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[旧佐賀市][新栄校区]は17件登録されています。
旧佐賀市 新栄校区
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若宮神社
若宮神社には、若宮八幡宮(応神天皇)を祭ってあり、旧中折地区の氏神様として、深く信仰されている。縁起については、記録がなく詳らかではないが、與賀神社の古文書によると、今から3百年以上の昔から與賀神社の末社として祀られていたようである。 古老の言い伝えによると、旧中折地区には、鍋島藩政時代に下級武士たちが居住し、武士として奉公する傍ら百姓を営んでいたようで、武神として、また、五穀豊穣の神として祀ったのが、始まりと言われている。 また、こんな言い伝えもある。明治42年頃、政府の命令で全国の神社が整理統合された際、若宮神社は掘江神社に合祀された。ところが、その年8月に赤痢が大流行したため、氏子達は若宮八幡宮のお怒りではないかと恐れた。そこで氏子代表が、元の地へ移して欲しいと交渉したところ、政府の命令だから公然と渡すわけにはいかぬ。神殿の施錠を忘れて盗難にあったことにしようと、暗黙の了解ができた。 こういう経過を経て、現在地に神社を再興した結果、猛威を振るった赤痢の大流行も小康を得たという、エピソードもある。 なお、この例祭日は、従来まで旧暦の2月1日の桃手祭、6月23日の夏祭、11月13日の霜月祭がある。桃手祭では、「的射り」といって、藁で作った雄雌二匹の山犬を竹の弓矢で射る行事があり、厄払い、家内安全、地域の発展を祈願する神事が行われていた。また、旧暦では現代社会にマッチしない面があったので、與賀神社宮司、崇拝者、氏子等の意見を聞いて、昭和63年から、桃手祭を3月1日、夏祭を7月23日、霜月祭を12月13日の新暦で実施することに変更した。 現在の桃手祭は、竹の簀の子に白紙を張って「鬼」と書いた的を立て、これを竹で作った弓矢で射る行事に、夏祭は、祇園祭とも言われ、昔は子供達も大勢参拝していたそうで、豆を炊いて接待するなどの風習があったが、今は全く廃れて、ただ神事だけを、霜月祭には、自治会役員を始め、氏子、崇拝者たちが集まって、大きな注連縄を作って、拝殿の古い注連縄と取り替え、新しい年を迎えるための行事に変わりつつある。
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祝融山 天福院
曹洞宗(龍雲寺末寺) ○本尊 薬師如来 ○創立 元和元年(1615年)※ 開山演渓融音禅師、開山希伯瑞龐禅師、開基隨公宗正大姉 天福院の先々代住職(第二十七代)、渡辺鉄肝和尚は、日本初の養老院を佐賀に立てた事で知られている。 明治40年アメリカへ留学した鉄肝和尚は、勉学に打ち込む一方貧困者救済にも関わり日本に帰国した後、アメリカを見習って護国神社の南隣り(川原小路)に養老院を建設した。以来、その運営に心血を注ぎ、天福院との間を下駄の音高く往復する姿を見て、人々は「鉄肝さん」と呼び敬愛した。 寺の入り口にある「養老院」と書かれた大きなお墓には、養老院で亡くなった身寄りのない人々が葬られ、今でも手厚い供養が行われている。 また、この寺には「佐賀の夜ばなし」(「市報さが」昭和49年9月1日号、福岡博著)で語られている円蔵院物語の村了の墓がある。 佐賀市城南(現在の赤松小学校)の南にある圓藏院は、天文14年(1545)の正月、川上(大和町)と祇園原(神埼町)で、馬場頼周にだまし討たれた龍造寺家純、周家、純家、頼純らの菩提を弔うため、周家の未亡人慶誾尼が建立した曹洞禅寺である。 佐賀藩では、二代藩主鍋島光茂の時代に、龍造寺家と鍋島家に縁故の深い高伝寺、慶誾寺、静元寺、宗竜寺、竜泰寺、天祐寺、宗智寺の7か寺に特別の保護を与えることになった。しかし圓藏院は漏れていた。 そこで、圓藏院の時の住職村了和尚は、「龍造寺家一門の墓所のある圓藏院も、前の7か寺と同格に優遇していただきたい」と願いでたが、返事もなく、果たして光茂のお耳に達したやら、はなはだ心もとないありさまだった。 業をにやした村了は意を決し、鍋島一家が慶誾寺に参拝のとき、焼香台の下に身をしのばせ、光茂に「お願いでございます」と叫んで上訴状をささげた。 