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[旧佐賀市][ 碑]は50件登録されています。
旧佐賀市 碑
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陸軍「第55聯隊記念塔」
昭和29年に結成された「55会」(55聯隊出身の有志の会)の手によって、昭和33年4月建立された記念碑であり、現在も建立当時の姿のままで建立後50年余を経過し、周りの樹木が大きく成長し、生い茂っている。 また、記念塔は長い年月風雨にさらされ、苔生して、石碑正面の「55聯隊の略歴」等の文字は、判読し難い状態となっている。 高木瀬町史(113~116頁)には、建立の経過等が記載されている。 記念塔の台座石正面には「55聯隊の略歴」が刻まれている。 「55聯隊」等陸軍施設の推移を高木瀬町史(96~108頁)から一部抜粋すれば、 明治41年~大正14年5月・・・「陸軍歩兵第55聯隊」配置される。 大正14年5月3日・・・・・・・「陸軍歩兵第48聯隊 第三大隊駐屯」 その後・・・・・・・・・・・・・「陸軍歩兵第48聯隊 第三大隊駐屯」が久留米へ移駐 昭和10年頃・・・・・・・・・・「高射砲第四聯隊」が設置される。(同年10月号の「佐賀 県人会報」に、当時の県知事が喜びの談話を掲載) 高射砲第四聯隊のその後の経過・・不明 昭和18年4月~終戦当時まで・・・・・・「電信第二聯隊」が移駐 ※記念塔は2019年に総合体育館西側駐車場へ移設している。
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戦没者の慰霊碑
戦没者の慰霊は、若楠校区が誕生してからも、従来のように高木瀬町で慰霊祭が行われている。高木瀬小学校には忠魂碑がある。 (高木瀬小学校にある忠魂碑の歴史) 大正11年3月建立された忠魂碑は、戦後間もなく、進駐軍に発見されないよう高木瀬小学校の西側に、秘かに埋められていた。 戦後、独立とともに昭和27年再建された。 (高木瀬町史) 昭和28年4月、村内有志者によって再建された忠魂碑では、毎年公民館主催で慰霊祭が行われていたのが、昭和52年から各種団体で実施することになった。 平成10年度の資料によれば、市からの助成一柱340円で、263柱、8万9,420円、高木瀬校区から20万円、若楠校区から10万円、その他祝儀などの予算で遺族全戸に案内、慰霊祭を執行している。 なお、平成10年、忠魂碑の毀損がひどくなり危険な状態になったため、高木瀬・若楠校区内の一般から募金を募り、修復を行った。 平成13年からは、自治会で実施されている。
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佐賀の馬鉄
愛右衛門橋のすぐ南側が「馬鉄道の停車跡」になっている。現在、吉原病院の敷地内に「記念碑」が建てられ、その記念碑には次のようなことが記されている。馬鉄(馬車鉄道)はレールの上の客車を馬が引く輸送方法である。佐賀の馬鉄は明治37年(1904)2月に佐賀馬車鉄道株式会社が発足し、本社および車庫を水ヶ江のこの地に設け、明治橋(現在の馬責馬場)から諸富まで、幅2尺6寸(約79cm)の軌道が敷設されたのが始まりである。明治31年、佐賀セメント会社の創業により交通の便をよくすることも考慮された。明治37年10月に開業し、明治橋、諸富間の全線を10の区に分けて営業したが、翌年には水ヶ江から県庁前、御幸橋を経て佐賀駅前まで路線を延ばした。佐賀駅から諸富までの所要時間は約1時間余りで「諸富国道ガー夕ガタ、馬場に乗ればツーツラツー、はよーねんねんしんしゃいの」と当時の子守唄にもうたわれた。大正元年(1912)神野、川上間の川上軌道が設立された。同年8月には佐賀馬鉄と合併して佐賀軌道株式会社と改名した(※)が、昭和12年(1937)には全線がバスに変わったと記されている。なお、この記念碑は吉原病院院長吉原正智先生が私費で建立された。 ※合併は大正8年8月(『鉄道省文書 佐賀電気軌道 三巻』国立公文書館デジタルアーカイブ)。大正15年(昭和元年)には馬力からガソリンへの動力変更願を出しており、昭和3年には馬鉄自体は終了した。その後昭和12年に全路線がバスへと移行している。
