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[旧佐賀市][金立校区]は55件登録されています。
旧佐賀市 金立校区
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金刀比羅神社
金立町大門の金刀比羅山の頂上近く鎮座するお宮である。金刀比羅神社は人皇第50代桓武天皇の宝亀5年(774)今の権現中原山に建立されたが其後数次の兵火に遭い、殊に大友宗麟の西征の際龍造寺との戦の際宗麟に焼かれて堂宇烏有に帰し顛末が詳かではないが古老の言と鍋島譜蔵書中に散見するものによると、天正5年元信徒連の(権現原より大島清八氏、熊山より熊山宗右衛門の2人)代表者讃岐の金刀比羅宮の御分霊を受けて再建を計り後龍造寺隆信社殿建立して豪族武将の崇拝篤くなり、文禄慶長の役には鍋島直茂出陣に際し武運長久、海上安全の祈願を成就し、元和元年願成就の為山林を寄進し、其後守護の神として神徳輝やき寛永19年島原の乱出陣と共に藩士民の崇拝加わり、享保17年鍋島宗茂公(5代藩主)若殿(宗教)大病を患い平癒祈願の結果神徳霊験高く全快せり。 宝暦2年(一説宝暦4年安置)御願成就の為熊山の地(五町余)を撰び其の中腹肥筑平野を俯する眺望絶佳の地に荘厳華麗なる社殿を建立して遷座奉祀されて今日に到ったもので、其の間藩主藩士民の崇敬者加わり明治以後は度々の戦役に神徳輝き勝負の神、武の神、海の神として遠く有明海岸の人々まで参詣者は仲々数多いものがある。 祭神は崇神天皇、大穴弁次命(大国主命)少彦名命(医薬の神)多岐津姫命(海を司る神) ○板碑 板石塔婆ともいう。鎌倉時代におこり、室町時代には形式化板状の石を用いて卒塔婆の一種として発生した供養塔である。 板碑に多い信仰は、阿弥陀如来を供養して浄土往生を祈願した。 阿弥陀如来が、観音・勢至両菩薩を脇侍として従えた阿弥陀三尊あるいは一尊をほん字で表現したものが多い。 題目をあらわしたものもつくられている。 ○ぼん字と種子 板碑をはじめほとんどの石塔に、仏教上の権威ある象徴として、ぼん字が刻まれている。ぼん字は、ぼん語を表記するために用いられた古代インドの文字であるが、中国・日本では、ぼん字のもつ呪術的威力が強調され、あらゆる仏教遺物にはん濫するまでになった。 板碑などでは、ぼん字一字をあてて一定の仏菩薩をあらわす。 その一字が限りない仏の恩恵をうけるものとみる密教観から種子とよんでいる。すべての功徳が生ずることを草木の種子にたとえていったわけである。
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金刀比羅神社の御神燈
この御神燈は大正8年に建立されたもので、用材はすべて四国の琴平より運ばれたもので諸富の港に荷上げされ金立まで約1週間かかって当時の金立村青年団が運んだといわれている。現在なお御神燈は有明海の航海安全のため照らし続けている。
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古賀穀堂の墓と静古館跡
古賀穀堂は安永7年(1778)寛政の三博士の一人である古賀精里の長男として佐賀城下西精町に生まれた。穀堂は幼年の頃より学問を父精里に学びその英才と識見を称揚せられ後年佐賀弘道館の教授に任ぜられた。文化14年(1817)父精里の逝去に遭い江戸に赴むいたが天保元年(1830)隠居により佐賀へ帰った。晩年この地に家塾として静古館を築いた。穀堂時に天保7年(1836)9月16日享年59歳で死去。遺骸を静古館の所に葬った。今は木や苔が繁茂し当時の遺構は何一つ残っていないが、ただ周辺の閑静なたたずまいだけが当時を偲ばせてくれる。 金立町字大門、金立神社第二鳥居の在り所より道を東に進み5、60mで墓地に達する。 墓地は余り広い区域ではないが大檜樹の下に穀堂先生の墓を第一に左記の如く並んでいる。(其後檜は惜しいことに切りたおしてしまった) 西側より東面するもの北より順に 穀堂古賀先生の墓 燈篭が立ち其の北側には墓碑が立っている。 良密儒人宮富民墓 琴友儒人江口氏墓 古賀坤嗣子蘭秀之墓 同 庶子蘭声之墓 古賀聰関儒人之墓 鳴呼儒子蘭玉之墓 東側より西面ずるもの南より順に 鍋島綾子之墓 素堂古賀先生之墓
