の港に上陸し大宰府を経て平城京に到着したとされている。その鑑真和上の上陸記念碑は嘉瀬町の森林公園内に平成2年に建立された。また、その碑の横に井上靖氏自筆の「和上讃仰碑」並びに朱塗りの遣唐使船をかたどったモニュメントが建てられており、その横には揚州市より贈られた瓊花(けいか)が植樹されている。
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ナキビス地蔵とアガイ地蔵
中原公民館横の広場に、赤い胸当てをつけたナキビス地蔵と呼ばれる背丈約60cmの石造仏が祀ってある。ナキビスというのは涙脆くてちょっとしたことですぐ泣き出す人のことを言う佐賀の方言である。夜泣きをする子供や泣き癖の強い子供を連れ、お菓子などを供物としてお参りするとナキビスが治ると言われている。以前は、田んぼの中に田の面より少し小高い林があって、その林の中に祀ってあった。昭和58年ほ場整備事業の時に現在の地に移され、今も手厚く祀られている。 有重の若宮社の境内に、三体のアガイ地蔵が、高さ3.5mほどの土盛りの上に祀ってある。この地蔵は高い所に上がるのが好きな地蔵といわれ、お参りする時に土塊をあげると地蔵が大変喜ぶ。そんなわけで昔から土塊を持ってお参りしていたので、土盛りがだんだん高くなって今の高さになったと言い伝えられている。昔は馬に鋤を引かせて田を耕していたので大きな土塊を簡単に手にすることが出来たのである。今は土塊をあげるものはほとんどいないが、数年おきに近辺の者で嵩上げをしている。
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千人塚
千人塚は千人塔ともいう。藩政時代の刑死者の菩提を弔うために、刑場の一隅に建てられた供養塔のことである。嘉瀬町を西に外れると旧長崎街道が嘉瀬川堤防を上っていた。そこから凡そ100m南へ行くと南側の河川敷にこの塔が建っていた。 辺り一帯が鍋島藩政時代の刑場跡である。近年森林公園の建設にあたり千人塔は妙福寺に移されたが、現在は、それとは別に森林公園の北西部にも建てられている。およそ270有余年前、妙福寺の日仙上人が夢想をうけて刑死者のため供養の卒塔婆を建てたのが最初の因縁であった。その後明和3年(1766)8月同寺の日潮上人によって今日の石碑に改建された。
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俊寛僧都の墓
嘉瀬町の森林公園北の国道207号線沿いに「俊寛僧都の墓」と刻んだ碑がみえる。ここから50m北に入ると法勝寺という僧堂がある。開山は俊寛、開基は平教盛(一説では源頼朝)。本尊は伝教大師となっている。もともとは京都の法勝寺をまねた美しい大伽藍で、あまたの法塔が建ち並び豪華な寺院であったが、数度の兵火で焼失し、いまでは一部分だけが残っている。
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不動明王
県外からも参詣者が多いお不動さん。豊山(ぶざん)派真言宗、新成田山、覚盛寺である。寺の境内には弘法大師88体の石仏・観世音菩薩・延命地蔵尊・大黒天・蛭子尊などの石仏が整然としている。
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福徳招来の額
大黒天と恵比寿天のにこやかな面をはめ込んだ横幅80cm、縦40cmほどの横長の額が、古い家の座敷や居間に掲げてあるのをよく見かける。額の真ん中には墨痕鮮やかに「笑門来福」と書いてある。この額は天草江、嘉瀬津、元町の特産品で、かつては日本全国を股にかけて販売されていたものであるが、今では製造所が元町にただ一軒残っているだけである。
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朝鮮出兵の戦勝祈願塔
塔の建立は朝鮮出兵時で、嘉瀬津在住の大富豪平吉弥次郎刑部之亟である。藩主の鍋島直茂公の側近として仕え、朝鮮出兵時の軍用金を全て賄った。豊臣秀吉に対し、鍋島直茂は大いに面目が立ったと、のち、徳川幕府は鍋島藩に対し、35万7千石の禄を与えた。その基盤を平吉弥次郎が作った。(1613年慶長18)平吉弥次郎のこの功績に対し、鍋島直茂公は平等院、お志賀さん・熱の神さんの建立を許可し、免税にしたと記録有り。
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青藍校跡