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佐賀の役招魂碑
明治7年佐賀戦争で戦死や処刑された江藤新平、島義勇ら216柱を弔うため明治18年に建てられたものである。明治6年司法卿当時、征韓論を唱えて下野した参議の江藤新平は佐賀に帰り、征韓党を組織した。また秋田県令島義勇も職を辞して佐賀に帰り、憂国党を組織した。ともに征韓論を強く支持し、勅許を得ようと動きまわった。一方政府は佐賀の不平士族を鎮圧するため岩村通俊を佐賀県令に任命。岩村は熊本鎮台の兵を引きつれて入城した。これに刺激された両党士族約5,000名が政府軍と相対した。2月16日戦端は開かれ攻防10日余佐賀軍は敗退した。毎年4月13日、佐賀戦争の戦死者の霊を祀って慰霊祭が行われている。
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佐賀師範学校跡記念碑
【記念碑】 育英の道に志し 青春の夢を抱きて 集い来る朋有り 佐賀県師範学校 佐賀県女子師範学校 佐賀青年師範学校 佐賀師範学校 佐賀大学教育学部 同窓会創設八十周年を 記念して思い出深き 佐賀師範跡をここに建つ 昭和四十二年十一月 有朋会 ※写真は改修前のもの。2020年に佐賀大教育学部の同窓会、有朋会が同窓会設立130年を記念して改修された。
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殉国十三烈士の碑
明治7年の佐賀戦争は、われわれ先人が近代日本建設の途上征韓論に端を発し、国を愛する真心と民権尊重のためのやむにやまれぬ戦いであって佐賀軍の敗北に終わった。戦後の処分は有無をいわせぬ即断裁判によって過酷を極めた。維新政府の功臣だった江藤新平、島義勇の両首領は、さらし首の極刑に処せられたのを始め、征韓、憂国両党の幹部は悉く斬首され佐賀城内の露と消えた。この中にはまだ26歳の香月経五郎、27歳の山中一郎ら若い逸材もいた。この二人は江藤門下の双璧として将来を嘱望されている人だった。その血を吐くような辞世「天道非か是か。涙、泉のごとし」と。この13烈士が長命を保ったとすれば、明治以降の近代化や社会政策の発展に大いに寄与したものと思われる。徹底した佐賀の弾圧は「佐賀県」の誕生を明治16年まで遅らせ、小城の松田正久が自由党をつくったといっては解散を命ぜられ、明治14年の政変では大隈重信が議会設立をもくろんだといっては失脚させられたりした。佐賀戦争を見直し13烈士の国を愛する情熱を顕彰することによって、青少年の健全育成に役立てようとの願いをこめての碑である。後年、明治天皇の御聖断によって賊徒の汚名が消され、大正5年に江藤、島両氏の生前の功績に対し、特別に爵位の恩命があった。 江藤新平 正四位 島義勇 従四位
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蒼海伯副島種臣誕生地
