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[旧佐賀市][北川副校区]は65件登録されています。
旧佐賀市 北川副校区
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綾部神社参り
綾部神社は中原町原古賀にあり、祭神は、応神天皇、神功皇后、住吉大神、武内宿禰、風神(級長津彦神、級長戸部神)で風の神様として有名である。水田の仕事の合間をみて九州一円よりの参詣(さんけい)者があり、7月15日の夏祭りを旗上げ祭りと名付け、境内にある大公孫樹(御神木)に真竹の先に麻の旗をくくりつけて上げ、その旗の巻き具合で、その年の稲の出来ばえや、大風が吹くか、吹かないかを占うようになっている。10月の旗下しまでひっきりなしの団体参詣があって門前には接待茶屋があって賑合を見せている。今は昔程の賑合はないが、金立山さん拝りは少なくなったがここはまだ参詣客も多く、綾部餅が有名である。 地区でも全農家が揃ってお参りしお守り札を載き帰って神棚に祀るようになっている。 今ではこの綾部さん参りがただ一つの農村のレクレーション行事になっている。
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風浪神社参り
12月の末には大川市にある風浪神社に、地区中で参っていた。佐賀線がなかった頃は、諸富の渡し舟で渡り、神社の境内では、佐嘉神社の祭礼のように露天店がならび、見せ物小屋が建って賑やかに客を呼んでいた。帰りには風邪引の薬になるといって串に差した吊し柿を買って来るのが習わしになっていた。これも昔の懐しい思い出の一つであった。
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御日待
師走の15日におひさまに感謝する、御日待の行事があっていたが、ほとんど中止されて、今では何地区かで行われているのみである。
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ほんげんぎょう
呼び名はどんと・どんとやき・さぎちょう、九州では鬼火焚きなど、いろいろな名前がある。火の気の行と言い、天台密教の法華行(ほっけぎょう)からの説もあるが定かでない。 正月7日に門松やしめ縄等を持ち寄り、村のはずれ等で焼いていた火祭り行事で、この火で焼いた餅を食べると1年間幸せであるといわれており、以前は各地区で実施していた。 しかし、昭和53年からは北川副小学校PTAや農政協議会が主催し実施をした。 その後、各種団体が積極的に参加し、平成元年からは1月7日に近い日曜日の早朝に、北川副町の1大イベントの1つとして、森羅万象火の神をお迎えする伝統行事として守り継承している。 この行事は北川副校区各種団体14団体が一致協力して、北川副小学校グラウンドで実施している正月行事である。 なお、前日は櫓組のため孟宗竹(300本)の切り出しやもぐらうち用の棒つくり、カッポ酒用盃作りなど、ほぼ1日かかって準備をする。
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もぐらうち
正月14日、地区中の子どもが集り、モグラ打ちをするのも、楽しみの一つだった。高等科の生徒の先導で、竹竿の先に藁を細縄でしばったモグラ打ちを持って、1軒1軒門先をたたき、歌を唄いながら廻って、餅や小銭(5銭、10銭)をもらった。終るともらった餅や銭を分けてもらい嬉しかった。 「もぐら打ちの唄」 ♪ナレナレ柿の木 ナラズの柿をばナレとぞ言って 千ナレ、万ナレ、億万ナーレ 俺がチギッときゃ 畑の真中にナーレ 人のチギッときゃ 堀の真中きゃナーレ 十四日のモグラ打ち
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川神さん祭り
5月になり、水田の準備が始まり、川の水かさが増すと、子どもの水難除けのための川神さん祭が各戸で行なわれた。藁で円坐を造り、魚や馬鈴薯、豆腐等の御馳走をそれに乗せて川に流し、子どものこの年の無事を祈ってもらった。そして川副町南里の八幡宮(ひゃーらんさん)へ参詣(さんけい)するのが習わしであった。
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七夕祭り
