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[旧佐賀市][巨勢校区]は76件登録されています。
旧佐賀市 巨勢校区
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牛島の内芦原
牛島540番地、藩政時代は鍋島山城守の所領で、佐賀江と巨勢川の合流点に位置する要地であったので、佐賀以東の形勢監視の任をもって、ここに侍屋敷を構え、射場、上納米倉庫も置かれていた。
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番所跡とみちしるべ
藩政時代、佐賀の城下にはいる東の入り口で、ここの橋を渡って城下に入る要所で、それにちなんで構口という地名になったと言われています。橋を渡った西側に番所があって武士が詰めていて、城下に入る通行人を監視していました。ここには、「番所跡」の標柱と、「ながさきへ」「こくらへ」と刻まれた石の道標があります。
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えびす像
構口交差点にえびす像があります。商家では福徳神とされてまつられています。構口が商家地区として広がろうとした姿でしょう。
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二木(ふたつぎ)大明神
巨勢神社の記録に、立川一族が鎌倉から今泉村(牛島下)に来て勧請したものに小二接神(しょうふたつぎのかみ)があって、牛島の三関(構口公民館付近)にあったが、いつのころか射撃場北浦(桜団地付近)に移されたと書かれており、今(天保のころ)三関の南に小二接神の跡という広さ1坪、高さ3尺の土地があると記されている。いつ、ここに移ったか定かでないが、祠には二木と刻されており、この地を二次(ふたつぎ)と言います。二接神とは神様の御旅所のことだそうです。
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馬頭観音
頭上に馬頭を乗せているので、庶民の間では馬の健康や死馬の冥福を祈る対象とされてきました。本来馬頭観音は大口を開いて衆生を救済し、疾走するように迅速に衆生を救うという功徳をもっているからと言われています。
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二十三夜尊
二十三夜塔には像と文字の刻像塔がある。文字塔が圧倒的に多いが、この塔は文字と像を刻まれた塔で珍しく、時期は不明です。地元の有志で小児天満宮とともに丁重にまつられています。
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小児(しょうに)天満宮
この祠は立川阿波守が鎌倉よりこの地に下向の折に建てられたと言われており、以前は至誠会病院の東隣にあったのをここに移されたそうです。 この祠は初め小児(おに)天神と呼んでいたが、いかめしくて差し障りが多かったので小児(しょうに)天神と改めたといわれています。この天神は、麻疹、疱瘡から守るといわれ、これらの病気流行の時は参詣者が多かったそうです。
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五の坪観音
西分の西北に五の坪と呼ばれた竹林に囲まれた所がありました。 かつて、ここに子安観音として多くの信者があったという「五の坪観音」の場所です。 天明の郷村地図にも明記されていますが、この観音は池田氏庭に大切にまつられています。 この地区には昔、高平寺や長専寺があったが、大友勢の佐賀攻めの時、逃げる時焼けたと言われています。高平寺は安福寺の東にあって、大正初めまで石の釈迦牟尼仏像があったそうです。 長専寺は三浦氏宅東付近にあったそうです。
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真崎式灌漑ポンプ