当時、直訴は重罪で、その場で捕らえられた村了は、八戸の天福院で処刑されることになった。いよいよ首を切られるとき、村了の形相はものすごく、検視の役人どもをにらみつけ、「村了の肉体はたとえ切られても、わが一念は切られはせぬ、いつまでも現世にとどまって望みを果たす」とのろいながら、首をはねられた。 丁度それと同時刻に、佐嘉城門を風のごとく通り抜け、玄関へ急ぐ僧侶があった。その格好は、切られたはずの村了和尚とそっくりであった。僧侶が本丸の玄関に立った瞬間、光茂の妾腹の子が火のついたように泣き出し、間もなく息絶えた。 このような不祥事が日ごと続き、夜は火の玉が飛ぶようになった。高伝寺の湛然和尚は、村了の助命を願い出ていたが、出家を処刑したことに抗議して、さっさと高伝寺を出てしまった。さすがの光茂もこの事件に驚き、圓藏院も先の7か寺と同様に優遇することとし、本尊として観世音仏を刻ませ、村了の位牌を納めてその霊を慰めた。 村了のおん霊にたたり殺されたといわれる庶子十人の肖像は、十仏と唱えられ、水ヶ江の宗竜寺に残っている。なお、村了の墓は天福院、供養塔は圓藏院に現有している。 ※『佐賀県近世史料第十編第二巻』p181、「龍雲寺本末御除地并無縁地破壊地差出帳」によれば、「当寺儀は創建年月不詳、開基演渓融音禅師隨心宗□(※正)大師三世暁岩和尚元和元年従龍雲寺退穏于当時、陽泰□(※院)様御帰依有之敷地弐段八畝御寄附被遊」とあり、元和元年は三世暁岩和尚による中興の年で、創建年は不詳とされている。
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祥雲山 廣福寺
曹洞宗(龍雲寺末寺) ○本尊 千手観世音菩薩 ○創立 寛永2年(1625) 開山傳國宗的禅師、開基不詳
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慈眼寺
臨済宗 ○本尊 薬師如来 ○創立 文明八年(1476)、 開山材用、 開基不詳
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五龍神社
往古当地方の豪族(一族36家)田中という長者が、広く商業を営み巨万の財を蓄え、常に大船を浮かべて各地と通商、大陸とも交易しまわったために、海上の平安を祈り龍神を信仰していた。 ある夜、霊夢によって村の西方の西河水中から危難除去の守護神の黄金色の霊石を得たから、村の西隅に一祠をたてて五龍社と称して一族の繁栄福祉を祈った。これすなわち、欽明天皇26年、西暦564年(※1)のことである。 これを聞き伝えた里人も大いに感じ、鎮守の神として崇敬するようになった。のちに與賀神社の摂社となり二の宮と称せられた。元和年間(1615~1624)藩主鍋島直茂が(※2)親しく参拝し、社殿を造営し、祭祀料並びに修復料として八戸村の田地、四町八反を奉献し、境内に松、杉、楠一千本を植栽し、続いて勝茂の代には家臣多久長門に命じて七社明神を配祀して、藩政時代には神事祭典の儀は八戸宿及び八戸村にてすこぶる盛大にとり行われた。明治6年村社に列せられた。当神社付近の水田には古代土器(素焼き)の破片が広く、また数多く散逸しており、繁栄していたであろう古代社会の様子がしのばれる。 また当社南側に小さな土祠あり、ご神体引き上げに使用した縄等を納めた所と伝えられている。(祠名に南無阿弥陀仏とある。) ※1欽明天皇26年は西暦565年 ※2『佐賀県近世史料第10編第4巻』(佐賀県立図書館、平成28年)掲載の「八戸村五竜大明神縁起記」の解題によれば、「当宮を崇敬していた鍋島直茂室(陽泰院)が元和年中に信州太守(勝茂)建立を願った。社殿修復のため八戸村で四町八段の点役米が免除された。」とあり。
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八戸城址
古来より八戸村の住民には、ここには昔、城があったと伝えられてきたが、今ではあまりに発展し、変わりすぎているのでその面影は感じられない。 しかしながら地元住民にいまだに伝えられている城堀(じょうぼり)、館の内(たてのうち)、出口(でぐち)等の地名呼称の場所及び、今に残る掘割や古図面等から推察するに八戸氏菩提寺龍雲寺を含めた八戸村(本村)と呼ばれていた。現在の新栄西、新栄東にまたがる、一部であると思われる。