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吹上観音像
金立山登山口より笹や木の葉に埋れた細い山道を曲りくねりながらたどって行く。道とは名のみでわずか歩行者の踏みならした小径があるだけで急な坂道を約30分ほど、距離で約2㎞あまりで到着する。 金立神社御縁起記によれば元禄以前此の所に瀑水がかかっていてその下に観音大師の像が安置してあり肥前の国三十三観音所の一つとして参詣者が非常に多かったと記してある。ところが元禄の頃、或日疫雷、暴雨が起こり山川震動して崖は崩れ堂は倒れて忽ち大士を失い、此処はただ魁らい巨石が巍然として立ったすがたに人々は皆驚異の眼を見はった。 そしてその後はこの崖石を崇拝し吹上観音と号するようになった。その後山麓の住人、小川藤原俊方が元禄6癸酉(1693)石工に命じて石面に正観音の石像を刻んだとある。御縁起記によれば造立年代は江戸時代中期である。山道沿いの高さ7mの花崗岩の岩壁の表面に花頭窓ようの輪郭をつけて彫りしずめ蓮花座に安座する。像高約80㎝、輪郭の高さ約1mで、全体的に風化はほとんどみられず当初の彫像様式を今にとどめている。今もその周辺は数基の石塔が存在し、霊山らしい神域をいやおうなしにかもしだしている。 いずれにせよこの磨崖仏は市内で最もすぐれた作として仏教史研究上きわめて歴史的な価値を有している。
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来迎寺
金立町来迎寺地区の北端にあって極めて由緒深い寺である。開基は鎌倉幕府の第5代執権の北条時頼が諸国巡遊の際肥前国上郷白水村(現在の来迎寺)に大源山称名院来迎寺を建立し、知玄上人を開山和尚とした。時の執権時頼の威勢と信仰の力を以って建立されたものでその規模は広大であったといわれている。
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島義勇の墓
島義勇は安政3年(1856)鍋島直正の命により蝦夷、樺太の原野を踏破して調査し、現在の札幌市街の建設を始め開発に貢献した。明治7年(1874)の佐賀戦争の中心人物として江藤新平とともによく知られている。義勇は憂国党と称する佐賀の不平士族の党首に推され、同年2月、大久保利通のひきいる政府軍と戦って敗れ島津久光を頼って薩摩に向かったが、鹿児島で捕えられ故郷に護送され、嘉瀬の刑場に露と消えた。島義勇の墓は来迎寺の山門入って左側にある。墓石の表に楽齊島府君之墓、裏に明治七年甲戌四月十二日卒行年五三歳と記してある。
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お辰観音像
東千布観音周地に建つ小さな観音堂に等身大のお辰観音が祀られている。玄蔵の娘お辰は徐福と恋仲となったが、徐福が一族の長であり毎日多忙であることから時々機会を作って恋を語り思いをとげる外途がなく逢う瀬が少なくなりお辰は遂に所謂恋わずらいとなり、果ては明日を知れぬ重態になってしまった。お辰は「自分は思うこと叶ずして死出の旅路をたどることとなるが、私の死後私を祀ってくれるものがあれば参拝する諸人の願を叶えてやる念願をもっている。」と言い遺したので、其の後近郷の人々の間で話し合いお辰を形どる観音像を作り祀ったのが、今の観音像と伝えられている。功徳として結婚祈願をよく成就すると言われている。50年毎に行われる所謂「金立神社のお下り」のときは、必ずお辰観音が出迎え一夜を共にする行事が今でも行われる。 昭和58年2月にお辰観音堂が修理された時に次のように記載された棟札が発見された。 上棟南無大悲観世音菩薩 現三十三身而祓苦與楽除災集福 国家泰平村中安穏五穀成就 奉勧請 吉田氏 こノ時 延享二年 閏十二月吉日良辰 建立自主 吉田五兵衛尉 大工 石丸軍平尉正長 小工 若二 昭和五庚午一月吉日良辰 建替 大工 小寺初次
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北山正現稲荷神社