真崎照郷により大正10年頃に佐賀県最初の機械灌漑施設を開発。スタート時は5馬力のディーゼルエンジンで実施したが失敗、その後石油発動機、ガス発動機と改良を加え揚水施設を完成させた。 大正12年5月から電気揚水に改造され佐賀平野に広く普及した。 しかし、昭和20年の終戦後は鉄が不足し、そこで考案されたものが心臓部の動力部と下部の給水駆動部を鋳物で製造し、中間部をセメントと石綿を混ぜ合わせたもので製造し、苦境を乗り切った。 駆動軸は傘歯車で製造されており、騒音が激しく原動部のモーターとの噛み合わせも時々トラブルが発生したそうである。そのためにギア方式からVベルト方式へ農業生産者のほうで改善され、現在も修理田生産組合で大事に使用されている。購入されたのは、昭和27年頃とのことである。
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経塚(きょうつか)
東分上の原田氏宅西隣の松の木の下に小石が積まれている所を経塚と言う。昔は千住の経島寺が管理していたと言われ、伝えるところによると、昔大友勢の佐賀攻めのとき戦死した無数の霊を弔うため、小石に法華経を書き、これを埋めて塔を建ててまつったと言われている。今は松を植えて目印にしている。
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櫨(はぜ)の木・南京櫨(唐櫨)の木
佐賀藩第10代藩主鍋島直正公は、藩の財政立て直しや殖産興業を断行した。その中で、100年位前から九州各地で広がり、佐賀東部地区を中心に盛んだった櫨の栽培に1843年、筑後から仕入れた苗木25.000本を村々に配布し、佐賀で生産された蝋は好評で、巨勢村は中でも有名な産地であったようである。 真崎照郷氏は18歳で櫨から油と蝋を取り出す機械を発明したと記されており、巨勢村は有名な産地であったと思える。 昔は、クリークの周囲には大きな唐櫨(南京櫨)があったが、近年圃場整備、開発でほとんど見当たらなくなったが、構口、二木、修理田、高尾小路、西分の焼原川沿いに今でも大木が存在する。 東西(佐賀江沿いの地名)には当時「蝋屋」があり、佐賀江沿いに取引があったとされている。
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巨勢川
巨勢川は兵庫町東渕付近で市の江川、黒川、徳永川を合流して東流し、傍示で南に折れ、兵庫町や巨勢町の中央を流れ巨勢町南で佐賀江川に注いでいる。 市の江川は成富兵庫によって作られ(改修)嘉瀬川より水を引き入れ、さらに、傍示に砂堰を作り堤防の下に穴を作り巨勢、若宮、野中方面に水を引き城原川から引いた横落水道の水と合わせた水利事業で巨勢野は開発されて巨勢、兵庫地区はすばらしい肥沃の水田となった。 巨勢川は有明海の潮汐を受け兵庫町まで影響した。そこで、水運の便がよく、船が高尾まで昭和20年代に来ていた。水も清流で、しじみ、うなぎ、鯉等がとれ、高尾橋では朝早く桶をかついで飲み水などを汲みに来る人で列をなしていたそうである。 巨勢川は度々氾濫をおこし、堤防が壊れることもあったが大規模な改修工事が行われている。また、成富兵庫の勧めで、この川の所々に井樋が作られた。クリークの水が多いと、ここから水を落とし、不足すると淡水を引き入れた。
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佐賀江川
佐賀江川は多布施川、大溝川や巨勢川の水を集めて東に流れ東西付近から蛇行を続けていた。今度の大改修でショートカットし蛇行は訂正された。長い間蛇行は続いていたが、この蛇行は自然に出来たと一部は人工的に作られたともいわれてきたが、蛇行によって水流が緩やかになり、水運に便利だったといわれている。しかし、排水が悪く洪水を起こすこと度々であった。
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焼原川