幼名次郎。体弱く引込思案。父佐賀藩士枝吉種彰(南濠)。藩校弘道館教授。国学者(経書、詩文)弘道館宝蔵院槍の指南役の武人。兄枝吉経称(通称、李之助。号、神陽)は水戸の藤田東湖と並び称される。種臣は次男、号、蒼海・一々学人。18歳の時、副島利忠の養子となり改姓。生家は現在取り払われ、その地には佐賀県福祉施設が建っている。敷地内に「蒼海伯副島種臣誕生地」と刻まれた巨碑が建てられている。 幼少の頃、恵まれた環境に育ち藩校弘道館ではクラスで首席。2万巻の書物を読破の優秀児。父の感化もうけ、兄神陽の烈しい勤王思想の感化をうける。江藤新平、大隈重信、大木喬任と「義祭同盟」を結んだ。長じて藩命により上洛し皇学を修め諸藩の志士と交流した。幕末動乱について論議し「一君説」を唱え若くして尊王攘夷運動に投じ、将軍宣下の廃止を進言し討幕論の先駆者となった。明治維新にはよく藩主を助け重きをなさしめた。元治元年(1864)種臣は大隈重信などとともに、藩主鍋島直正の許可を得て長崎に「致遠館」という英語学校をつくった。教師にはアメリカ人の宣教師フルベッキを招き、外国の憲法、新約全書を学ぶかたわら漢訳国際法などの研究にはげんだ。慶応3年(1867)鳥羽伏見の変が起こったとき長崎奉行は逃亡し、一時長崎は無政府状態となった。この時各藩の有志に推され、各国領事に維新の意義を説明し、長崎港を管理するとともに関税もとどこおりなく納めさせた。 これが種臣を新政府へ出仕させるきっかけとなった。新政府が組織された時、佐賀藩士で只一人最高地位を得、参与となった。政体書の起草、官制立案、新律綱領立案等の法典編纂に当った。次いで参議、その間外交使節として樺太境界線問題を解決し、明治4年には渡欧の岩倉具視にかわって外務卿に就任した。翌年、ペルーの商船マリヤ・ルーズ号がマカオから清国人奴隷200人を乗せて横浜に入港した。種臣は人道上許されないとして、職権で船を抑留して解放させた(奴隷解放)。この処置に対して、ドイツ、フランス、ポルトガルの政府は日本政府に抗議し国際問題となったが、結局は日本の処置が勝利し種臣の勇気ある行動は高く評価された。また、大使として清国に派遣されたとき老獪(ろうかい)な李鴻章との応酬機宜をあやまらず、琉球問題にも敏腕をふるい、日本外交の礎を築くとともに国威を発揚することができた等、数多くの逸話が残されており、その外交手腕は外国高官の高い評価を受けている。明治6年征韓論によって廟議が分裂した時は、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らとともに民選議院の設立に名を連ねたが、自由民権運動には参加せず3年間中国を漫遊し、李鴻章と旧交を温めるなど日中友好に力をそそいだ。明治11年中国から帰国した種臣は、明治天皇の信認によって宮内庁御用掛兼明治天皇の一等侍講に任じられ、天皇に内外の情勢などについて講義し厚い信任をうけた。 しかし宮中のしきたりや格式などに嫌気がさし、病気を理由に辞意を表わし引篭った時、天皇から直接宸翰(手紙)を賜った。当時、侍講には多くの学者がいたが、いかに信頼を受けていたかがわかる。また種臣がいつも清貧に甘んじているかを知らされた天皇が侍従を遣わし、2万円を種臣に御下賜になった。種臣は天皇の温かい心に感激の涙を流しながら「天皇は万民を平等に愛し給うのが本当の姿で、1個の私を愛し給うものではない。今、国内には天災などで困っている人も多いので、できればその方々に差上げてほしい」と、これを辞退した。種臣の高潔寡欲恬淡(こうけつかよくかったん)は明治政府家中、第1位といわれた。明治25年松方内閣の時、議会が混乱し流血事件が発生した。この危機を救うために高邁な人として種臣が内務大臣として選任されたが事ならずして辞職した。明治17年伯爵を授けられた。再び枢密院顧問官に任ぜられた。 【書家 副島種臣】 種臣は書家として明治時代の最高の一人である。種臣の書は1字1字全身全霊がこめられており、気品に富み人柄が表われ、見る者に襟を正させる何ものかがある。現在佐賀新聞の題字は副島種臣としてある。 