金立山の前面所謂北山正嶽の中腹に鎮座する稲荷神社で由緒ふかい所である。 人皇第12代景行天皇御西征の砌、当山に御足を止められたることがある。その後神亀年中(約1200年前)聖武天皇の御代僧行基が帰郷の折、この地に大寺を建て北山一山と成し、後聖武(勝務)上人勅命を奉じ北山山中に修行し岩蔵寺(天台宗)を開き北山燈頭又数百坊を有し隆昌を極めたらしい。(その寺跡は不明であり、その歴史も残っていないが現在字来迎寺にある成就院(天台宗)はこの岩蔵寺の跡を承けたものと成就院では言われている)その当時この寺の守護神として京都伏見稲荷山に鎮座します。正一位稲荷大明神の御分霊を勧請し奉るようになって寺運がさかえ、参詣者が増してその霊験が益々現はれ北山正現嶽の森として世に現われ給い、その後天台宗徒が奉仕して来たが文明以降戦火にかかって焼失し次第に荒廃に向った。ところが後年鍋島氏の所領となり、初代勝茂公の時、当山付近に狩せられ正現嶽に参拝あり、その荒廃したるを見て堂宇を建立されその後代々の藩主尊信せらるるに至って一般崇敬者も年と共に加わり明治維新前より明治の中頃にかけてはその境内より参道にかけ、十数軒の茶屋が軒を並べ仲々の賑わいを現わし更には参道の中腹(二軒茶屋)麓(稲荷町として)茶屋小店等立ち並ぶ有様で稲荷神社の赤鳥居の森の間に陰見するあたりから三味の音、歌声の聞ゆる事もめづらしくなかったとは古老の言い伝えるところで当時の茶屋の名、茶屋跡、三味の名妓等の名を語るものも沢山ある。 ところが明治20年から同34、35年にかけて2回の山火事に遭い(第1回は北山正現岳を中心としての山火事でその為さしもに壮麓の堂宇の境内から下に立並ぶ茶屋も類焼して跡を留めぬ有様となり、第2回目は金立全山の山火事となり境内の数多の社殿にも損害を受ける悲惨事で)その復興は仲々思うにまかせなかったが日清日露の戦役と共に出征者或は留守家族の武運長久祈願のため、参詣者日と共に加わり更に平時は農商工業者の守護神として等崇加わり、殊に支那事変以来益々隆昌に向いこの時に至り信者一同凝議して荒廃したる社殿の造営をなし、今日に至ったものである。
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金宝山一乗院観音寺遺跡
金刀比羅山の南麓の階段式畑地を成しているのが其の跡である。寺跡の畑地と山との境界に当山10世の住職権僧正真舜の石像(坐像)を果せた石塔が遺っている。真舜は江戸一乗院14世当山中興の祖であり、金刀比羅神社の鳥居並に石段はこの時代に修築されたものである。 寺跡を語るものとしては寺跡の南下より東にかけて寺の馬場と呼ばれる地名が残っている。これは昔の名残である。更に大門の地名は昔は此地は熊山と呼ばれていたが当寺が隆昌となり、宏大な山門が構えらるに到って土地の人は大門のあたりだとか、大門のあたりに行くなどと常用せられ何時とはなく熊山の名は失せて地区の名が大門と化し、名づけられて今日に到ったものである。(寺院の建立以前は金刀比羅山も熊山で附近の地区は熊山であった。筆者の幼少の頃は大門の上部の方は熊山と呼ばれていたし、神社の高張提灯や消防組の名は熊山と銘を打っていた時代があった)熊山は元々隈山であったらしい。 当山の沿革 当寺は日峯様泰盛様の時代御開基慶舜宝光院宝林院元忠寺住職之内元和中高麗御山陣之節□元忠寺千座万之護摩其外被仰付、山林等五拾町余御寄附被成下僧正地に御取立被下寛永九年に住職仕同十一年に僧正官相勤功又寛永十五年より島原御出陣に付御祈祷被仰付候末御差控御座候砌弟子寛了房円義天海大僧随身の砌にて慶舜と申含天海僧正迄相煩被申侯由、天海公儀之御執成有之首尾能相済み候上同十七年東叡山御参詣被遊旨にて一乗院慶舜え開基被仰付候東叡山一乗院と号候 開基 僧正 慶舜(寛永元年5月) 二世 昌舜(〃18年5月) 三世 忠舜(寛文11年) 四世 (栄舜)舜栄(延宝5年3月) 五世 宗舜(宝永5年9月) 六世 垣舜(享保15年5月) 七世 権僧正 真舜(延享2年) 八世 範舜(天明5年9月) 以上の記録があるが其の後記録は当神社には見当たらない。 鍋島家の内庫所書蔵の書類に或は保存されているやも知れない。 兎に角鍋島家代々の祈願所として崇拝せられて廃藩から神仏分離となり廃寺となった。
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彦山権現
