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[旧佐賀市][ 河川・水路]は52件登録されています。
旧佐賀市 河川・水路
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多布施川
旧佐賀市を潤した母なる川。嘉瀬川本流から石井樋(佐賀市大和町)で分流し、旧佐賀市内を屈曲して東南流、八田江の八田橋北方約130mにある排水樋門から八田江川に入る。延長約9.5km。平安・鎌倉時代は嘉瀬川の本流であったとも考えられる。 江戸初期、佐賀城や城下町の建設に当たって、これらの地域の洪水防止のため、成富兵庫茂安は石井樋を築造して嘉瀬川に放流し、水量を調節して佐賀城堀の防衛水や周辺の飲料水、日常用水、さらに周辺農村地域の灌漑用水を確保した。水路としても利用され、川上(現佐賀市大和町都渡城)から城下まで人や物資を運んだ。地域住民の生命線ともなる重要な川であった。 多布施川は昔から「水清く白砂青松の川」として親しまれ、堤防には松が青々と茂り、大正末期までは砂取り船が行き交っていたが、大正6年(1917)に佐賀市に上水道が普及するや、往時の役割も失い、次第にその面影も薄れてしまった。しかし昭和初期までは、石井樋から神野茶屋を通り護国神社まで、春になれば屋形船が通って賑わったものである。 現在は都市公園として河畔整備が進められ、レクリエーションの場や桜の名所として有名である。また、昭和初期まで行われていた川下りを復活し、観光に生かそうとした取組も行われている。 川上川の下流石井樋より分岐し、佐賀市街に入る川が多布施川である。西神野あたりでは、「ウーカワ(大川)」と呼び、水は清冽、河底には白砂、堤防には石井樋から青木橋下の大曲まで大きい松があり、文字通り白砂青松の川であった。大正12年(1923年)神野公園が鍋島家から市に寄付されるや、堤防美化のため、神野公園北側の二挺井樋付近から大曲あたりまで、桜や楓などが植えられた。各方面から贈られた苗木が、市青年団特に神野地区の青年団の手によって植えられ、本校の児童の手によって、この木々の成育と繁茂を願って募集された樹木愛護の標語木札が木々の枝に下げられた。 夏には、川舟による舟遊びも催され三味線の音も聞かれた。川上、石井樋などへの遠足の帰りには石井樋から川舟に乗って招魂社まで下った小学校もあった。また昔は砂が上流からどんどん流れてきたので、採砂業者によって上げられ大水の出るのを防いだ。 3月になると石井樋の堰を止め、河川の泥上げが行われる。これを川干というが、この時は、多布施川の近くの子供は、シャツ、パンツ1枚になり、手に手にウットイ(網)、オンツキ(鉾)、テボ(魚籠)、バケツなどを持って、水の涸れた川床の白い砂を踏みながら水の淀みにひそむフナ、ハヤ、ドンコなどをとった。神野公園では池の泥上げがあったが、これはチャッポシコンゴという泥上げの法で行われた。チャッポシコンゴというのは、泥上げ用の桶の両端にロープをつけ、ゆるめたり引っぱったりして泥を上げる方法で、のんびりした作業であった。 その頃の多布施川は、今よりも水が多くてきれいであった。飲料水として使われ、午前10時までは顔や手を洗うことを禁ぜられ、違反者で見つけられた者は、1円の罰金をとられたこともあったという。 ところが、水はよごれ、堤防の松は、佐賀工業体育館東側の「松月」の一本松を残すだけとなり、松籟も聞けなくなった。草が生えて風情のあった岸も護岸工事ですっかり変わり、昔の面影はなく淋しい限りである。
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八田江川(八田江・八田江湖)
八田江は有明海に注ぐ延長8.2kmの感潮河川、満潮時は八田橋付近まで逆流する。常時は水量も少ないが豪雨時は水面が上昇し、時には冠水被害を受けることもある。以前は多布施川の下流八田橋近くの石造樋管を起点としていたが、昭和7年(1932)11月より、八田橋から東北にある枝吉へ新水路造成に着工、10年の歳月を経て昭和17年5月竣工した。工事中、川床約2mのところから大型の牡蠣殻が掘り出され、この辺一帯が太古は海であったことを証拠だてた。枝吉樋門もこれと同時に完成した。