【詩人】 また、詩書にもすぐれ思いつくまま雄渾な筆で書きまくった。後の世俗を越えた雅趣が詩人以上の詩をつくらせ、書家以上の書を書かせたのではないかと思われる。 【質素と道楽】 種臣は生涯を通じ質素で食事も豆腐におから、ひじき、こんにゃくが好物で酒は飲まなかった。来客があっても貴賤の別なく十錢弁当を出すことにきめている。 ただ一つの道楽は相撲が好きで、力士を可愛がり借金をして化粧まわしを贈ったりした。明治38年1月病気になり天皇から特旨をもって桐花代授章を下賜され、ねんごろな見舞の言葉を賜った。死期が近まった種臣は力士に棺をかつがせるよう遺言し、同月31日にこの世を去った。葬儀の2月6日は大相撲春場所の最中であったが、横綱常陸山以下20人の力士が種臣の棺をかついだと伝えられている。墓は東京の青山墓地と佐賀市本庄町高傳寺にある。
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副田先生顕彰之碑(筑後川渡船転覆)
故副田訓導遭難殉職の状況 昭和18年10月9日赤松国民学校第6学年男女233名(男125、女108)は、松(男)組を副田美代次訓導、竹(男)組古賀俊夫訓導、梅(男女)組古川幸男訓導、桜(女)組横尾たつ訓導、桃(女)組古瀬マサ訓導の5名にて引率し、福岡縣柳河町に修学旅行の帰途、午後2時頃若津より渡河、第1回に松組(男)49名、竹組(男)17名、他に乗客7、8名と共に乗船出発す。石塚渡場を距る20m深所2.5mの地点に差しかかるや、満潮と多人数の為動揺し船より浸水すると見るまに船は沈みつつ2回にわたり顚覆す。急を見るや附近の船、警防団員数名救助に駈けつく。顚覆と同時に大部分の児童は顚覆せる船体にすがりつき、警防団員救助人に救助せられ、或は泳ぎ渡りたるもあり。 平素水泳錬達の副田美代次訓導は顚覆と見るや直ちに溺れんとする者の救助に当り、浮き沈みしつつある児童14、15名を岸近くまで「泣くな」と激励しつつ助け上げ、全身着衣の上に浪と戦い既に精魂つきたるも最後に「先生先生」と叫びつつすがりつく児童を救い流木にすがらせ、岸に押上げ、尚も流れ行く児童等を助けんと赴きしか身体の自由を失いしものか遂に水底深く姿を没せり。
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開拓紀念碑
(碑文要点) ○ 旧主家(坊所鍋島家)の困窮を憂いて旧家臣や有志が募金計画(事務長に南里忠次、各地の代表を委員とする)し、旧藩公より金員の拝借をして、若干の町歩の田地を購入する願書を作成した。 ○ 佐賀の家扶、中野致明にもとおして、代表が上京、東京鍋島家の家令・深川亮蔵に提出したが却下された ○ 特例として、蓮堀を拝借して堀を埋め開拓埋築の恩命があった ○ 代表が帰郷後、早速、開拓埋築工事に着手して、3年後の明治29年に田地3町5反余を得た ○ 負債の弁償、屋敷の修繕など、また、工事の苦労をたたえるために紀念碑を建てた (参考) ○ 坊所鍋島家は国家老で鍋島生三からはじまる ○ 旧領地は三根郡に坊所村ほか5か村、神埼郡9か村、佐賀郡3か村となる。地米高は嘉永7年(1854)2020石余
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楠の木おばさんの碑と大楠群
福田よしが54歳であった昭和25年(1950)に、旧佐賀城一帯の楠20数本が業者に売り払われ伐採されようとした時に楠の木の前にはだかり、「こいば切っないば、私を先に切らんかんた」と叫び、伐採阻止の行動を起こした。そして「楠保存会」を発足させ、佐賀県知事鍋島直紹氏には楠の木保存の重要性を訴え、県知事後援のもとに楠の木の保存のために奔走された。 佐賀城跡の楠群は、昭和28年(1953)11月3日、佐賀県天然記念物に指定され永久保存されることになった。また、県庁前に碑が建立され念願であった目的を達成することになった。 楠は、昭和29年(1954)に佐賀県の「県花」となり、昭和41年(1966)には「県木」に指定された。 昭和55年(1980)には、佐賀城公園西堀端に「楠の木おばさんの碑」が地元自治会で建立され、今後とも西城内で活躍され、西濠の水と大楠の緑の大群の景観を現在に残して頂いた福田よしさんを顕彰していかれる。