観音寺の寺傾掛り宮として祀られたもので字権現原宿内にあり、故原権現と唱えられる。
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観音寺住職法印の墓地
西隈部落の南にある法印の墓地がある。墓石の法塔には下記のような住職名及其他が刻まれている。 権大僧正慶舜(当山開厳) 昌舜大和尚 第四世法印栄舜大和尚位 六世垣舜塔 権大僧正真舜塔(寛政2年5月3日寂) 法印範舜塔(嘉永2年西正月10日寂) 信楽院権僧正舜如塔 十三世定舜 不明 塔 権大僧都秀舜塔(於野州真岡円林寺寂) 蓮光院舜昌塔(嘉永廿元戊甲年2月16日寂)
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栗棘山円珠寺跡
金立町には禅寺が少ないが、この寺は禅寺・黄檗宗のお寺で、大きなお寺であったといわれている。 小堂と墓である石塔、桂巌禅師の墓がある。 葉隠を口述した山本常朝隠棲地・朝陽軒の南約500mあたりで、桂巌禅師の晩年の地である。 桂巌禅師は佐賀藩2代藩主鍋島光茂、3代藩主鍋島綱茂の崇敬が厚かったことが「綱茂公御年譜」に記されている。 葉隠の語り手である、山本常朝の生きた時代と重なる。
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来迎寺天満宮の鳥居
天満宮の鳥居は、建立が元禄14年(1701)で、赤穂浪士の討ち入りの1年前である。この頃は肥前鳥居から明神鳥居に移った時代で、石工は平川徳兵衛安明で砥川の石工集団の1人であろうといわれている。 願主は、見得寺住山単誉とあり、慶応4年(1868)廃仏毀釈まであったとされる、島崎の見得寺住職で宮司は専了とあり、来迎寺の寺の僧侶と思われる。 砥川石工集団活躍の時代は、元禄の初め(1688年)から宝暦(1764年)頃までで、石工の組頭は(平川)武富、永石、陣内。
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来迎寺の伽藍さん
伽藍(お寺のこと)さんは昔、来迎寺の寺だったところで、現在のお寺より大分離れていて詞を御堂内に祀ってあり、現在はこれだけになっている。
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金立町の肥前鳥居
金立神社の肥前鳥居を含め、金立町内には白髭神社の鳥居のほか3基あると思われる。 肥前鳥居は、天正時代(1573〜1592)に始まり、慶長年間(1596〜1615)と寛文年間(1661〜1673)に集中的に作られたといわれており、延宝年間(1673〜1681)をさかいに明神鳥居に移っていったとされている。
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三嶋弁戈天祠
旧観音寺和尚慶舜はかねて三嶋弁財天を信仰していたので寺の境内近くの塘のほとりに石の祠を建て勧請したもの。現在も大門、金立の村祭りには毎年12月中に七五三縄を張り、御供を献して祀りつつある。又この祠のほとりに観音塘があり水利と景観を添えている。
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酒呑地蔵
金立町大門の中程より東へ約100m入った所をさらに畑の小道を登った小高い台地に等身大の石仏が祀られている。これが通称洒呑地蔵といわれ、酒を供え拝めば熱病をさますといわれ、往時は、無病息災の願望がかけられていたものと思われる。今日では時勢の推移につれて拝む人はまばらというが、過日写真撮影に行った時は御供物・御花などきれいに並べてあり観音様の着ているよだれ掛けなど新しく取り替えられ今日まで祈り続けた庶民の心情が偲ばれる。
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高麗人塚
