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[久保田町][ 人物]は43件登録されています。
久保田町 人物
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志津田 藤四郎
明治33年〜昭和62年(1900〜1987)教育者 久保田町大立野東、志津田富太郎の四男として出生。父は宗教家であったので、子弟の教育は厳格であった。小学校は横江の久保田第二尋常小学校に入学、低学年の頃は奔放な学校生活であったが、学究的な教師との出会いから学業に興味を持ち、1年後には全教科揃って優秀な成績を修める迄になった。高等科は元小路の思斉尋常高等小学校に入学。学校の夏・冬の長期休暇には、アルバイトで貯めた学費で佐賀の塾の先生の元に通い、中学校(旧制)の数学・英語を勉強するなど、他の生徒の知らないことまで学ぶことができた。高等科の卒業を前にして、担任の教師が父親と本人に師範学校入学受験を勧め、師範学校入学が実現した。卒業後江北小学校へ赴任その後さらに日本大学高等師範を卒業し、教師としての最高学府を極めた。卒業後は鹿島中学校(旧制)母校佐賀県師範学校で後輩の指導にあたり、佐賀大学合併後は付属中学校総務に転出。佐賀竜谷短大教授、のち同校副学長。剣道3段佐賀の方言や俗言の研究者で、著書に『佐賀の方言』などがある。 享年87歳
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井上 正喜
大正2年〜平成5年(1912〜1993)教育者 福岡県朝倉郡朝倉町比良松の井上亀次郎の三男として出生。郷里の小学校を卒業、朝倉中学校(旧制)に進学、スポーツを好み向学の志篤く、中学校の体育教師を目指し東京高等師範学校体育科に入学、特にバレーボールの部員として活躍鮮やかなボールさばきで、度々チームの勝利に貢献した。 卒業後、尾道中学校に赴任したが、間もなく兵役に服することになり学校を離れたが、帰還後の昭和16年7月、佐賀県立女子師範学校教諭を命ぜられ佐賀に赴任、良緑に恵まれ佐賀に永住を決意する。のち妻の里である久保田町徳万に家を構えた。戦後の学制改革にともない佐賀大学が開設され、教育学部教授として学生の指導にあたる。その間、バレーボール協会の育成指導に情熱を燃やし、県バレーボール協会会長に推挙され、学校教育・社会体育の両面に、その手腕を発揮した。特に、婦人の健康と楽しい触れ合いを目的に、ママさんバレーを発足させ、県内全市町村に普及させた功績は極めて顕著である。定年退職後も、福岡教育大学に招かれ3年間に亘り学生の指導にあたる。土曜、日曜も暇さえあれば、バレーボールの指導に奔走した。従三位勲三等旭日中綬章が贈られた。享年81歳
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石丸 正光
大正3年〜平成10年(1914〜1998)教育者 久保田町徳間において石丸龍応の次男として出生。家は日蓮宗の寺であった。家族の勧めもあり自らも、宗教家への道に精進し、学校も立正大学史学科に進学、卒業後の昭和12年東京都大森区役所の教育課に勤務する。 昭和27年、佐賀に帰り県立白石高等学校をはじめ、各高等学校に勤務。昭和38年佐賀工業高等学校教頭の頃、校舎建設および生徒指導など学校の発展に尽力した功績が認められ、校長・同窓会より感謝状が贈られた。 昭和45年4月、県立ろう学校長に昇進、九州初の幼稚部を新設。佐賀農芸高等学校(現高志館高校)を最後に定年退職した。(60歳)教育功労表彰受賞(佐賀県教育委員会) 昭和29年1月、地域の要望にこたえ私立久保田幼稚園を開設、寺の本堂と庫裏を仮園舎として開園、定員80名、5歳児2学級。同年佐賀県知事幼稚園設置認可、年内に園舎建設工事完了、定員120名、4学級。 昭和56年、学校法人慈光学園設立認可、理事長石丸正光、久保田幼稚園長石丸正子。昭和61年12月新園舎竣工、県下に誇る近代的な園舎として各方面からの注目を集め、仏教の心を中心にした幼稚園教育の理想実現に向かって、教育環境が整備された。平成10年9月、創立45周年記念像建立および記念式典を挙行。同年10月逝去。 日蓮宗一級法功章、従五位勲四等瑞宝章 享年85歳
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本野 盛亨