今も続いているが、大正時代も行なっていた。朝早く起きて丸盆と、「ドンブリ」を持って、田圃に行き稲葉に宿る露を盆ですくってはドンブリにためて、その露で、墨をすり、5色の色紙をたんざくに切った紙に、七夕、天の川や名前等を書いてこよりでササの枝にくくりつけて軒先に立てて、七夕さんに願をした。
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千灯籠祭
千灯籠祭も夏休み中の子どもの楽しい行事であった。武藤の公民館の前の石仏さんの祭りをするために、地区はもとより、他地区まで、千灯籠、千灯籠と言って豆やお賛銭をもらって廻り、母達にもらった豆をたいてもらった。もらった金で、お供えのお菓子を買ってきてそれを供え、1日中それを食べて遊んだ。後ではこのような金をもらって廻る行事は中止させられた。
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郷土芸能「しゃーの毛」
西宮社に伝わる神輿祭の行列浮立で、大名行列をまねたのが始まりだと言われている。 (始期) 龍造寺家門公・鍋島直茂公・鍋島勝茂公が、慶長9年(1604)に西宮社の宝殿を再建されたこの頃から、春秋2回の御神幸が始まったといわれている。 (実施場所) ・ 西宮社の境内 ・ 角町と阿高、光法・光法団地と光法新町、山津と犬尾、増田と増田宿、小杭・野町と福田、水町と諸富町山領の各地区を毎年2〜3地区廻る (開催日) ・ 秋の大祭の時のみで、10月20日に近い日曜日に開催 (以前は、春は4月20日、秋は10月20日の年2回の例大祭の時に開催していた) (道具) (1) しゃーの毛 5本 ・長さ3.3m 重さ4〜6kg ・柄は樫の木で毛倉の毛の部分は馬の尻尾の毛等で廻すと円盤形に広がる (2) 挟み箱 2個 ・大きさは100cm×50cm×50cmで柄がついている ・箱は杉板、柄は樫板を使用 ・書類や常備薬等が入れてあると思われる。 (3) 御神燈 14灯(直径40cm、長さ130cm) ・上は番傘1m、紅白の花飾り、その下に円筒形の提灯1.3m、握り部分2m (4) 堤灯 2灯(楕円形) (挟箱持ちの向上) 1 ここから お江戸は三百里 2 ひょうたん ばかりがうきものか 裸で道中が なるものか 私の心も ういてきた ドッコイ ドッコイ ショーナ ドッコイ ドッコイ ショーナ 3 こーら こーら 4 まいこんだ まいこんだ こんにゃく みそをつけたら えびすさんが まいこんだ でんがくよ 西宮に まいこんだ ドッコイ ドッコイ ショーナ
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山津地区の祭り
(1) 祇園祭 釈迦の教えに帰依する祭り行事として行われている。 大人・子どもが集まり、地区特有の行事であり、お経に始まり、終了後子ども達にはお菓子が配られる。(以前はご飯が出されていた) 昔、若い人(男女)が田植え後小城町の清水に行き滝に打たれ、今年の田植えに感謝すると共に農作物の豊作を祈った。農民のお米に対する祈願が表されている祭りでもあった。 (2) 若宮祭 京都八坂神社に始まり全国に広がっている祭りである。「給孤独園」仏教の教えとして行われ、疫病を追い払う、つまり厄払いの行事である。大人も子どももあらゆる病気から守ることが目的で、小さい社で大きな魚を煮て子ども一人ひとりに、ハシで食べさせていた。 (3) お稲荷さんまつり 唐津の鏡山に神社があり、7月にお参りに行き、1月は唐津からお参りに来られる。お稲荷さんなので、男女(特に女性の願い)の神様であると考えられる。お供えに「オックウさん(三角の円錐に握ったおにぎり)」が供えられている。日本で一番多く祀られている神様である。 (4) 天神さんまつり 12月に行われていた祭りで、若宮祭りと同じような祭りで、今は行われていない。
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八田江川(八田江・八田江湖)
八田江は有明海に注ぐ延長8.2kmの感潮河川、満潮時は八田橋付近まで逆流する。常時は水量も少ないが豪雨時は水面が上昇し、時には冠水被害を受けることもある。以前は多布施川の下流八田橋近くの石造樋管を起点としていたが、昭和7年(1932)11月より、八田橋から東北にある枝吉へ新水路造成に着工、10年の歳月を経て昭和17年5月竣工した。工事中、川床約2mのところから大型の牡蠣殻が掘り出され、この辺一帯が太古は海であったことを証拠だてた。枝吉樋門もこれと同時に完成した。