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種痘の先駆者、大石良英の墓地と記念碑
佐賀城本丸歴史館に掲げられるひときわ大きい絵図がある。「直正公嗣子淳一郎君種痘之図」である。佐賀藩主・鍋島直正公が、長男の淳一郎君(のちの直大公)の種痘に立ち会っておられる。 当時、天然痘が猛威をふるい、多くの人が亡くなった。このころ輸入された、唯一の予防法である種痘は牛の痘苗を接種するのであるが、それを嫌がる人が多かった。そこでお殿様みずからが、嫡子に種痘させ、江戸在住の息女、貢姫にも接種された。これが成功したことにより種痘は全国的に普及し、多くの人命が救われることになった。それは我が国の予防医学の先駆けともなったのである。 この種痘之図は全国的に有名であるが、この図で種痘をしている医師が大石良英である。 良英は佐賀県立病院好生館設立当初から教導方として医療の指導にあたるなど、蘭学医として大きい功績を残した。 願正寺には大石家一族の墓地がある。平成18年、県内の医療関係者を中心に墓地整備と、顕彰碑設立が思い立たれ、顕彰碑は参道に設置された。顕彰碑には日展審査員,成冨宏氏による「種痘之図」のブロンズのレリーフがきざまれている。
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勤皇僧、離蓋の顕彰碑
幕末の動乱の中、西本願寺は勤王の志あつく、朝廷を中心とした近代国家を築き、外国の圧力に負けない国造りに尽力した。 本願寺門主の意向を受けた、当時の願正寺住職は、寺役の僧、離蓋に命じ勤皇の仕事に当たらせた。 離蓋は寺内の密室で、勤皇の志士たち、すなわち、若き頃の副島種臣、大木喬任、江藤新平、島義勇、大隈重信などの会合に便宜を図り、また僧形で全国を回り、資金を集め、各地の動乱の中にあって情報を収集し、志士達の活動に協力をした。 明治維新により志士たちは立身出世を遂げたが、離蓋は一野僧に甘んじた。時の権力者になって、東京の築地に邸宅を構えた大隈重信に、「恩返しをしたい、一生、面倒を見たい」と頼まれ上京した。 そのころ、神道を国教とする政策がとられ、廃仏毀釈のあらしが全国を襲い、廃寺させられる寺が続出し、反抗した僧侶が死罪に処せられたりする事態が起きた。 離蓋は安逸の老いの身を投げうって、政府の高位高官の間を奔走し、この国家的迷走の非なることを言を尽くして説いて回った。その働きもあって、この嵐が沈静化した。離蓋は晩年、盲目となり、佐賀に帰り、願正寺のそばの家でひっそりと波乱の生涯を閉じた。 離蓋没後、顕彰碑建立の計画があり、碑の上部に、時の本願寺門主、明如宗主の「護国扶宗」の篆書が準備された。離蓋は護国すなわち明治維新の成立を助け、近代国家となって外国の侵略を防ぎ国を護ったという意味である。扶宗は宗、すなわち仏教を助けたという意味である。 また碑文は副島種臣伯の撰文で、離蓋が明治維新の成立と廃仏毀釈の鎮静化に貢献したことが述べられている。碑文そのものは中林梧竹の書である。しかしこの碑は、当時はついに建たず、昭和の戦時中に、時代の流れもあり、建立の動きがあったが、これも終戦となって沙汰やみとなった。 たまたま離蓋の没後120年を迎え、当時の碑文の写真原板が残っていたことで、三度目の思い立ちがあり、平成19年に顕彰碑が建立された。