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十間堀川
十間堀川は、佐賀城の外堀の役目を果たしていた。即ち平城であったために、この十間堀川は、ほぼ東西に流れ、勧興小学校の南、循誘小学校の北を経て大財六丁目の南二次井樋までおおよそ1,900m、ここで大溝川に合流し、枝吉樋門まで1,400m合わせて3.3kmにおよんで、川幅は十間(18.2m)あったので十間堀川と云っていた。 この十間堀川の特徴は、佐賀市の北部の河川水を受け、高低差の少ない排水河川である。かつて今宿に千石船が出入りした頃できるだけ川に水を溜めておく必要があったので、下流の蓮池地区には蛇のように曲がりくねったいわゆる蛇行の河川だった。このため枝吉樋門から八田まで河川を改修したり、蒲田津に大きな強制排水ポンプ場を設置して排水能力を高めている。
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裏十間川
この川の北側は、中の小路・中央本町・呉服元町・柳町、川の南側は、松原1丁目から4丁目となっている。上流には、東魚町橋・恵比須橋があり循誘校区の最初は、欄干橋となっている。欄干橋以東は、武家地と町地の境となっている。
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紺屋川
呉服町水路の、元窓の梅東裏を起点として東に流れ旧古賀銀行の北を通って、藤影幼稚園の南から、兵庫屋の追手橋で南に曲がり香月酒屋から思案橋を下り貫通道路の紺屋橋を経て、今宿で佐賀江に合流している川である。
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小寺川
巨勢川西の兵庫町一帯(土井.藤木.西淵.東淵.西中野.下村)の水田の農業用水を受け持つのが、この小寺川であり、上流は川上川の分水で小寺井樋から五領.長瀬.下高木を流れて兵庫町に至っている。
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大溝川下水路
佐賀市消防署の西側を南下し、鉄道線路の下に大藤橋がありこの線路をこえて戸上電機の東の水路を下ると、元佐賀線跡地の道路と金立に至る県道との交差点(大財北町住宅南)の西側に大財橋(昭和45年)がある。 大財橋から約100m南に『楠の木塚橋』があるが、この橋は大財本通りから大財六丁目を経て、兵庫町下村に通じる道路新設工事の道筋に当たるため、新しく鉄筋の橋に1994年架け替えられた。また、大溝橋は、西の元佐賀線跡地の道路新設工事と合わせて、新しい鉄筋のコンクリート橋が完成し面目を一新している。この南三叉路に架かる橋は、火薬庫橋と名付けられているが、この直ぐ西には昔火薬を保管する場所があった。この付近には人家もなく淋しい所であったが現在では、住宅が立ち並んで賑やかな所となっている。この橋から流れた川は、東の二次井樋で十間堀川と合流している。
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大溝都市下水路
大溝川下水路と十間堀川とは二次井樋付近で十間堀川と合流し南下するが、この二次井樋付近は昔『野越し』といって道路より高く水位が上がれば、道路を自然に越して水は他の方に流れる仕組みが、長い間の村と村との間に定められた治水の慣行であった。 これは、この井樋の東は三間川で、西の大溝川と東の幹線水路との間の水量を調整する役目をもっていたのである。しかしながら大水の場合は早急に排水する必要があるので、それぞれ河川の改修や強制排水ポンプなどの設置で、大雨の被害を最小限度に止めるための努力がされている。 二次井樋から南下した水路は、桜大橋を経て構口橋に至っている。
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十島水路