焼原川は久保泉町川久保付近から兵庫町を流れ下流の平尾付近ではクリークのようになって流れ東西で佐賀江川に注いでいる。
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真崎照郷(てるさと) 藍綬褒章に輝く発明王
製麺機の発明で知られる真崎照郷(てるさと)は、天才的発明家で立志伝中の人であるが、その血のにじむような努力と苦労は世にあまり知られていない。嘉永5年(1852)12月12日、巨勢町高尾に生まれた。家は代々酒造業で、父は手腕家で世の信望も厚かったが安政3年35歳で亡くなった。この時、彼は6歳。父は「世を益し名を挙げよ」と遺訓したという。父の死後、賢婦人で家業の切り盛りを一人で行なう母親の手で養育されたが、母は「立派に家名を挙げ先祖にむくいよ」と戒めていた。彼は少年時代、政治家になるより、自分は世に生きる道は他にあるのだと考えていたという。 少年の頃、彼の心を強く刺激したのは、蒸気機関の発明者ジェームス・ワットの話であった。ワットの生命が蒸気機関の上に永久に生き、人類のために多大の貢献をしていることを考えた彼は、自分も前人未踏の発明界に身を投じ、世のために尽くしたいと決意した。こうして、最初の発明は、青年時代、軍籍時代の測量の体験から生まれた測量器真崎円度の発明で、明治7年24歳の時であった。 彼は、助手と共に測量のため田園を奔走していた時、麦畑の麦に気をとめた。麦の実は安いが麦粉からの素麺はその4倍の値になる。そこで、神埼などの手延素麺のような手間がかかり、熟練者でなければ市場価値として製品化できない状態ではなく、機械製麺にしたらどうだろうかと思いつき、明治9年26歳の頃から、製麺機の考案にとり組むことにした。こうして、研究、試作、失敗と製麺機の発明のための狂人的な生活が始まった。家業は使用人に任せ、酒造場は失敗した試作品の山と化した。知人、親類は、無謀な計画を止め、家業に専念するように説いたが聞き入れず、ついに、家業はおとろえ、発明研究のために、先祖代々の資産、田畑も手放し、悲惨な境遇におちいった。そして苦労を重ね、第7回目の試作の後、明治16年春、製麺機と製麺法の発明が完成し、機械製麺という前人未踏の新天地が開拓された。明治9年研究を志して以来、8年間の苦心難行を越えた努力の結果であった。この後は、特許権の獲得に苦労をしたが、明治21年3月、麺類製造機械という名称で、最初の特許権を得た。この後、大正10年までの間、29種の製麺機関係の特許を獲得した。さらに博覧会などでの受賞は64回にも及んだ。日清戦争後、にわかに需要が高まり、業務拡張、職工増員をし、さらに大阪に分工場を設けた。36年、大阪での内国勧業博覧会で1等賞を得たばかりでなく、明治天皇・皇后陛下が製麺機を御高覧なさる栄誉を得た。日露戦争後はますます販路も拡大し、明治40年、藍綬褒章が下賜された。さらに、明治44年肥筑で陸軍大演習が行われたとき、行幸された天皇は、彼を久留米大本営に召され工業功労者として拝謁された。また、米田侍従が工場を訪問され、彼及び従業員一同にご訓告と励ましを述べられるという栄誉がなされた。真崎鉄工場は製麺機のほかに、電気を利用する機械が将来性があると察知した彼の計画で、電動機、変圧機、電気開閉機、鉱山機械にも分野をひろげ、その需要に対応して日本電気鉄工株式会社を大正7年に設立した。この会社は、電力機械灌漑を創案し、クリーク地帯の農業に多大の貢献をしたことで有名である。また、昭和初めの恐慌で、電気開閉器の部門を戸上電機製作所が継承することになる。彼は発明事業ばかりではなく、郷土の村治に大きな力を尽くした。明治23年から大正11年まで、村長、村会議員、学務委員などをつとめた。とくに、大正6年67歳のとき、八田江改修を提案しその基礎を作った。大正11年には、村より第1回名誉職表彰状を授与された。さらに、大正15年大正天皇から発明奨励金が下賜され、帝国発明協会から恩賜記念賞ならびに大賞が下付された。この年12月、県知事ほか多数の知人、村人の手で真崎照郷翁表旌記念碑が巨勢神社境内に建立された(※)。そして昭和2年3月9日、77歳で病没した。真崎照郷翁は、郷土巨勢がもっとも誇る大偉人である。 ※記念碑は現在巨勢神社東の川岸にあり。