青藍団地は1960年(昭和35年)8月より入居が始まり、分譲・県営・市営の住宅が91戸あるが、この地は、嘉瀬尋常高等小学校のち嘉瀬中学校の跡地である。敷地は鵜川徳次郎氏寄贈。団地に入り、すぐ左側に学校跡として記念塔が建てられている。
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干拓堤防
嘉瀬新町の干拓堤防は、後傾斜工法のオランダ式堤防である。堤防事業は、用水確保、洪水調節、陸地造成など多目的である。有明海では、大潮の時には水かさが5~6mに達している。
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若宮社 アガイ地蔵
若宮社の台座に「大正13年12月建立」と刻んである。「太神宮」の石碑に「宝永五戊子天十一月吉祥日」と刻んである。2mほどの土盛りの上に3体の地蔵(石造)を祀る。
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石造七地蔵
1874年(明治7)に、政府は仏主神従を神道重視にし、「お地蔵さん」の首をはねのけさせた。どうしてか荻野の石造六地蔵は首がついている。何故だろう。 七地蔵は、禅寺の和尚さんより聞く辞書には見当たらず。 ※写真は徳善院の石幢地蔵塔。
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古賀清右衛門の墓
苗運寺に墓が在る。
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江藤碑
江藤新平が佐賀戦争の後、鹿児島に敗走する際に船に乗った場所。
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人築(一月)井樋
嘉瀬の水の要所 ワラで人柱をつくり、徳善院で祈祷したところ、壊れなくなった。
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年始(1月1日)
年始は俗に「年とり日」と言われ、元旦の行事は家庭によって様々であったが一般的には朝早く起きて朝風呂を浴び、若水で顔を洗い、その年の恵方を向き、歳徳神に不老長寿、福徳円満、家内安全を祈念した。農家では、にわなか(土間)に歳徳さんの祭壇を作った。祭壇は臼を土台にして、その上に箕を置き、それに一升桝を立て年末についた餅、蜜柑、干柿等を飾っていた。家族全員が歳徳さんに礼拝をすますと座敷に年長順に座り、新年の挨拶を交わしてから屠蘇酒を飲んだ。 一通り屠蘇酒を交わす式が済むと鏡餅に向って「〇〇歳になりました」と宣言し、三宝に乗せてある昆布、スルメ等を頂いてから朝の食膳についた。朝の食事は各家庭によって様々であったようだが、お雑煮を食べるのが一般的に行われていたようである。その後氏神様や恵方にあたる神社に参拝しに行く人もいた。太平洋戦争までは、子ども達は学校での四方拝の儀式に参加していたが、戦後は家族中心の行事となり学校での儀式はなくなった。
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ほんげんぎょう(鬼火たき)(1月7日)
朝まだ暗いうちに起床し、家の門前や鎮守の境内等で、前日までに土手などで刈ってきた竹笹やしめ縄、お札を焼く行事である。これは全国的な行事で鬼火たきとは鬼退じの意味である。この鬼火たきでは歳徳神に供えた餅を焼いて食べた。この餅を食べることによって禍を除き福を得ることを祈ったものである。また竹の燃えかすのまだ煙の出ているのを拾って田んぼへ挿し虫除けのまじないにしたり、上部を三角形に折り曲げ門口に立てて魔除けにするところもあった。 嘉瀬では、各部落によってその方法は様々であったが、今では殆んど行われていない。ただし、扇町では虫供養塔北の田んぼの中で、公民館行事の一つとして実施している。
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荒神餅(1月9日)
この日に荒神様に供えた餅を食べた。この餅はへっつい(かまど)を模して作った餅で、地域によってはこの餅は男性に嫌われ専ら女性だけの餅であった。最近では丸型の餅を供える家庭が多い。
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土龍打ち(1月14日)