大藤橋(佐賀市消防署西側の河川が、西鉄営業所前でJR長崎本線と交差する場所の橋)から南に入り、戸上前橋、八の坪橋(生長の家西北)中林橋(生長の家西南側)それから十島橋を経て下流は大藤水路と合流して十間堀川に入っている水路である。
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呉服町水路
大財橋より少し西より、願正寺東に南下し、高木町の天神橋を通り愛宕神社、光明寺前の晒橋から裏十間川に流れる。 昔この水路は『新堀』または、『真宗堀』とよばれ、南北400mの短い水路であるが歴史のある水路である。
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高木町水路
高木町水路は、願正寺の東南で新堀と十文字に交差して、大財通りの『井手酒屋』北を通り、循誘小学校校門南前から東の川崎米穀店北に流れ、東佐賀町を経て、長専寺の横から構口橋北で大溝都市下水路に至っている。
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芦町水路
呉服町水路の愛宕神社東から分流して、大財町本通り『春駒』の南に架かる『芦町橋』を東に流れ、循誘小学校の南の『循誘橋』から東の追手橋北に至っている。また、牛島天満宮の西鳥居の『天満橋』は芦町水路に架かっている。
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大藤水路
大溝川の『藤の木橋』から分かれて南流しているが、新村川の末端である、愛敬島水路や大財水路とも連絡している。主な橋に、鶴橋、北御堂橋、御堂橋、竜頭橋、大財新橋があり、末は十間堀川に至っている。 ※写真は北御堂橋、竜頭橋、大財新橋
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川の底をくぐる川
裏十間川は朝日町了関橋の下流でいくつかに枝分かれして東に流れている。この川の末流は八田江に注いでいるが、枝分かれした水路はすべて八田江右岸で姿を消す。 そのうち朝日町、今宿町を流れる水路は、今宿町証明寺裏で姿を消している。八田江の両岸を注意して見ないと分からないが、この水路は八田江の底をくぐりサイホンの原理で枝吉、木原方面に流れるようになっている。これは枝吉、木原方面の灌漑用水に八田江の潮がまじらない工夫であると思われる。 なおその下流の姿を消した水路は、八田江の水が少ないときは大きなコンクリート製の管の一部が姿を現し、小さな堰のような役割をしているようである。 ※写真3枚目は水利工事に関係する記念碑。地図の場所にあり。
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佐賀江川
今宿を起点とする一級河川佐賀江川は、かつては今宿江湖と呼ばれていた。佐賀平野を流れる川は、原則として北から南へ流れているが、この川はいちじるしく蛇行しながら高低もなく東西に流れている。(改修以後は直線)これは大昔の海岸線(海抜4mの長崎街道)に沿った干潟の澪が成長した結果である。 この川の役割は嘉瀬川から城原川に至るこの川の以北の佐賀平野の排水機能である。従って材木町で明渠や暗渠で多布施川末流の裏十間川とむすびついたり、十間堀川と巨勢でつながったりして、循誘校区内の水路はすべてこの川で排水されている。そのためこの川の排水能力の限度を越えると校区内も洪水に見舞われていた。 もう一つの役割は運河としての役割である。慶長18年(1608)鍋島直茂が佐賀城を築き城下町を経営するに当たって、これに目をつけ、筑後川と城下を結ぶ運河として利用した。築城や城下町形成には膨大な石材や木材が必要となるが、これらの運搬は船に頼る他はなかった。これらの材料は下今宿の船着き場に陸揚げされた。 この運河としての役割は江戸時代、明治、大正と陸上交通の発達するまで、米、薪炭、味噌、しょうゆ等城下町の人々の生活必需品の輸送に欠かせない水路であった。下今宿は城下町最初の宿泊地であったため、商家、問屋が発達した記録が残されている。
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嘉瀬川