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新栄子ども樽太鼓
新栄子ども樽太鼓は、昭和63年(1988)2月に発足しました。子どもたちが、穏やかにすくすくと育っていくことと、ふれあいのある町づくりのために、校区内の小学1〜6年生を中心に結成され、毎年市の行事だけでなく、県外の行事にも佐賀市を代表して演奏を披露してきました。 公民館をはじめ、地域の人々の理解と協力によって、校区の特色ある芸能として活躍しています。
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お日待ち
八戸では、この行事を毎年1月23日と12月23日の夜から青年行事の一つとして行ってきた。昭和15年生まれの青年までかかわり合って昭和30年代後半まで行われていたが、青年会員の減少により自滅してしまったのは残念である。 1月の「お日待ち」は、農作物に対して「天照り」(太陽)が程よく照り輝き豊作するよう祈りをこめる。12月は、豊作に感謝を捧げるお礼の祭りであった。 その日、餅をつき氏神様にお供えした後、お神酒をいただき、お供え餅でぜんざいを食べ、その夜は青年会場に合宿し、農作や、よも山話をしながら寝につき日の出を待つ。午前5時起床。約1㎞の所にある大坪という泳ぎ場まで素足で霜や氷をついて走り、フンドシで寒中水泳(みそぎ)をし、身を清め氏神様、まわりの神様に祈りを捧げ、感謝をこめる行事であった。 佐賀平野の農家の行事で、稲刈りが済み収穫の感謝を込めて、農作物に一番大事な、お天道さん(太陽)に感謝するお祭りで、農家は農作業を行う上で、雨が降り続けば「雨ばっかり降って」と言い、また反対に日照りが続けば、「雨は何時降っちゃろうかー、天道さん(太陽)の恨めしかー」等と言って、天気に対し一年中不平、我侭な事ばかり言っているので今日一日は、てんとうさん(太陽)を休ませて感謝をするお祭りです。
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お念仏
深町では、彼岸から彼岸まで天神社で鉦をたたいて毎日安全無病息災祈願が隣から隣に順番制で行われていた。
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春分の日・秋分の日
八戸では、戦死者の墓に毎年春分の日と秋分の日、婦人会で手わけして墓そうじと墓参りをしていた。平成19年頃までは遍路さん接待とかねてやっていた。現在、春分の日には校区内および旧八戸地区で戦死された方々の戦没者慰霊祭を又、秋分の日には旧八戸地区で初盆を終えた物故者への慰霊祭を三ヶ寺持回りで実施している。
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新栄浮立
八戸の五龍神社の秋祭りは、10月20日に行われ、玄蕃一流の浮立が奉納される。笛太鼓のお囃し浮立に合わせて踊り、神の御心を慰め、五穀豊穣、悪病退散の祈願をこめて舞う姿は質実剛健そのものであった。 昭和35年頃までの浮立役者は、 笛…………3人か4人、紋付羽織、横笛3本。 大太鼓……1人、わらじ、きゃはん、てんじくを身につける。 大太鼓の助手。 鉦…………15人(壮年)、しゃぐまを被りハッピに黄の帯をしめ、きゃはん、わらじを身につける。 もりゃーし…(踊り子)30人以上で、こどもや娘でお揃いの衣服、ぞうり、花笠、小太鼓を身につける。 銭太鼓は小学生が行っていた。 長老………2人、紋付を身につけ、お謡をあげる。 さいりょ人(世話役)…3人か4人。 また、青年の離村、その他で保存は危ない現状にあり、浮立(笛・鉦・太鼓)だけだが、かろうじて存続していたが、平成4年新栄小学校の創立20周年を機に復活した。
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お篭り(水祭り)