天保7年〜明治42年(1836〜1909)新聞社社長・官吏 八田晋の子として久保田村徳万に生まれ、本野権太夫の養子となる。思斉館に学び、のち谷口藍田に学ぶ。青年時代大阪で緒方洪庵について蘭学を修めた。長崎では英人フレッチェルと米人フルベッキに英語を学んだ。明治元年神奈川県大参事となり、また外務権少亟、外務一等書記官、横浜税関長、大蔵大書記官、大阪控訴裁判所検事等を歴任する。同3年日本最初の活版印刷社「日就社」を岐阜出身の子安岐と長崎出身の柴田昌吉とともに創立する。同7年には3人で、読売新聞社を創業。子安が初代社長をつとめたあと、同22年に2代目社長に本野盛亨が就任した。本野盛亨社長は、就任の挨拶に「新聞の編集には口を出さず、すっかり委せるが、ただ新聞の記事のために泣く人や恨む人を作りたくない。いくら新聞が売れなくとも、個人の私事を暴くことだけは絶対に差し控えて欲しい」と述べている。その人柄をうかがい知る事ができる。3代目は甥の高柳豊三郎が社長となった。高柳は、明治45年2月に没し、4代目には本野盛亨の次男である本野英吉郎が社長に就任し大正8年までは、本野家が読売新聞社の実権を握っていた。寺内内闇の外務大臣本野一郎は盛亨の長男である。本野家の墓は本町草木田の寶琳寺にある。正三位勲五等 享年74歳
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中尾 都昭
明治27年〜昭和55年(1894〜1980)新聞社社長 久保田村久富の網元中尾清三郎の次男として出生、幼名を伊八。母チヨの厳しい躾の下で逞しく成長、愛すべきがき大将であった。新田尋常小学校を卒業(4年制)青藍高等小学校に進学。同校を明治13年3月卒業漁師の家業を継ぐ。18歳で海軍志願、佐世保海兵団に入団やがて第1次世界大戦に従軍、功により勲八等瑞宝章と従軍記章を授与された。大正7年(1918)海軍を退役。佐賀に帰り肥前日日新聞(政友会機関紙)の営業に携わる。大正15年(1926)佐賀市松原町新馬場の片田江通りに於いて農村青年新聞を発行、新聞経営をはじめた。翌年同紙を「佐賀自由新聞」(毎週日曜刊行)と改題、同紙5周年記念で、同市県庁通りに新社屋を完成、昭和6年(1931)7月、念願の日刊紙「佐賀毎夕新聞」を創刊した。昭和13年(1938)、経営難の「佐賀新聞」を買収、一時、国策で「佐賀日日新聞」と合併、「佐賀合同新聞」となったが、昭和17年(1942)再び「佐賀新聞」に改題、唯一の郷土紙としての地歩を築き上げた。昭和54年(1979)8月、社長の座を長男清澄に譲り会長に就任。佐賀観光協会会長、佐賀観光連盟会長、佐賀整肢学園理事長、佐賀竜谷学園後援会長、佐賀善意銀行頭取、県自然公園審議会長、県ユースホステル協会長、共同通信社監事、佐賀国体・佐賀医大設置募金委員長。信条「他力本願」「至誠無敵」著書に『わが生涯』がある。 紺綬褒章受章(3回)昭和47年(1972)勲三等瑞宝章。昭和49年(1974)久保田町名誉町民第1号となる。中尾都昭頌徳碑は久富の御髪社境内に建立、役場前に胸像がある。墓は同寿慶寺にある。享年86歳
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干葉 胤明
元治元年〜昭和28年(1864〜1953)歌人 佐賀郡久保田町出身の歌人。父は桂園派歌人、賢隆坊千葉元柘。高崎正風に歌文を学び明治25年(1892)御歌所録事となる。明治40年(1907)常勤寄人。御歌会始め奉行など明治・大正・昭和の3代を勤め、御歌所廃止後は宮内庁御用掛。書家としても有名で、有明子、春翠などと号した。旧帝国芸術院会員。歌、野辺の月「虫の声おくりむかへてわが影を月にふみゆく野辺のほそみち」従三位。墓碑は久保田町福所にある彦隆山安養寺西持院(天台宗)の墓地にある。享年90歳
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古賀 残星