脊振山地に源を発し、佐賀平野を南流して有明海に注ぐ。115㎞。古湯、熊川の温泉地の渓谷を経て、川上峡の渓谷は風光明媚を誇り、佐賀、唐津、前原を結ぶ交通路となり、川上神社は扇頂に位置し、古代肥前の政治、文化の中心がここに立地していた。 近世の初期成富兵庫の築いた石井樋から分流した多布施川の水は、佐賀城下の日常用水や農業用灌漑水に用いられた。 なお嘉瀬川の本支流の河川が舟運による人や荷物の運搬に利用され、支流の多布施川、巨勢川、佐賀江、八田江、本庄江などには川舟が往復し、多布施川では川上までの川舟が用いられ、川遊びも行われていた。しかし水害も多く、治水については、成富兵庫による石井樋の築造のほか洪水に際して遊水池を設ける野越工法、今日では北山ダムによる流水調節などがなされている。
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多布施川
古くは嘉瀬川の本流であったと考えられている。江戸時代初期成富兵庫は、石井樋という制水口を築造して現在の嘉瀬川に放流し、水量をコントロールして城下の内堀や周辺の飲料水、更には流域の灌漑用水を確保した。 多布施川では川運によって川上から城下まで人や物資の運送が行われていた。佐賀市内を流れる松原川もかつては清流で蛍もとび交っていた。 なお幕末に佐賀藩独力で製作した築地、多布施反射炉は多布施川流域に立地し、この水力を用いて水車の力で砲身をくりぬいていた。嘉永6年(1853)6月アメリカ提督ペリー来航に驚いた幕府は、8月品川砲台の備砲100門を佐賀に注文してきた。佐賀では新たに多布施反射炉を築造した。これを同年10月来佐見学した幕府勘定奉行川路聖謨は大規模な設備に驚き、彼の長崎日記に「いやはや大造なる仕かけなり。反射炉というはタタラを用いずして、一度にクズ銕をふきて、鋳物ながら銕を銅の如く柔らかにするを以て、大銃をつくるなり。ここにて水車を以て大銃の穴を明け、或いは大銃を切り、或いは仕かけにて一万貫目を有るものを、僅か三人にてあげおろしを自由にするなり。」(「長崎日記」安政元年一月二十二日)と、その時既に早くも一大兵器工場として火を噴いていた佐賀の偉容に驚いている。
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鍋島大水害(28水)
嘉瀬川はいつもおとなしくて、恵み豊かな流れであるが、昔から怒ると荒れ狂う本性を現わす暴れ川といわれてきた。 昭和28年6月24日から連日土砂降りの豪雨が降り続き、佐賀測候所始まって以来の月間雨量を記録したと新聞は報じた。水害が起こる数日前から田圃は浸水し、大人の膝あたりまで水嵩が増していた。各地区との間の田圃の畦道や農道も堀も一面湖と化し、ただ見えるのは堀端の大きな柳の木や高い樹木だけであった。田植時期なのに自分の田圃が何処にあるのか見定めのつかない状態であった。 連日の豪雨で岸川地区の堤防は随所に漏水箇所があり、消防団・青年団・地元や周辺地区の人が中心に徹夜の応急補強作業を行ったがそのかいもなく、午前8時40分に堤防が決壊し、一瞬にして鍋島全村を濁流が襲いかかった。蛎久地区の東を迂回した濁流は角目・新村を襲い、西に向った濁流は津留の真中を突き抜けて鍋島小学校をめがけて波頭を高く押し寄せてきた。藪や柳はなぎ倒され、作業小屋は流され、わら小積みが小舟のように傾き流され、出荷前の菜類や麦の俵が濁流に浚われて、想像をしたこともない地獄絵図を見るような情景であった。最後まで堤防の上で蛎久区長として監視を続けていた石丸久光氏は奔流に飲まれ殉職された。 直ちに水害対策本部を設け、水勢が渦巻く中250mに及ぶ決壊の復旧作用は難航を極めたが、必死の作業で仮せきとめに成功した。(7月15日午後2時30分 締切日出動人員7,111名)
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横落水道