約5、6mの竹を切ってきて、その先に藁づとをくくりつけた棒で、部落内の家々に行き庭先で円陣をつくり、土龍(もぐら)打ちの歌に合わせて地面を叩く男児の行事である。この行事はもともと田畑を荒す土龍の害を除こうとするもので、子どもたちはもちやお金をもらったものであったが近年では、あまり行われていない。 <土龍打ちの歌> せんすい(千秋)まんすい(万歳)そぉーれ なれなれ柿の木、 ならずの木をば(実を結ばない木を)、 なれぞというた、 千なれ万なれ 億万なれ、 つる打ちすんな、 あだ花咲くな、 人のちぎっときゃ(人が盗みとるときは)、 ほい(堀)の岸なあれ、 おどんがちぎっときゃ、 畑のまん中なあれ、 去年よりや今年あ、 所見がようして(見ばえがよくて)、 太うして 長うして、 ぶらっぶらっとなあれ、 14日のもぐら打ち
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針供養(2月8日・12月8日)
明治の頃までは裁縫師匠の家で針子たちが集まり1年間に使用し折れた裁縫用の針を白い豆腐に挿し、祭壇を設け、草花や菓子を供えて針への感謝と共に裁縫の上達や針で怪我をしないようにと祈った。豆腐はお寺のそてつの下にうめていた。今では、2月8日に一部の部落(元町)や学校等で行われているだけである。
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ひな祭(3月3日)
「桃の節句」や「ひなの節句」といってひな人形を飾り、ふつ餅(よもぎを入れて作った草餅)を供え、白酒を入れたかんびんに桃の花枝をさして飲み少女の将来を祝った。特に初節句の家では親類等から雛人形や、ぼんぼり等やお祝儀を貰い、それに対して酒肴を出して盛大に祝った。この行事は今でも実施している家庭が多い。
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春祈祷(4月〜5月)
この行事は部落によって期日は違うが、4月から5月にかけて行われていた。農家ではこの頃から麦刈りや田植の準備が始まり、1年中で最も多忙で骨折る時期で、「ごんがつ」とも言った。この行事はもともと氏神様の境内で村人が集まり五穀豊穣を祈ったものである。昭和の初期まで続いたが現在でも元町・有重・新町・十五では4月7日、または4月28日に行われている。
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端午の節句(5月5日)
男児が生れた家ではお節句の数日前から庭先に幟竿を何本も立て、これに矢車、吹き流し、鯉幟を飾りつけて祝った。初節句の家では酒を用意し親類知人等を招いて振舞った。この節句は現在でも行われているが、4月中より鯉幟を掲げ、幟を立てる場所のない家庭や団地等では室内用の小型鯉幟を飾っているところもある。昭和23年7月に国民の祝日に関する法律が制定され、この日を「子供の日」とし「子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかると共に母に感謝する」という日になった。
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さなぼり(早苗祭)
七月上旬頃で農家では一番骨折る田植えが終り、無事済んだというお祝いで、うすの上に箕をおき、苗束を供える行事である。また、地方にもよるが農家では新嫁をこの日から里帰りさせることも行われていた。
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七夕祭り(旧暦7月7日)
この日は、天界のけん牛(鷲座のアルタイル)と織姫(琴座のベガ)という星が天の河(銀河)で相会するという中国伝来の説に基づく風習で、7日は早朝に起きて稲などの葉にたまった露の水滴を取り集めて墨をすり、五色の短冊に自分の願いごとを書いて竹の枝にくくりつけ、その竹竿を家の入口に立てた。七夕に使用した竹竿は畑に立てて虫除けなどにしたり、物干竿にもしていた。この行事は近年新暦7月7日に行うところが多い。
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盆祭り(8月13日〜8月15日)
