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[東与賀町][ 行事]は45件登録されています。
東与賀町 行事
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名月さん
旧8月15日を芋名月、旧9月13日を豆名月と呼ぶ。 中割では芋名月には芋飯、豆名月には豆飯をつくった。大野では、豆名月にあぜ豆を煮て神仏に供え黄粉餅をつくり、下肥をもらっている家に届けた。
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社日さん
秋分に最も近い前後の戊(つちのえ)の日を社日という。中割では、餅をつき非農家の親戚に配っていた。
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タノンビッキ
大野では、大正の頃まで新嫁を迎えた家に集落の女児が、お祝いをする風習が残っていた。 稲苅りあとの田の土で雌雄の鯛、まんじゅう、花、イチビであめがたなどをつくり、もろぶたや重箱につめて三荷、五荷、七荷のザッショ(雑餉)とした。鯛は赤白のホーセンカで雌雄に飾りヒシノ実を添えた。 女児のなかから花聟、花嫁、仲立をしたてザッショはザッショメゴ(目籠)やカエーメゴで担って聟の家を訪れた。 座敷に通されると、タノンビッキといって箱の中に入れたビッキ(カエル)を「頼みます」といって投げた。聟の家では御馳走をつくって歓待してくれた。
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おくんち
9月9日の重陽を御九日(御供日)というが、佐賀では秋の祭りを一般におくんちと呼んでいる。東与賀町では10月19日前後に各地でおくんちが始まる。 10月15日−作出・中村、10月18日−立野、10月19日−大野、10月20日−中飯盛・住吉西・大授搦、10月25日−新村、11月15日−中割などであったが近年は仕事の関係で祭日も不定となったところが多い。 もとは、口あけ(祭りの準備)で始まり、安幕(前夜祭)、本祭、番帳送り(当番の引継ぎ)、カメ洗いと数日にわたる集落最大の行事であった。 いくつかの集落の祭りの様子を記しておく。 田中では現在は収穫前の日曜日に行う。もとは男児が天神さんの大鳥居、2か所の弘法大師、北天神、南天神の5か所に竹を組み〆縄をはっていた。 搦では昭和の初めまで、ワラスボ祭りと称して収穫前に赤飯、ミズイモのおつゆ、ワラスボなどで祭りをしていた。 今町では農家と漁家の二つの祭りが行われる。農家の祭りは餅祭りといい10月17日に伊勢太神宮で行う。 漁家の祭りは、三膳六膳祭りといって旧9月21日(現在は海苔作業の関係で不定)に行われる。 当番引継ぎの番帳送りのときに豊作を占うことがある。吸物わんに酒をなみなみとつぎ今年と来年の当番がくみかわし、三方に盛った米のうえに吸物わんをふせて、米がたくさんつけば豊作になるという。
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権現講
英彦山は北九州における修験道の一大拠点であったが庶民からは農業神として深く崇敬されていた。 藩政期において肥前の英彦山信仰が他藩に較ベて盛んだったのは歴代藩主みずからの信仰の篤さによるものと言われている。上宮の修築をはじめとして寛永14年(1637)の銅鳥居の寄進など数多くの寄進物からもうかがえる。それにならった農民の信仰も篤い。 英彦山まいりの習俗については権現講・英彦山講という講集団を組織しての代参が盛んに行われた。
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日待講
素朴な原始信仰を母胎として結成された講に待ち行事を伴うものがある。日待とは特定の日に集まり、徹夜をして籠り明かし日の出を待って太陽を拝し作物の豊饒を祈願するという行事である。 これは原始的な太陽崇拝が根源となっていると考えられるが、今日では社交的な意味あいが濃くその根跡を見ることはできない。
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月待講
月を信仰の対象として特定の月齢の夜に集まり月の出を待つ行事を月待という。 東与賀町では二十三夜、二十六夜の月待があり三夜待、六夜待と呼ばれており、最も濃密に分布しているのが三夜待である。 陰暦23日の夜、宿に講員が集まり飲食談笑のうちに月の出を待ち上天した月を拝むという形をとっていたが、今日では日待と同様月の出を拝むということは希薄になり親交的な集まりとなっている。 大野二区では三夜待は男性、六夜待は女性の講となっているが他集落では男性のみの講となっているところもあり、仲間としてのつながりが深い。 二十三夜の本尊は勢至菩薩で、町内には講の時に掛ける掛軸や供養塔が数多くみられきわめて盛んであったことがうかがわれる。 六夜待の講中による供養塔はなく、下飯盛八幡社境内に昭和3年に奉納された手洗鉢のみである。
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庚申講
庚申とは十干と十二支を組合せる暦の十干の庚(かのえ)と十二支の申(さる)のあわさる日または年で60日あるいは60年ごとにめぐってくる日をいい、この日は夜を徹して語りあかして一夜を過ごした。 庚申の本体ははっきりしないが、中国の道教思想にもとづく信仰といわれ、人体に潜む三尸(さんし)という虫が人の睡眠中に天にのぼり、その人の罪状を天帝に告げると天帝は罪の軽重により生命を縮めるので庚申の夜は眠らずに過ごし三尸の天上を防いだのである。 神道では庚申の申から猿と結びつき、天孫を道案内した猿田彦大神を庚申の神として祀った。また、仏教の影響をうけて青面金剛を本尊とする庚申信仰も広まり、大衆化が進んだといわれる。 江戸時代に隆盛をきわめた庚申待ちの風習も近年では日待・月待などの他の待ち行事に吸収されたのか、次第に衰微した。 庚申の文字塔が多いなかに、大野神社境内には寛文11年(1671)銘の脚下に鬼を踏む忿怒像の青面金剛像がある。