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八田江改修記念碑
この記念碑は佐賀江川と大崎の八田江を結ぶ河道が完成したことを記念する碑である。 佐賀江川は佐賀平野の北部や佐賀市内の排水の役割を担っているが、梅雨時の大雨や台風の大雨で、度々その能力を越え上流に洪水をもたらした。 一方八田江も市内を回流した水を大崎から有明海に排水する機能としてきた。しかし泥土の堆積によって排水能力が落ち、台風による高潮で下流地域ではしばしば大きな被害を出してきた。 これらを解決するため、枝吉の佐賀江川と大崎を結ぶ河道を開削した。枝吉に水門を設け、平時は閉じ、雨量や川の水位を見て開閉して調整している。 しかし、現在のように排水設備が完成するまでは、佐賀江川上流と八田江下流の利害が対立し、水門の開閉をめぐって水争いがあったそうである。 昭和末頃の大雨時には川副幹部が、この水門を視察している姿も見られた。 なお、この河道を掘削した土は、龍谷学園西側の堀の埋めたてに使ったり、師範学校生徒の手による運動場整備に使われたそうである。
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ノルマントン号海難事故と中林梧竹筆、八谷種次郎遭難追悼記念碑
明治17年清国より帰国後4年目の中林梧竹が精魂を傾けて揮毫した碑である。 てん額、碑文とも同一書者という極めて異例の形式で、双方とも藩存直伝のてん隷技法を駆使して書かれたわが国近代書道上、本格的てん隷書の先声をなすものとして注目され、関係者の見学が多い。 海難事故は、明治19年(1886) 10月23日、横浜港から神戸港へ向かっていた英国籍の汽船ノルマントン号が、翌24日午後10時頃、和歌山県沖で暗礁に乗り上げ遭難した。一瞬にして、日本人乗客25名が船と運命を共にした。 八谷種次郎は、佐賀市蓮池町に居住し、裁縫業と靴製造業に携わり財力豊かな生活であった。父の意を受けて上京し十分修業をして、その帰途に遭難したが年29歳であった。 当時は、日本人乗客25名を船中に置き去りにして、船長以下の英国人が離船したことに対する国内世論が沸騰した。一方政府は、英国との間に条約改正の談判交渉中でもあったので、この事件の追及で、英国の感情も害しない周到な用意も必要で、政府は世論の沸騰と条約改正の狭間に立って苦境に追いこまれた。 とにかく、その後いろいろの経緯があって、同年12月8日に至り、船長ドレークは、自己の職責を怠り、日本人船客25名を見殺しにしたものと判決され、 3月の禁固に処せられた。 八谷種次郎の碑の碑文には、八谷種次郎は肥前の人なり。商工をもって裕国厚民の源となし、東京に至りて視察せり。帰付に及び、英国ノルマントン号の愉船のみ明治19年10月24日紀州洋に行き至り触礁沈没す。船長ドレークのなすところに因る。20余人と同じく難に及ぶ。時に年、29にして子1あり。哀れむべきのみなり。明治21年建。中林梧竹書 碑石質は、『透角閃石かんらん岩』で別名を『竹葉石』『斑石』または『笹石』『町屋石』とも云って、茨城県と熊本県の産で大変高価で珍石と云われている。
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成富兵庫誕生地
成富兵庫茂安は、永禄3年佐賀藩士成富甲斐守信種の第二子として、鍋島村増田(益田)百石に生まれた。増田地区の東北隅嘉瀬川堤防の中腹に誕生記念碑がある。茂安は資性勇武智慮深く、17歳のとき初陣に功を立てたのを初めとし、寛永18年(1641)病没するまで75年間今山戦はじめ大小幾十度の戦に従い武勲を顕した。後半は築城(熊本、江戸、大阪、名古屋)、土木、治水、干拓、塩田に精励し、民生事業に妙技を発揮し、藩財政を豊かにし余慶を後世に残した。東は筑後川堤防から西は伊万里海岸まで、佐賀平野各地に茂安の徳をたたえる記念碑や社がある。