与止日女神社参り(八朔参り)のあった夕方に各家庭で沢山の料理を作り各家庭で三々五々権現社に集まり会食が行われ、夜遅くまで語り合い隣近所の親睦会が行われていた。 戦争が烈しくなり食料も不自由になり参加者が減少し自然と廃止になった。 現在は、毎年9月の第2日曜日に地区の代表数人が、水の恩恵に感謝するため与止日女神社に参拝後、地域の方々が五龍神社に参拝し、水祭りの行事が行われている。
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深町のクスノ木
所有者は八戸区で、クスの木は安房社境内にあり、樹齢約500年以上の巨木である。
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戦国領主の八戸氏
古い歴史書によれば八戸氏は祖先高木氏の流れである於保氏より出で、佐賀郡八戸村の村名を取って八戸氏と称した。 龍造寺家兼の娘婿であった胤宗(八戸右エ門太夫)の孫八戸下野守宗睗の頃隆盛を極め八戸、新庄、津留、諸隈、益田、木角、成導寺等佐賀市西部を支配していた。妻は龍造寺隆信の姉ながら、山手の方の神代氏と同盟関係にあり、常に龍造寺軍と争っていたため、弘治3年(1557)元旦、龍造寺軍に攻められ八戸城は破却された。 城主宗睗は神代氏に逃れ、大友宗麟との戦い(今山の戦い)で大友側につき敗れた。この時、傷をおいこの傷のため杠山で落命し、清流寺に葬られたと伝えられている。 宗睗の息子八戸助兵衛宗春は、隆信公の母慶聞尼の命乞いにより助けられたが八戸姓を許されず山本に姓を変えさせられ、後に鍋島家の家臣中野家から養子を迎え(山本神右エ門)その子が山本常朝(葉隠の口述者)とされている。 よって山本常朝や八戸一族の墓、神代家の子孫の墓等が八戸氏の菩提寺龍雲寺に見られる。また八戸家の墓が天福院でも見られる。
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西久保弘道
文久3年(1863)5月、鍋島村(現在の鍋島町大字八戸坂井)に生まれる。 明治28年(1895)東京法科大学を出て内務省に入り、愛知県事務官、石川県警部長、山梨、静岡、茨城、滋賀各県の内務部長を経て福島県知事となり、次いで土木局長、北海道長官、警視総監等を歴任された。その後、貴族院議員に勅選され、大正15年(1926)には東京市長に就任し、昭和2年(1927)に辞任された。 また、剣道は無刀流の範士で、武徳会副会長として大いに武道を振興された。愛郷の念に富み、常に後進の指導に当たられた。 長崎本線の鍋島駅の新設は、氏の尽力の結果と言われている。
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森広次
明治24年八戸生。37年青藍校卒業後通信教授国民中学校に入学し、農業の傍ら新知識の修得に努力し、農業特に酪農の開発と振興に献身した。其の間、村農会総代及評議員、村会議員、農協監事、大井手土地改良区総代、村畜産組合評議員、郡市酪農組合監事、市中央酪農監事、県経済連牛乳工場運営委員、県酪農組合連合会副会長などを歴任し、ために鍋島村長、佐賀市長、県知事、郡市畜産組合長、大井手土地改良区理事長などから表彰状を受け多年の村治、産業特に酪農に対す功績をたたえられた。昭和12年当時物資不足にて特に母乳不足のため空腹に泣く乳児が多く、ために鍋島村の乳児死亡率が佐賀郡下で1−2位の高率にあることを知り、その対策として乳牛飼育の必要性を痛感し、東与賀村から9頭の乳牛を導入した。その鋭い感覚と人道的で新鮮な着想とには深く敬服するものであり、彼の鍋島酪農の先駆者としての功績は甚大である。
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田中長者
今から1400年ぐらい前、八戸村に貴族田中という長者がいた。この長者は、広く商業を営んでおり、大船にのって各地方と通商していたので、いつも海上安全を祈るため海の神様を祀り信仰していた。 ある夜、夢の中で海神が西方の河中に、海難除去のお守護神である石があるとお告げされたので、探してみると黄金色の霊石がでてきたので、村の西のすみに祠を建て祀ったという。それを村人が聞き、鎮守として崇敬するようになったという。今も田中道とか田中長者の屋敷の名が字一本杉に残っているが、現在では、八戸に住んでいる者でも知らない人もいるくらい会社や病院がたっている。