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八天講
中飯盛と立野の氏神社境内に、八天さんと呼ばれる石祠がある。嬉野市塩田町の唐泉山(八天山)に鎮座する八天神社を分祀したものと思われ、防火の神として信仰されている。 八天狗とは愛宕山(あたごさん)、大峰山、飯綱山、大山、英彦山などの八山に住むという天狗のことで、鼻高く背には羽翼を有しているといい、防災・鎮火の守り神と言われている。 立野の八天さんは、天狗像が刻まれており、中飯盛の八天狗碑には8名の講員の名前が連記してある。
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童行事
童行事というのは、自己の名前を改めるしきたりである。これは男児に限られたもので、17歳に達すると搦の青年会に入団する。入団するのはお宮の祗園の当日で、入団が決定すれば今まで使用した自分の名前を改正するのである。例えば田中与一は田中勝次に改名して搦地区のみんなに披露せねばならない。即ち新しく命名された姓名を大提灯に書いて知らせたり、祝酒も何本も買って神に献上し村人の皆さんへ振る舞うのである。言わばこの童行事は昔の元服に似ており、個人の自覚を促し子どもの名前から脱皮して青年に成長したという決意と気構えを醸成する目的がある。もしこの童行事を怠った場合は、その青年は一生涯恥ずかしい思いをしたという。 この行事も今日ではほとんど後を絶ってしまったのである。
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狂言と、もいし講(文殊講)
農村での親睦と娯楽として、この田舎狂言と文珠講がある。狂言は子どもと青年の遊戯として往時盛んに流行した。後には大人も老人も参加したり、女役者に小役も出て顔化粧や衣裳服装も工夫され、素人としては珍しくも上手な芝居が演じられた。演題も水戸黄門・佐々木助三郎・真田幸村・猿飛佐助等昔の英雄や豪傑の狂言物が多く上演された。 文殊講の俗に言う「もいし講」は、毎年秋の10月頃の日曜日を利用してやり、普通男女別に開催する。昔は仲間同志が自宅から茶碗に米1杯と金5銭宛を持参して、宿貸しの家で飲食を喜び談笑に花を咲かせて1日を楽しんだ。この「もいし講」は、農漁村における親善と融和の中心的な役割を果たしている。
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上古賀の年中行事
年中行事の一つに正月5日定例的な大般若会がある。この八幡神社の社殿に老若男女の氏子が相集って、家内安全と災害免除の祈禱をする。祭主は区長(連絡員)が当たり、栄蔵寺と慶誾寺(本庄町)の住職が般若経600巻を奏上する。祈禱札は各家庭に祀りまた村境にも立てて邪神悪霊の進入を防ぐのである。その昼は全戸主が公民館に集合して、神酒を戴き1年間の村落安全と親善親睦の新春宴会を催すのである。 この村でも子ども達の年間行事や遊びごとは、ほんげんぎょう・土龍(もぐら)打ち・凧揚げ・竹足・独楽(こま)・ぺちゃ・ねん棒等があり、女子では毬(まり)つき・お手玉・草輪つき・羽子板等その他動物を相手に、とんぼ釣り・ぼんのう挿し、洞受け(鮒とりかご)泥鰌(どじょう)受け・投針等楽しいものが多かった。今日では大分減ったが、童(わらべ)大将を中心に、こうした遊戯や行事に熱中し日の暮れるまで打ち興じたものである。
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新村の年中行事
【大般若会】 毎年の正月11日に定例的に開催する。般若経は下飯盛の開田庵より借用し僧侶3人で施行する。各家々から戸主が出席し会場は各家を巡番に回すことにしている。その目的は年頭に処して今年1か年の家内繁昌とこの村の安全祈禱である。最近では大般若会の済んだ後で、村の会計決算の報告会も開催している。 【二八月祭】 毎年2月と8月の農閑期に行うもので、村中の戸主が任意加入で加盟する。その目的は家庭安康と水田豊作を祈願するものである。昔は英彦山や太宰府天満宮に参詣したが最近では余りお詣りをしない。しかし太宰府天満宮の神盃を保存しており、講の希望者は必ず参詣している。八月祭は昔の権現講で、中年の男子が主催してやっている。 【祗園祭】 毎年8月下旬に天満宮で祗園祭を挙行する。この日神酒は村で準備するが、賄いの御馳走は各家から手製で持ち寄ることにしている。この祗園も戦前までは大変賑やかに楽しく、青年の宮角力を中心に遠近より売店も並んで参拝者も随分多かった。しかし近頃は時代と共に衰退して往時の面影はほとんど見られない。僅かに青年団員等のソフトボールの試合だけが残されているに過ぎない。 【女性の行事】 「豆観音講」…女子ばかりで夏期8月18日に行う。空豆を煮て皮をはいで天満宮に献上するもの。 「太師講」…女性行事で100年ほど前より継続している。毎月家回しで開催する。 「初午」…毎年3月に挙行。女子の黒髪がぐんぐん伸びるように祈願する。 この村には祗園や慶事の際に盛大に打ちまくった「浮立」や、子ども行事の「もぐら打ち」「ほんげんぎょう」「七夕」等の生々しい諸行事があった。
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三夜待・二十三夜
以前は農業従事者が毎月23日の夜に当番の宿に集まり、三夜さん掛軸に一礼二拍一礼して席に着き、農事懇談をはじめ飲食談笑していた。近年は同士の勤めもまちまちで平成10年頃からは休日前に実施している。掛け軸も100年以上を経過し、昭和59年に新しく作って入魂し現在に至っている。
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亥の日
旧暦10月の亥の日にぼた餅をつくって祝う。「亥の日はぼた餅を食べさせんと、ヒャアー(ハエ)は帰らん」という伝承がある。