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真崎仁六 日本鉛筆工業の創始者
鉛筆工業の創始者・真崎仁六は、嘉永元年1月13日(1848)巨勢村高尾に生まれた。18歳の時、維新の風雲に遭い、長崎留学で英語を学んだ後、東京に出て郷党の先輩大隈重信が後援する日本最初の貿易商である日本起立商工会社に勤務し、金属工場の技師長として明治9年のフィラデルフィア博覧会に、翌10年パリ万国博覧会に製品出品のため渡欧した。 この博覧会場で美しく陳列された種々の鉛筆を眼にした真崎は、その実用性に驚くと共に、日本での製造を固く心に誓った。帰朝後、多忙な勤務の余暇に研究と試作をくり返し、5年後、目的の芯を作りあげた。さらに、軸木材の研究、工業化するための機械の設計に苦心を重ね、明治20年成算を得て職を辞し、真崎鉛筆製造所を設立し、本邦初の鉛筆工業が誕生した。製造法研究、工場経営、販路の開拓など苦心を重ね、明治36年「三菱」の商標を登録した。明治40年東京博覧会2等賞銀牌、43年ロンドン日英大博覧会1等賞金牌、大正3年御即位記念博覧会1等賞金牌を授与された。創造する心、不屈の精神の持ち主の氏を先輩に持つことは、町民一同の誇りである。
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秋山虎六 海軍少将、戦没者鎮魂碑文揮毫
秋山虎六海軍少将は巨勢町東分上の出身で、父勘助と母コマの末子として生まれた。幼年の頃から両親の厳しいしつけのもとに教育された。勉強好きで、特に読書に余念がなく、多人数で騒がしい自分の家を抜け出して近所の空家で学習に励む熱心さであったという。 佐賀中学時代は常に成績優秀であり、近所の子ども達を集めて学習指導に当る努力家であった。佐賀中学より海軍兵学校に進み、心身共にたくましい青年に成長し、特に第1次世界大戦では、陸戦隊長として軍艦の大砲を引き揚げて指揮し、ドイツの租借地である青島で攻戦して活躍したことは有名である。やがて海軍少将となり、墓参帰郷の彼の威容は素晴らしく、故郷の人々を圧巻した。また、巨勢小学校を訪問しては、児童たちに常に勉学の尊さと規律ある人間性を訓示として強調され、当時の校長山田秀作氏と懇談されている姿を一目見ようと児童達が職員室に押しかける有様であったという。帰郷の折は必ず佐賀弁で土地の人々を親身に励まされ、彼の故郷に対する畏敬の念は賞讃された。巨勢神社の戦没者鎮魂碑の書は、彼の筆になっている。
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真崎誠 乃木大将とともに学習院で皇太子教育
真崎誠は明治7年8月18日(1874)巨勢町下新村で、父真崎利平と母ツネの長男として生まれた。幼年の頃から秀でた知恵の持ち主で、大人を圧倒することも度々であったという。勉強好きで、佐賀中学校より第五高等学校に進み、さらに東京帝国大学の政治科と国史科を専修したが、常に成績優秀であり、特に大学時代には旧佐賀藩主鍋島家の奨学資金を授かった。明治32年には東京帝国大学大学院研究科を修了して、内閣総理大臣秘書官室及び内閣書記官室の勤務に就き、一方教育者として、当時の日比谷中学校、麻布中学校で教鞭を執った。明治35年には学習院大学の教授となり、学長乃木希典の指導のもとに教育活動に専念した。明治43年より45年まで、歴史地理学の研究と各国の教育制度調査を兼ねてフランスに留学し、ロシア及びヨーロッパの全諸国を見聞するとともに、アメリカ合衆国にも渡って視察を重ねた。帰国後は留学の成果を発揮して教育界で活躍し、大正2年の三重県師範学校長をふりだしに群馬県師範学校長、山口県師範学校長を歴任した。昭和3年にはその業績にもとづき勲四等瑞宝章を授かった。
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水町義夫 詩人・第4代西南学院長