明治36年〜昭和43年(1903〜1968)文学者 久保田町中副の花火師、古賀伊作の長男として出生。本名は又作、思斉小学校卒業後、佐賀師範学校へ進学。柔道部で活躍、文学を嗜み文武両道を志した人である。 大正13年同校卒業、東松浦郡切木小学校に赴任、教職の傍ら詩を中心とした総合文芸同人誌『牧人』を創刊。県内の青少年文学者は勿論、小川未明・宮地嘉六・福原麟太郎・中島哀浪など全国的に有名な作家も投稿した。表紙絵は山口亮一、扉絵は田原輝夫、目次絵は山口孝行と豪華な顔触れであった。大正14年東京高等師範学校体育科に進学、卒業後は新潟県中蒲原郡村松町の県立村松中学校(旧制)に体育科教師として奉職、特に柔道の指導に尽力した。辞して東京に戻り、学校柔道の啓発・社会柔道の論評に健筆をふるい、全国を巡回し柔道の普及に努める。『講道館今昔物語』『黒帯の青春』『嘉納治五郎』など著書も多く、代表作に小説『天才永岡十段』−和して流れず−がある。 この小説は昭和29年6月、『柔道物語』というNHKの放送番組で3回に亘り放送された。本は同年11月に東京の春歩堂から発刊された。郷里久保田を愛し、思斉小学校の校歌は残星が作詞した。詩集『空に翳す』『煙』等があり、教育文化に貢献した。昭和42年求められて富士町史に「掘り出した宝石」という一文を掲載した。翌年の10月、古賀残星は病に倒れた。講道館七段追贈される。享年65歳
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鍵山 栄
明治38年〜昭和63年(1905〜1988)医師 久保田村の開業医鍵山俊八の六男として誕生。旧制佐賀高等学校を経て、昭和5年3月長崎医科大学を卒業、引き続き同大学助手として勤務。その後佐賀県庁に奉職、昭和13年唐津保健所長時代は、管轄する山間僻地・離島の農漁村で、劣悪な医療施設を巡り困窮する住民の治療・健康保持と予防指導に尽瘁、県を始め多くの人に評価された。昭和21年郷里で開業、公立の小・中学校校医として地域医療に貢献した。昭和10年医学博士(長崎医科大学)日夜多忙な施療の傍ら、佐賀県医学界の古医学史と近代医学の進歩の跡を究明・古医学史を執筆した。その主なものは、『相良知安』昭和48年。『佐賀の蘭学者たち』昭和51年。『佐賀医療百年』昭和54年。『種痘物語』昭和56年。日本医師会最高優功賞・栗原荒野賞等を受賞。その後、佐賀市鍋島町森田に移転開業。従六位。 享年83歳
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江口 保定
天保11年〜明治38年(1840〜1905)医師 久保田邑主の侍医で名医の1人に数えられた。『好生館史』によれば明治2年(1869)2月、指南役差次に任命される。好生館は、古賀穀堂が鍋島斉正に医学教育の重要性を説き、天保5年八幡小路に医学館を試設、安政5年に医学校を設立。指導方差次・指南役・指南役差次をおき蘭学を勧め、医学寮を「好生館」と改称。明治2年郡部地方に医学会議所が11ヵ所建てられ、同12年郡立佐賀病院が設立される。 江口保定は院長心得を命ぜられる。梅定を保定と改める。 早くから好生館にて蘭学を修め、後長崎に遊学しボードウィン、マンスヘルドの両師につきて技術を研き、たちまち頭角を現し、その塾長となり在学数年にして学業を終える。帰宅し村田氏の侍医となるが、明治4年好生館教諭院長を拝命する。職を辞した後、佐賀市八幡小路に住す。性寡欲また顕達を求めず、権門富貴に屈せず。門下生数十の医師を出す。明治39年(1906)4月、宮永常吉、古川豊太郎等10名の門人の発起により墓碑銘が建立された。撰文は従三位徳久恒範、書は中林和(書聖といわれた中林梧竹)墓及び墓碑銘は、邑主の菩提寺大雲寺にある。享年65歳
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大坪 虎三郎
明治20年〜昭和49年(1887〜1974)医師 久保田町久保田宿の大坪浅吉の長男として出生。久保田村立思斉小学校を卒業し、旧制小城中学校(現在の小城高等学校)に進学。久保田宿〜小城町間を、毎日徒歩で通学し、心身共に強健で努力家だった。卒業と同時に長崎医科専門学校に進学、医学の道を志した。卒業後は牛津の西町に医院を開業したが、その後、妻の実家から招かれて、熊本県の人吉に移り、関係の医師3人で協力し球磨病院を開設、地方医療の改善・向上に尽力した。なお、旺盛な研究心は国内に止まる事無く、アメリカでの研究を切望し、許されてシカゴ大学の留学生として3年間、内科の呼吸器を中心に研究に専念。帰朝後、久保田宿の祇園社境内で、来賓・親族・宿関係者多数参列の中で、帰朝報告並びに祝賀園遊会が盛大に開催された。更に大正12年、慶応大学医学部に2年間研究生として席をおき、専門研究分野である呼吸器の病理、特に当時治療極めて困難と云われていた「肺結核」についての研究に精魂を傾注し、書き上げた論文が認められ医学博士の称号を授与された。久保田町における医学博士の第1号といわれている。 昭和の初期、佐世保市に於いて医院を開業し、戦時体制下の市民の医療に努め、推されて市の医師会会長に就任。医師会の発展、医学の進歩向上、医療業務の改善に尽力したが、戦争激化に伴い開業困難となり再び人吉市の球磨病院へ戻り医療を続ける。享年87歳