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忠魂碑
鍋島町遺族会は、日露・日独戦争や満州・上海・支那事変・大東亜戦争において戦没された英霊を祭神として、大正13年10月鍋島小学校の一角に鍋島町郷友会の発起で忠魂碑が建設された。 ところが昭和16年勃発の大東亜戦争で敗戦となり占領下のもと一時倒壊のやむなきに至った。 戦後忠魂碑再建委員会が設けられ、鍋島町全域からの現金や奉賀米等の寄附により、昭和28年3月に再建された。当時の合祀者数300有余柱を祀り、遺族会は毎月開かれ献花清掃は地区当番を決めて、諸英霊のご冥福を祈り、年1回郷友会主催で合同慰霊祭が行われている。また、同碑の横に明治39年6月に鍋島村奉公会で建てられた日露役戦死者の碑も東新庄から移され忠魂碑の横に奉神されている。 昭和28年忠魂碑建設のための現金寄附は、20万2000円、奉賀米算額15万1000円で合計35万3000円である。(内、忠魂碑建設費は18万7000円)
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堤長定先生顕彰碑
堤長定は、嘉永6年(1853)植木で生まれ、血気盛んな21歳時に憂国少年隊に加わり、佐賀戦争の寒水川、田手川の戦で奮戦の記録が残っている激情家であった。 彼は、資性剛直、清廉潔白で教育事業に熱心であった。明治10年頃鍋島町内には蛎久、森田、東新庄など数ヶ所に別れて小学校があり、非常に不便であったので、一村一校の学校建設のため、東奔西走して、村民の同意を得て、遂に明治15年養成小学校(現鍋島小学校)を設立させた。 彼は、教員として、学務要員として、本村教育に貢献すること三十有余年不滅の功績を留め、大正13年72歳で逝去した。墓は蛎久天満宮の横にある。 古老の談によると、後半彼は、植木の自宅で水車を利用して精米業を営んでいた。さすが佐賀戦争の勇士らしく不屈の気概で鍋島教育界にきらめく星であった。 七賢人の島義勇の甥にあたる。
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中島哀浪歌碑
昭和23年に建立された中島哀浪先生の歌碑が妙福寺山門手前左側に建っている。 その歌は哀浪先生がこよなく愛した、 「かきもぐと木にのぼりたる日和なり はろばろとして脊振山みゆ」 が刻まれている。
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岡崎藤吉氏表彰碑
神戸を拠点とした明治・大正期の関西財界を代表する岡崎財閥の岡崎藤吉氏は、育英・社会福祉への念篤く、これらの事業に多額の私財を投じている。特に郷里佐賀への思いが篤く、旧制佐賀高等学校(佐賀大学の前身)の建設、佐賀市社会福祉施設の拡充、佐賀育英会の創設などに寄与し、巨額の資金を寄付された。 この「表彰碑」はこれらの厚恩に対し、時の佐賀市長野口能毅が大正9年(1920年)10月、佐賀市松原(現佐賀中央郵便局辺り)に建立したものであり、昭和32年(1957年)に神野公園へ移設された。その後、年月を経て、現地保存が困難な状況となったため、氏ゆかりの佐賀大学に移設建立の運びとなった。 本碑の移設に伴い、氏の志が学生をはじめ市民の皆様に受け継がれることを願うものである。 令和3年1月 佐賀市長 秀島敏行
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蒲池鎮並公外一行之霊碑