金立町大門の入口附近、観音寺塘の北側の田圃の西北隅にあり。 元は直径56mの円墳であったが附近を耕やす人々が何時の間か削り取って現在は小さな円形の土盛となっている兎に角この円形の墳の前方に2基の石碑(墓石?)が南面して立っている。2基とも自然石の一面を加工して建てられたもので、1基には「逆修朝鮮国工政大王之孫金公之立石」と刻し右側に「寛永六天巳己道清禅定門」左側に「妻女同国金氏妙清禅定尼八月日」とあり。 他の1基には「暁月浄雲禅門 位」と刻し両側に分字して「寛永五年戊辰九初五日」とあり。 惟うに前者は夫婦者で後者は独身者であったろう。 地区では高麗塚と言い伝えるのみで記録等残らず、只寛永初年の死である所から按ずると2基に葬むる人々は文禄の役に出陣した鍋島直茂公高麗より連れ来れる陶工の一部であること間違いなかろう。又鍋島直茂公は領内の城の附近で焼かしたという記録から見るも一部の陶工は此地に窯を設けて陶器を焼いたものを推定される。 附近にある窯跡らしいものがあり更に金刀比羅山の西部にある小高い山を朝鮮岳と呼ぶ山は昔高麗人の陶工はこの山の陶土を焼いていたと古老の間に言い伝えられている。
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熱冷まし地蔵
地蔵菩薩は、観音菩薩とともに、最も庶民に親しまれ信仰されている仏である。 地蔵は、六道(天上、人間、修羅、餓鬼、畜生、地獄)の衆生を救い、極楽に行ける力を貸してくれると信じられた。また、近世になると民間信仰と結ばれ、火防、盗難除、病気平癒など庶民のあらゆる願いを叶えてくれる仏として祈願されるようになった。 この地蔵は、通称熱冷まし地蔵といわれ、お供物をし、祈願すれば熱病を治すといわれている。往時は、無病息災等の願望がかけられ、近郷の人々の詣出る姿が多く見られたが、今日では時勢の推移につれて拝む人もまばらとなった。しかし、いつも御供物、御花などきれいに並べてあり、今日まで祈り続けた庶民の心情が偲ばれる。
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五丁の地蔵さん
寛保3年(1743)建立で、「いぼ地蔵さん」とも言われている。 昭和5年、光を放つ別の地蔵さんが、横の河川から発見され、この頃からお供えの御水、胸かけを受け、誓願すれば万病に効くと伝えられており、現在も県外からの参拝者が来られている。 昔は、JR伊賀屋駅で下車して、多くの県外の人がお参りに来られて、列をなしていたと言われており、地蔵さんの前には多くの店が出て、地区では旅館作りの話も持ち上がったと言われている。 地区の人々は、米とお賽銭が混在して奉納されるため、仕分が大変だったと伝えられている。 現在も年に3回氏子による祭りが続けられている。
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疣取り地蔵
金立町野田の諸岡氏宅入口付近に疣取り地蔵の六地蔵が祀られている。 地蔵山とも言われて、4畝位の金立町野田地区共有の小高い山林に祭祀されて大切にされていた。 また、他地区の人たちも疣取り地蔵さんと崇めて、お参りされていたようである。 あるとき、誰かがこの六地蔵を持ち出して自分の屋敷内に祀ったところ、疣がたくさん出来たため、慌てて地蔵山に戻してお詫びをしたところ、疣が直ったという謂れもあるそうである。 地蔵山は、戦後諸岡氏が購入して屋敷となっているが、野田地区で小さな御堂を建てて祀られている。碑文や願文もないため、過去のことはわからないが、昔医者がいなかった時代の生活の一端が垣間見えるようである。
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大星隈
大星隈とは現今の西隈一帯の名称で当地は往古は古墳時代に古墳群を形成し、徳川時代には神社とか菴とか何屋敷とかが散在していて、精神文化の一角を受持って来たものと言うことが出来ると思われる。葉隠論語の完成期は此の地の大星菴に篭る山本常朝先生と権現原に住む田代期酔先生の努力によるものと思われる。
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金立町内の遺跡分布