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鶴丸 廣長
大正3年〜昭和63年(1914〜1988) 医師 久保田町徳万(町東)の鶴丸広太郎の孫。父は、佐賀市水ヶ江4丁目で産婦人科を開業する。医師鶴丸保一の長男として、大正3年12月6日出生。 旧制佐賀中学校(現佐賀西高校)に学び、のち熊本の五高を卒業、九州帝国大学医学部に進学、医師としての道を歩くことになった。卒業後は、医学部の第2外科に所属外科医としての研究に努める。昭和13年久留米48聯隊入隊陸軍軍医中尉(現役・退役・臨時召集)下関・福岡の部隊と陸軍病院を兼務し内地勤務ではあったが多忙を極めた。昭和20年8月6日広島原爆投下後、派遣されて負傷者の治療に奔走した。 戦後、九州大学における捕虜飛行士8人の生体解剖事件の疑惑を受け、無実が判明するまで大変な苦労をし、遠藤周作の小説「海と毒薬」のモデルとなった。昭和27年請われて佐賀県立病院好生館外科部長兼皮膚科泌尿器科部長に就任。県では県立病院好生館館長の後任人事が進められていたが、鍋島知事は、38歳の鶴丸廣長を指名、好生館の将来を託した。昭和28年10月館長就任後は、数回にわたる建造物の増改築、医療機器の改善、病院運営の近代化など時代に即応する県立病院として発展させた。佐賀県民が熱望した佐賀医科大学の誘致活動に尽力、開学後は大学参与として佐賀医科大学の運営に参画する。その間、佐賀県立高等看護学院長、佐賀県衛生専門学院院長を兼務。佐賀県医師会常任理事、佐賀整肢学園理事、全国自治体病院協議会監事、佐賀県優生保護委員、佐賀県医療機関整備審議会委員、九州がん研究会幹事。陸軍軍医少佐。医学博士。昭和54年藍綬褒章。従三位勲二等瑞宝賞。墓は元小路の大雲寺にある。享年74歳
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原田 與吉
明治18年〜昭和37年(1885〜1962)技能士(樽製造) 福岡県瀬高市にて冨安次吉の三男として出生。縁あって久保田村快万の原田カメと養子縁組をし、原田製樽所を開業。明治43年、窓乃梅酒造指定工場となる。初めは熊本の肥後材を使用したが、後色白の吉野杉を材料とした。樽の材料を売る樽丸商が九州に居ないので、奈良県の桜井・吉野から取り寄せた。現在の仕入先は奈良県の吉野、福岡県の吉井・田主丸である。太平洋戦争で長男竹次、次男善次と2人の戦死者を出した原田家では、三男の参次が昭和21年家業に就業、昭和26年家業を引継ぎ2代目となる。昭和59年5月、有限会社原田製樽所となる。平成9年優秀技能者として佐賀県知事表彰を受賞。「現代の匠」としてテレビ新聞などで度々報道された。平成10年、参次の長男泰行が3代目として家業を引き継ぐ。創立当時は窓乃梅の指定工場として発足したが、その後天山・枝梅・高砂・千代雀と取引先を広め、現在は佐賀・福岡・熊本の九州一円、広島・奈良・東京都・秋田・石川と全国に販路をひろげている。享年76歳
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古賀 朋吉
明治45年〜平成9年(1912〜1997)技能士(石工) 久保田町徳万(町西)古賀常吉の長男として出生。家業である石材加工業を継ぐ。 生来、造形意欲に富み石材彫刻の研究に没頭し、師匠を求めて相知の石屋・遠くは山口県まで訪れ技能の修練を積んだ。作品の主なものは、仏像で、不動明王・観世音菩薩・地蔵尊等で、町内に残されている作品の1つに、太郎次郎社の西消防倉庫前の六地蔵がある。代表的な像は、東松浦郡北波多村岸嶽にある、法安寺の釈迦の捏槃像である。宗教心に厚く斎戒沐浴して彫像に取り組んだ。 昭和27年5月、岸嶽城址西88カ所の開設に当たり、仏像彫刻に精進した功績に対し、真言宗管長より「梧舟」の称号と、表彰状が贈られた。同年11月、日蓮上人開宗700年慶賀記念事業に宗祖の石像に専念した功績に対し、観照院権僧正より表彰を受ける。第24回建築士会全国大会では、伝統文化の発展に寄与した功績を称え、日本建築士会連合会より表彰を受けた。販路は県内から鹿児島・広島までに及んだ。享年84歳