水町義夫は明治18年(1885)2月16日巨勢村修理田に生まれた。明治45年に東京帝国大学文科を卒業して佐賀の成美高等女学校の教師となり、その後も、福岡の東筑中学校・中学西南学院・西南学院高等部で教鞭を執った。 学生時代、佐賀において、日本基督教会宣教師のピタズ氏より洗礼を受け、さらに北九州市若松で伝導していた尾崎源六牧師の指導のもとに、彼は熱心な基督教徒となり、その布教にも寄与した。 昭和2年9月より1年間、米国ケンタッキー州ルイビル大学に留学して英文学研究に専念した。特に英詩の研究をテーマとし、詩人としても活躍し、西南学院校歌は彼の作詞である。校歌には島崎藤村のロマンティックな精神と新約聖書の思想が強く歌われている。帰国後、彼は再び教育界に入り子弟の教育活動に全力を注ぎ、特に昭和8年より23年の長い期間にわたり西南学院長を務めたことは有名である。戦前、戦中における状況下で、基督教主義私学という困難を克服して、教育指導ならびに学校経営を守り抜いた彼の業績は高く評価され、昭和40年に勲三等瑞宝章を授かった。
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小森ナカ 日本婦人の鑑
嘉永元年(1848)3月11日、小森ナカは大字牛島5番地に生まれた。父は喜助、母はセツという。男子が誕生しなかったので、藤津郡吉田村の農業・宮崎慶次郎の二男清七をナカの夫として養子に迎えた。一家は小作農で生活は貧しかった。夫婦の間には1男4女ができ、和気に満ちて家運もよくなると思われたが、ナカが29歳のとき、不幸が襲いかかってきた。夫の清七が明治10年6月に病死、続いて父喜助も翌11年に、持病の喘息で長く病床についた。一家8人の生活が、ナカの肩にかかってきた。 ナカは心を強くして勤労に励み、農業の合間に、神社などの祭りに出かけ菓子・果物を商い、農閑期には縄をない、子どもの世話もよくみた。さらに、病床の老父の看護を精魂をこめて尽くした。しかし、明治17年父は病死した。その間7か年、孝養をつくし婦道を発揚したとして、明治17年3月佐賀県令鎌田景弼から表彰され、金1円が下賜された。 その後は、老母の孝養につとめ、娘たちを見事に育てあげ嫁がせた。母は、明治40年に亡くなった。小森ナカは、模範的な婦人像として、郷土に不滅の光をなげかけている。
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山崎クリ 孝女・母娘とも薄資善行賞受賞
クリは高尾宿の人で、温順な性格の持ち主であった。父は大正12年に亡くなり、母トラが日本電気鉄工株式会社の女工となって、家族6人を養うこととなった。一家の柱となり老父に仕え、子女の養育に力を注いだ。家は資産なく他からの援助もなく、貧困だった。そこで薄資善行者として金20円の後援資金が与えられた。しかし、大正14年4月、重病にかかり無料診療券により医療を受けることになった。このとき、本人クリは女工となり、勤勉に仕事に励み信望厚く、1日金1円の収入があった。15歳の少女の身で、一家の生計を立て、祖父と病母に仕えた。 大正14年申請された薄資善行者として金20円の資金が与えられた。一方、母の病気は重くなり、県立好生館に入院治療を受けたが、大正15年結核で亡くなった。その後クリは、ますます職務に励んだ。祖父清助は胃縮腎病にかかり北島医師の無料診料券で手厚い治療を受けたが、昭和4年に亡くなった。妹シカは長崎県埼土村に養子縁組をし、弟春次は唐人町植松薬店に奉公。本人と妹トウの二人暮しとなり、生計に苦労することはなくなった。山崎クリは、昭和4年12月、文部省から表彰された。
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巨勢大明神のお告げ