金立町内には、すでに発掘、調査等で判明しているだけでも20個所に及ぶ古墳群や、遺跡が存在している。知られているもの、知られていないものを、次に一覧してみると 1 西隈古墳 2 権現原遺跡 3 銚子塚古墳 4 三郎山遺跡 5 長尾遺跡 6 大門西遺跡 7 北山遺跡 8 大門遺跡 9 小坪山古墳群 10 六本黒木遺跡 11 乱斗山古墳群 12 大門古墳群 13 黒土原古墳群 14 来迎寺遺跡 15 三本黒木古墳群 16 三本黒木窯跡 17 久保泉丸山遺跡移設地 18 金立開拓遺跡 19 金立開拓かめ棺遺跡 20 五本黒木丸山古墳 この外に、金立町内には無数の古墳や遺跡が存在しているが、その全ぼうは明らかではない。
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大門遺跡
字大門にある、金立山のふもとで、標高60m前後の低い丘陵地にある複合遺跡である。 金立川、巨勢川、上流の小川を挟み、西方には大門西遺跡がある。昭和47年に2次にわたる調査が行われ、縄紋時代前期・(曽畑式)。後晩期の土器・石器・土製品、弥生時代のかめ棺墓や時期および性格不明の配石遺構が検出された。縄紋時代の遺構は、かめ棺墓によって破壊され、石斧・石錐・石さじ・十字形石製品・石錘・磨石などが出土している。 深鉢形土器2個が4mほど隔たって埋置されていたが、これは、かめ棺として使用された可能性もあると考えられている。 弥生時代のかめ棺基(16基)は、中期前半から中ごろにかけてのもので、いずれも水平に埋置され、副装品をもつかめ棺はない。 15基のかめ棺から、人骨が発見されている。
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大門西遺跡
金立町字十一本杉あたりにある遺跡 金立山ろくから佐賀平野へ向って延びた舌状丘陵の基部・標高40mにあり、弥生時代前期末の集落跡と古墳16基からなる複合遺跡である。 縄文時代各時期の土器片が出土している。 遺構としては晩期のかめ棺墓と土境など各1基がある。 弥生時代の遺構は、前期末のもので、竪穴式住居あと4棟、貯蔵穴27基、その他の竪穴2基がみつかっている。 住居あとの平面形はいずれも円形で、直径3〜5mの小規模のものである。床面には炉あとや排水溝などはない。 柱穴の配列は、かべぎわに5〜7か所円形に配置されたもの4つを方形に配置するものなどがあった。 古墳16基のうち5世紀代の石棺系石室3基、竪穴式石室2基と6世紀未から7世紀前半に築造された横穴式石室7基に大別される。 横穴式石室古墳からは、須恵器の量が豊富で、馬具・鉄器・装身具額・土師器などが出土している。
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東名(ひがしみょう)遺跡
史跡
東名遺跡は、今からおよそ8,000年前の縄文時代早期の遺跡で、国内最古の湿地性貝塚です。遺跡には居住域・墓地・貝塚・貯蔵穴がセットで残されており、縄文時代のムラ全体の様子が良くわかる国内でも数少ない例として貴重なものです。 また、縄文海進の影響で、遺跡全体が厚い粘土層に覆われるなど保存条件にも恵まれ、国内最古級の様々な遺構・遺物が良好に残存しており、日本の生活文化の源流を考える上で極めて重要な遺跡です。
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道祖神との習合
<道祖神> 悪疫などをふせぐために各地の村境に造立された道祖神は、交通安全の意味を加えるとともに、人の一生を旅にたとえて、妊娠、出産、幼児守護、良縁、和合、性病の神として性格をももつようになった。男女の生殖をとおして、生産神、田の神、山の神的性格をもつなど、その発展変化は複雑である。信仰自体は古くからあったが、石造道祖神は江戸時代のものがほとんどである。 長野・群馬方面には、男女の神が肩をならべたり抱擁した双体道祖神が集中して分布している。安曇野一帯(長野、穂高町)は、さまざまなポーズの双体道祖神が分布し、あきさせない。塞神もほぼ同じ意味をもっていたものであろう。 民間信仰は、歴とした宗教ではなく、またその指導の立場にある人も宗教家でない場合が十の内八、九以上に上るのであるから、誤解や無智から種々の混乱の起こるのは当然であるし、時には第三者から見て解釈に苦しむこともまれではない。