旧神埼町西部を流れる城原川の水が、仁比山の八子から西へ分かれて下和泉まで約6kmの直線水路がある。この水路を横落水道又は横路川と言う。 この水路は、城原川右岸から下和泉へかけての灌漑用水路で、成富兵庫が指揮したともいうが、川久保の邑主神代の采配があった。この取入口を三千石井樋または単に三千石と言うのは、この付近の大字竹以西が神代家の配分地でありながら、水が無くて荒れていたので、年貢4000石の負担が苦しく、3000石と称していたためである。当時神代氏は鍋島氏の親類藩として1万石の石高を与えられていたが、この付近では3千石が水路や神代氏の代名詞となっていた。 もともと城原川は、小渕(大字的)で、東西に分かれていたが、一の井手(通称あらこう)で東の流れをせき止め本流1本になし、下流の八子に石堰を築き西へ落した。 この水道の川浚えは、毎年5月上旬の八十八夜前後に行なわれ、城原八子・川寄・野寄・柏原・利田・伏部・尾崎東分・尾崎西分・大字下和泉の関係田持が『横落公役』として出夫し、各村の庄屋が引率し延べ700人が参加。代官所が監督していたと伝える。 受益面積は、もと412町であったが今は狭くなりつつある。 横落水利組合の水利慣行は、動かすことのできない鉄則として守られていた。 負担金の率も地区によって異なっていた。
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神籠池
佐賀平野の条里は、城原川の西にも設定され、西郷野寄を基点とし西は横落から金泉中へ、南は城田上黒井までの3.9㎞、1里の方形であった。当時この間は、水に恵まれず墾田開発は進まなかった、と広島大学の米倉二郎氏は説く。藩政初期、神代氏の配分地となり、横落水路・八ッ溝の開さく・大小の溜池築造・河川の改修が為され、新田が開発された。だが水不足は思うにまかせず、水源かん養林では間に合わない。 神籠池の竣工碑には、『昭和12年村長本村久雄、村民に訴え同県補助による計画を樹て、同15年認可、16年起工云云』とある。 昭和4年、同9年には旱天続きで田が植えられず、水争いが各地で起こり、溜池の拡充・増設の議があがった。始めは、勝宿社の所で城山・鈴隈が迫り狭谷50mなので、社を城山に移し、ここを塞き止め県営ダムを、との案であったが、地元が反対したので、長い導水路を付け、東の小城内に移し縮小することになった。受益面積500haという。 この改良案を住民に訴えたのが、昭和12年である。ところが同14年、西日本一帯の未曽有の干ばつは、御神輿のお下りまであって9月9日にやっと雨が降った。村長本村氏は、再参内務省と直談判をし、ようやく16年着工と補助の約束を得た。 だが村内の政党争いで彼の土産が届かぬ内に、村長の座は変わっていた。 戦後、復員・引揚者の労働力により、8ヶ年の歳月をかけ昭和24年やっと竣工した。 工事中発見された神籠石に因んで『神籠池』と命名された。
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不動滝
慈音院の右手の山道を、瀬の音伝いに登ると二条の瀑布の前に出る。不動尊を祀ってあるので『不動の滝』という。 もうここまで来ると、俗世の雑音も雑念も去り、木霊する爆音に何かを祈りたくなる。飛沫は岩に砕け、かかる虹の橋はいつ来ても心が和む。 ああわが古里よ 古里よ。 なくもがな、瀑布の前の閉ざされた籠り堂。 不動明王は、大日如来の命を受け、衆生の心に潜む悪魔を払い善人にして下さるという御仏で、右手に剣・左手に策(なわ)を、怒った形相で髪は炎のように逆立たせ、するどい眼光、むき出した牙。何と恐ろしい姿だろう。いや我々の心の悪魔の姿ではないだろうか。 滝の左手の道を西へ登ると、大方広佛華厳経と書かれた巨石がある。 華厳経は大乗仏教経典の代表格とされる。大方広仏とは広大なる仏ということである。「仏道の根幹は仏を信じ、修業と求道により心の内にひそむ諸悪業をざんげすれば、自分も清浄になり社会も光り輝やく極楽となる」と説く。
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観音滝
不動の滝から流れに沿って左手の道を200m、軣然たる木霊と共に、十数mにわたって岩肌を伝い流れる直白い帯がみえ、不気味ささえ漂う谷間がある。これを『観音滝』という。水子地蔵が沢山目に止まる。