永禄9年、豊後国の大友入道宗麟が大軍を起こし、佐賀に攻め寄せた。元亀元年再び大軍を進め、その勇壮な進撃には佐嘉城はちょうど風前の燈のようであった。この戦いに鍋島信生公は命をかけられ長刀を揮い、巨勢大明神を拝し祈願をこめられると不思議にも快勝した。 その日、すなわち4月22日巨勢の宮に野営されたが、その事がただちに敵方に知れ、敵は夜討ちを企てようと忍びを入れた。ところが敵の眼には巨勢大明神のお加護で「佐嘉城より高尾口まで松明幾千万本とも知れず、その間を城兵はぐんぐんと繰り出している」のが見えたので夜討ちをついに中止した。実は佐嘉城からは一人の援兵もなく、また屯兵は昼の疲れで宵には厳重な用心にもかかわらず、みな具足を枕に寝てしまっていたらしい。 ついで、8月18日夜深更龍造寺隆信公が巨勢大明神の前を通過されると「敵は北山にあり、夜討ちして利あるべし」と、お告げがあった。その通りにしたら敵の総大将八郎親貞は討たれ、さしもの強敵旭日昇天の豊後勢も完全に潰滅してしまった。巨勢大明神のご利生に人みな驚くばかりであった(『肥陽古跡記』『神社調』巻末記載)。
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東西の「蔵福坊」
田原伊勢守尚明は大友宗麟の家臣であったが、今山の戦いの際、宗麟に諫言したが用いられず怒りにふれ浪人となった。そこで、龍造寺に降り、佐賀東西に領地を受け住むことになった。その長男は感ずるところがあって、修験者となり蔵福坊と称した。以後、天正7年には熊野権現社を同地に勧請し、氏名を代々世襲にし、明治20年ごろまで祈祷を続けていた。 蔵福坊の祈祷所は東西にあったが、勧請した熊野権現は現在、権現堂の修理田神社となり、境内には巨楠、老松あり、いかにも往時を物語っている。東分下を権現堂と呼ぶのはこの堂に由来する。また、この辺りを千本山というがそれは田原家調練所跡と伝えられている。 現在長江寺横、東西稲荷神社前(※)に建っている鳥居は、明治時代まで蔵福坊御坊397番地に建っていたものと言われ、「東西村高平山、保食社蔵福坊良政貞亨四年」と刻まれている。徳川綱吉の生類憐みの令が、出された年に作ったもので、歳福坊が専心郷土の五穀豊穣を祈願したものと思われる。この一大勢力を保持した蔵福坊も時代の流れには抗することができず、いつしか彦山権現に移ってしまった。 ※東西稲荷神社とは保食神社のこと。長江寺は保食神社そばにあった寺で、すでに廃寺である。
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修理田の「佐馬屋敷」
修理田1330番地、現在の修理田橋を川沿いに北に約300m上った所に、昔、佐馬守という豪士が住んでいた。いざ事ある時のための軍資金とするため、金の釜を作り屋敷下に埋めた。しかし、とうとう使用する機会がなく現在に至ったと伝えられる。 その屋敷は今は跡形もなく、水田となっているが、明治30年ごろ原要蔵という人が掘ってみたが発見されなかった。
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鬼喰さんの岩
昔、柳原に鬼喰さんという人が住んでいた。京に上って大相撲に入ったが直ちに先輩を抜いて大関になった。あまり出世が早いので妬まれ、毒殺を企てられた。そこで故郷に帰り農事の傍ら当時流行の宮相撲に出場していたが、いつも勝ちっ放しであった。こんなことから、勝ちっ放しのことを「オニキイさんの相撲」と言われるようになった。 ある日のこと、今日もまた相撲に出場しようと思い、秋の取り入れ時の事とて暗い中に飛び起き稲刈りに出た。ところがあまり急いだのでヤレギ(注)を鎌と間違えて、せっせと稲を刈り、東天ほのぼのと白んで初めてヤレギであったことに気付いた。その後は一株も切れなかったとの事である。 この大力士が毎日の日課に力試しをしていた力石がすなわち「鬼喰さんの岩」で、今では薮の中に、苔むして傾きかけた柳原天満宮のかたほとりに笹に埋もれて倒れている。 (注:ヤレギとは牛につける曲った棒ぎれ)
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東分の「雪隠角」と「柳原の裏門」