そこにまた、この方の研究対策の面白味もあるのだが、根が御利益と交歓を目当てにするものであるから、解決は思いのほか簡単な場合が多いようにも思われる。 さて庚申塔が他の神仏と習合する例の中で最も多いのは、道祖神であろう。これは庚申の申と、道祖神は猿田彦だなどという俗説に由来するものかとも思われる。 その手近な例は、東京都文京区小石川の牛天神の境内にも見られる。これは高さ134㎝、幅44.5㎝を算する棹石に、道祖神と3字を彫り、その下に三猿を浮彫りにしたものであるが、笠石まで入れた全体では212㎝ばかりとなる。猿の下に、陰刻ではあるが牝牡の雛と1羽の雛とのあるところが面白い。年号の刻んでないのは惜しいが、塔の左右両面に、寄進についた者の姓名が、十幾つか刻んであるが、そのいずれも婦人である。姓名ははなはだ浅い彫刻なので、よほど丹念に調べて見なければ判明しないのも残念である。 この塔は、明治か大正時代にここに建立されたものらしく、『江戸名所図会』(12)にある牛天神の絵には、この位置に揚弓が措いてあるから、昔からのものでないに相違ない。 牛天神の社殿は戦災で焼失し、その後再建された模様であるが、塔は全く無難で、依然雑草の中に立っている。ただ時に応じての変化は、笠の上の擬宝珠が、あることもあり、ないこともある。
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金立鉦保存会浮立
浮立が奉納され始めた時期は不明であるが、五穀豊穣や無病息災などに感謝するために、毎年11月3日に金立神社に奉納されている天衝舞浮立である。 昭和14年から55年までは奉納を中止されていたが、地域の人の努力により、昭和56年から再開されている。 11月3日当日は、金立神社に浮立を奉納し、その後、大字金立地域の自治会関係者の家、希望される新築家や地域の中の神社(公民館を併設)を廻って浮立を奉納されている。 出演者は、小学生と中学生、鉦、こもやし(小太鼓)、笛の奏者で構成しているが、現在、小・中学生が少ないため、人の手配に苦慮されており、奉納を続けるために苦労がたえない。
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百手
鎌倉時代から行われていると言われているが定かでない。 「厄よけ」が目的の地域の行事で、毎年1月25日前後に行われており、鬼の絵に向かって竹で作った弓を歩射で射るのが特徴であり、鬼を打ち払うということで厄から逃れるといわれる、伝統行事である。
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千布浮立
千布浮立は、江戸時代末期の大干魃の時に当時の千布村の西原家・堤家・早田家を中心に全村あげて雨乞いのために金立神社に奉納したのが始まりとされており、西原家・堤家・早田家が市川の浮立や大和の浮立を千布村に持ち込んだものと言われている。 その後代々に渡り毎年「白鬚権現神社」に五穀豊穣・家内安全・無病息災・豊かで平和な生活が出来たその報恩感謝の御礼として浮立の奉納をし、それが伝承されて今日至っている。 また、金立神社大祭の「お下り」「お上り」の先払い浮立としての伝統ある浮立でもある。 現在、大太鼓と天衝舞を担当されている堤・早田両家は代々施主として受け継がれている。西原家の子孫は現在こちらに住んでいないが白鬚権現神社の狛犬はこの西原家の子孫によって奉納されたものである。 天衝舞浮立は県内から長崎県にかけて広く分布している浮立で、頭にかぶる大きな冠には左右に日月が描かれていて、天衝、天突、天月と呼ぶところからこの名がつけられたと言われている。 市内神野の掘江神社の社記によれば室町末期、弘治2年(1556)に掘江神社の祠官であった山本玄蕃が始めたとある。従って、天衝舞浮立は「玄蕃一流浮立」とも呼ばれている。 厳粛な神事浮立を残す地区では、口を布で覆い、足の動きにも、大太鼓の打ち方にも厳格な方式を残している。また、浮立の途中にお祓いがあったり、祝言のお謡いをうたうのが特徴である。 千布浮立は舞の途中で祝言のお謡いをあげるのが特徴で、この様式は現在も代々引き継がれている。以前はお祓いもあったと聞いているが、現在は舞の前にお祓いを受けている。 浮立の奉納は、11月3日の文化の日に行われている。