以前は旧暦の7月13日から15日までの三日間にわたる日本中の国民的行事であった。しかし現在の嘉瀬町では8月13日から15日までの3日間行われている。お盆にはいる前に墓地を清掃しお花や線香をあげて、宗派によっては異なるが、家庭では盆用の仏壇を作り盆花を供え13日の夜は玄関か縁側に盆提灯を提げてお精霊さん(仏様)をお迎えする。13日の夜のお茶湯から始まって15日の朝の餅まで精進料理を供える。またこの期間中には菩提寺の僧侶が各家庭を巡回してお経をあげる。初盆の家庭では親類等から贈られた提灯に灯を点して故人を偲び、15日の夜は本庄江の高橋や嘉瀬川の定められた岸辺から精霊流しを行ない、精霊を十万億土の極楽へ送っている。また、盆踊りは空也上人の念仏踊りが変化したものと伝えられており、戦後急に盛んになった。この盆の期間中には故郷を離れた者たちの帰省が多い。
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豆祇園(8月24日)
村の鎮守の夏祭りを祇園と呼び、鎮守の境内には守護神の他に地蔵尊、観音、大日如来などいろいろな神仏が祀ってあり、これらの守護神以外の神仏の祭りを灯つけといって、観音様は女児が、その他の神仏の灯つけは男児が担当した。各戸から豆やお金を喜捨してもらい昼間清掃して神仏の前にござを敷いて、夜各家庭から持ってきたご神灯に灯を点して村人に参拝して貰い煮豆の接待をした。現在では、一部の集落に残っているだけである。
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おくんち(10月10日)
おくんちは村の鎮守の秋祭りで豊年に対する感謝祭であった。このおくんちは中国の9月9日の重陽の節句から変わったものだろうと言われている。 嘉瀬では十月に行われ、おくんちの行事の一環として有重八幡宮(有重、十五、新町)、四面神社(北島、元町、中原、嘉瀬津、天草江)、乙護神社(荻野、野田、東原) での浮立が実施されている。
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荒神さん相撲(12月24日)
集落の男児(小学生)が集まって各家庭を回り、それぞれの家の荒神様(かまどの神様)の前に敷いた蓙の上で座り相撲をとる行事で、この日には各家庭では荒神様の神棚にごっくうさんをあげてあった。相撲をとった後、各家庭から御礼として蜜柑や干し柿を時にはお金を子供たちに与えていた。
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餅つき(12月下旬)
年の瀬も押迫ると、各部落では思い思いに組を作って餅つきを行った。29日の日は「苦」に通じるとして一般にこの日を避けた。にわなかや門先に大臼を据えて5、6名の壮青年が向う鉢巻をして餅をつき、女の人はつきあがった餅を丸めていた。この餅つきで正月用の歳の餅や神仏に供える餅を作った。各家庭でつく餅は糯米(もちごめ)1俵(約60kg)以上のところが多かった。しかし近年ではこの様な方式は殆んど行われずに機械で餅をついたり、業者に依頼することが多くなった。しかし、嘉瀬津、元町、扇町等では公民館や子どもクラブの行事として実施している。
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英彦山まいり
佐賀藩鍋島家と縁の深かった英彦山権現への長途の参詣をすることを「英彦山まいり」と言った。(享保14年 1729年英を加えて英彦山となる)これは、3・4月頃の農閑期に集落毎に行われた。このおまいりと関連しているのが権現講(彦山講)であった。講は年1回集落毎に行われ、この講で「英彦山まいり」の当番が3〜4名順番で決められていた。鹿児島線・長崎線の鉄道が開通してからも一泊二日のおまいりであった。土産には必ず札に「英彦山ガラガラ」という土鈴と「飯しゃもじ」それに英彦山の生笹を付けて家毎に配ることになっていた。厄除け、一家安全・繁栄の御利益を祈願した。 英彦山権現の青銅鳥居は初代勝茂の寄進であり、神殿の改築も鍋島藩主の寄進であった。そして、嘉瀬有重の徳善院に英彦山の分霊を祀り「徳善院権現」または「徳善院英彦山」とも称した。徳善院は、歴代藩主の祈願所となっていた。つまり徳善院は鍋島藩と英彦山権現とのパイプ役をつとめていた。「英彦山まいり」が集落毎に行われるようになったのは、このような藩と英彦山権現との長い歴史を通じての深い因縁によるものであり藩の指示もあったと思われる。このように長く続けられた「英彦山まいり」も戦後は殆ど行われなくなった。けれども、一部の集落では今でも行われている。