修理田311番地、現在の東島部落の東南、長崎街道筋にあって旧藩時代上使上下向の際、あるいは、佐嘉城入城前不浄のため、また任務終了後の帰途、身を整えるため大小便をした。「雪隠角」とはその公衆便所があった一角と言われている。 なお、その西南の土橋を「柳原の裏門」という。昔、ここに大庄屋が住んでいて、その大邸宅の裏門があったとも、上納米を蓄える郷倉があって門番がいたその東門の一の橋を裏門といったとも言われている。
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高尾の「堂屋敷」「八幡屋敷」
学校から西方約200mの地点で堀で囲まれた約5.500㎡を高尾堂屋敷という。また、池田氏宅堀南を八幡屋敷という。現在水田や住宅地で何の変哲もないが、藩政時代は佐賀の東の入口で、一大要害所であった。ここに城郭があって竈王院などもその城郭の一角であったと言われる。(明治24〜5年までは小笹や松が生い茂り荒蕪地であった)また、その西には「藤棚があり江戸への参勤交代の際の送迎の地であった。なお、その辺りには慰安所が置かれ、昭和の初めまで名残りを留めていた。
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高平と「長専寺」「高平寺」
修理田451番地の堀に囲まれた一角を長専屋敷と呼ぶ。ここには昔「長専寺」という一大寺院があったと言われる。その東北の角には大正時代まで1本の巨楠と薬師堂があった。今は「ヤクシドウ」という地名として名残りを留めている。またその南を「サラマチ」、西南を「寺町」と呼び、竹薮からは墓石が発見される。 なお、この地は古文書によれば「古溝が里」と記され、今宿江と巨勢川の合流地であり、佐賀東の入口として重要な船運の地であり、交通運輸の中心地であった。 長専寺の北には高平寺があり、いつの時代からか一帯を「高平」と呼ぶようになった。高平寺は大友宗麟の佐嘉城包囲の際焼失したと伝えられる。 現在の巨勢町の中心地、高尾・平尾などは後年開けたので高平の尻尾の意味だともいわれ、昔の高平とは現在の西分・東分下・東分上を称した。
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巨勢郷では粟は作らない
巨勢郷開拓の祖は巨勢大連であるが、現在の巨勢町内には住んでいない。実際に巨勢町内に家屋を構え住んだ人は立川阿波守が最初である。阿波守は第93代花園天皇の延慶年間に鎌倉の今泉村から下向し、今の下新村に住んだ。巨勢大明神を瓦町の老松明神の森から現在地に移し祀ったのも阿波守で、住民の面倒をよくみた。ところが、ある日のこと、この阿波守が領内巡視の際ふとしたはずみで粟のとげで目をついて苦しまれた。それで巨勢の住民は大変にはばかって、その後は粟を作らないようにしたといわれる。
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高尾美少年の墓
昔、高尾に龍造寺政家公のお小姓で中島山三という者が住んでいた。年は13・4の女にしても見まほしい美少年であった。ふとしたことから佐賀市辻の堂、百武武次郎という武士と契りを結び一夜を明かした。その後、武次郎は山三の登下城には、道筋の橋側に待ち受けて見送りなどし、その仲はいよいよ深まった。 『肥前夜話』には山三の風情を「顔は面長で透きとおるほど色が白く殊にふっくりとした淡いバラ色の頬の辺りなど触れなば溶けんかと疑われるばかり、目は黒瞳がちで睫毛が長く物を見るそのまなざしは言うべからざる一種の温かい情がこもっている。それに鼻筋通って花英(はなぶさ)のような美しい唇、背たけもまたすらりとして、服装はといえば紫曙染の大振袖に朱色の下着、茶宇の袴を穿ちて黄金造りの大小を帯びたる、その姿の凛々しくもまた気高さ…」とある。 ところが、2年経て山三は政家公のお伴をして上京のさい、船中で不幸病魔におかされ死亡した。遺骸は竈王院境内に葬られた。『肥前夜話』に「古今無双の美少年山三逝いて春風秋雨三百年、雑草茫々の中に碑石苔蒸して淋しく跡弔う人もなく…」とある。