天文20年(1551)、龍造寺隆信は土橋栄益等より佐嘉の城を追われ肥前国から追放された時に柳川城主蒲池鑑盛より筑後国一木村に保護された経緯がある。後に、隆信は鑑盛の嫡男鎮並に娘を嫁がせ、鎮並は大友を離れて隆信と誼を結ぶ等、良好な関係にあった。 天正6年(1578)の日向耳川の戦いで大友が島津に敗北すると、義父龍造寺隆信の筑後国進攻に蒲池鎮並は全面的に協力した。鎮並との不仲であった蒲地鎮広と隆信との間に和議が成立すると、柳川の領有化を志向する隆信と対立するようになり、ついに野心を挟む姿勢をとった。 天正8年(1580)、龍造寺隆信は龍造寺政家に総勢1万3千の軍を率いさせ出陣、蒲池鎮並討伐のため柳川に向かわせた。抗戦する鎮並の陣も籠城300余日に及ぶも和を乞うてきた。鎮並は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦を結んだ。 天正9年(1581)、蒲池鎮並は密かに島津に通じた。鎮並は同国の西牟田鎮豊へ使者を送り、島津の老臣伊集院忠棟よりの状を見せ、島津へ一味あるべき勧めた。しかし西牟田はこれに同意せず、家人向井左京亮を伊集院よりの書札を携えて龍造寺に向かわせた。須古城に居た龍造寺隆信は鎮並が島津の影響下に入ることを恐れ、鎮並を討つべしと謀殺を画策した。5月20日頃、龍造寺は田原伊勢守・秀島源兵衛を使者として柳川へ送り、「昨年冬の和平以後、いまだ禮を受けず。近日佐嘉へ来られたい。然るに須古の新館にて猿楽を興行すべし、其許よりも猿楽の役者共を召し連れて来られたし」と述べた。この次第に対し、鎮並は病気と称して返答しなかった。田原は心賢きものであり、鎮並の母と伯父の蒲池鎮久へと働きかけ、隆信父子は何も別心はないと起請文を以って申し出た。母と鎮久はこれを信用し、鎮並もようやく田原・秀島と対面、承引した。 隔して5月25日、鎮並は伯父左馬大夫を始めとして、親類家人等200余騎、楽役を含め300余で柳川の城を出立した。これを聞いた家臣大木統光は肥前に赴くこと留まるよう諫言するも、蒲池鎮並は「早斯様に出立ちした上、今引き返すことは見苦しき。その上、天運全からば、縦令剣戟刀杖の中たりとも恐るるに足らむや」と馬を早めて寺井江を渡り、夕方には村中城へ着いた。そして龍造寺久家(政家)と対面、昨年冬の和平の禮を述べ、その夜は饗膳となり、鍋島信生(直茂)も同席した。終夜の酒宴が終わると鎮並等は、城北にある本行寺に宿を取り、翌26日は逗留した。須古城の龍造寺隆信は、土肥出雲神信安をして鎮並に酒肴を贈った。鎮並は悦び隆信に禮謝、その酒肴で出雲守を饗した。また、鎮並は出雲守を前に猿楽を踊って見せ、出雲守は明日の運命を思い落涙したという。 そして27日未明、本行寺を出立、須古城を目指し与賀の馬場を通ったとき、龍造寺の伏兵である小河信貫・徳島長房・水町彌太右衛門・秀島源兵衛・石井の一族らが、四方より一斉に鬨を上げて襲い掛かった。蒲池鎮並は歯噛みして伯父左馬大夫へ「口惜しき次第かな、我が柳川にて懸念致した通りであった。これも天運やも知れぬが、偏に御辺の勧めに依りて計略にはまったのであるぞ」と憤激した。左馬大夫はこれに何も答えず、謀られた怒りに血が上り、「我らに二心在らざる事、只今見給うべし」と言い捨て、与賀大明神の鳥居の前まで馬を駆け、「汚き龍造寺が仕業かな。おのれ、七生が間は恨み続けてくれる」と叫んだ。そして矢を二筋三筋放つと家の上に駆け登って散々に矢を射掛け、屋根の上から飛び降り烈火の如く戦い、堤左馬允と渡り合うも遂に討ち取られた。龍造寺勢は多大な被害を出しながらも173人を討ち取った。鎮並は一族家臣が討ち死にする隙に、小家に立ち入って沐浴した後、腹掻き切って息絶えた。この戦いの様子は今でも「川は血で真っ赤に染まり、骸は堀を埋めた」と語り継がれている。(参考:北肥戦誌) 写真は「蒲池鎮並公外一行之霊碑」(日蓮宗本行寺境内) 蒲池鎮並公外一行の霊を鎮めるために建立された。