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福満寺102代の住持
室町幕府が衰え、群雄割拠の戦国の世を迎えた。九州でも、九州探題の今川氏に対して、大友、少弐の両氏が手を握って対抗し、佐嘉地方でも、龍造寺氏を中心にして、攻防が繰り返されていた。 享禄4年(1531)大内義隆が、将軍の命を受けて、少弐氏討伐のために攻撃をしかけて来た。少弐資元、冬尚父子は、高祖城から多久梶峰城に退いて来たが、敵が綾部城(中原町)に攻め入ったので、ついに勢福寺城(神埼郡)に逃れて来た。 龍造寺家兼は、これを迎え、江上元種に守らせた。10月になって、大内勢が勢福寺城を包囲したので、家兼は和睦の申出を受けて、勢福寺城を明け渡した。しかし、大内氏が次々に少弐氏の所領を没収したため、12月29日に多久に走り、松法師丸(冬尚)は蓮池の小田資光を頼って、小曲城に入った。 大内軍は、なお手をゆるめず、武雄、上松浦などの豪族を合わせて、多久梶峰城を包囲したので、防ぐすべもなく、城を抜け出て、譜代の家臣今泉播磨守、窪、平原の3人を呼び、7歳になったばかりの元盛の後事を托して、自殺して果てた。そこで元盛主従は、北川副村江上の福満寺に身を寄せた。 その後、今泉播磨守は、雲水に身をやつして、諸国行脚に出て、少弐家の再興を計ったが、幕府が、再興を許さなかったので、ついにあきらめ、剃髪して仏門に入り、101代の住持となり、また元盛も仏門に入って102代の住持となって、余世を送った。今も、その墓が残っている。
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古賀傳太郎
明治13年(1880)に生まれ昭和7年(1932)に亡くなった、北川副町出身の陸軍大佐。 明治34年(1901)士官候補生として騎兵第3連隊に入隊、日露戦争に従軍。39年功5級金鵄勲章授賞、昭和6年(1931)満州事変に出動、7年1月9日錦西城付近で勇敢に戦闘、羅南第27連隊長として戦死する。 その戦いぶりが当時軍国美談として、著作(「鳴呼壮烈古賀連隊長」外)や演劇などで喧伝され、佐賀城内に銅像が建った。
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古賀喜三郎
弘化元年(1844)に生まれ、大正3年(1914)に亡くなった、佐賀郡北川副村古賀に生まれた教育者。 父は、平尾吉左衛門、幼くして同村中野古賀家の養子となる。安政年間(1854〜1859)15歳で佐賀藩陸軍所に入り砲術を修め、技能優秀3年の後免許相傳を受け、長崎伊王島台場司令を命じられる。在任6ヶ月にして帰国し、維新に際し九條道孝に従い砲隊司令として奥羽征伐に参加した。平定の後大総督宮殿下から感状を賜り、後藩の兵術訓練部長に挙げられる。明治5年更に海軍兵学校幹事として奉職し、海軍中尉から少佐に進み、14年予備役仰せ付けられる。その後、海域学校の前身一貫舎を創立して専ら海軍軍人志望者の養成に努め、以来宅地家財及び恩給等全部を学校のために尽くし、32年4月には校舎を拡張して日比谷中学を創立する。39年同校を私立海城中学と改称。この間卒業生を出すと三千余名内海軍将校一千余名の多きに達した。墓は東京麻布の賢崇寺にある。
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野田常貞
嘉永4年(1851)に生まれ、明治40年(1907)に亡くなった、佐賀市北川副町古賀出身の政治家。 明治5年(1872)東京でドイツ語を勉学、7年(1874)帰郷「尚風社」を興し、法律を研究、弁護士となる。武富時敏と共に「肥筑日報社」を設立、政界に入って進歩党に属す。16年(1883)県会議員となり、21年(1888)議長となる。27年(1894)衆議院議員となるも1期で辞め、再び県会議員となり議長職を長く務める。30年、農工銀行設立のとき頭取となり、佐賀県経済界にも貢献した。
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北川副の形成
筑紫次郎と呼ばれ、九州一の暴れ川の異名を持つ筑後川は、九重・阿蘇の両火山に、その源を発している。 延長123kmに及ぶ筑後川は、流域の山地を浸食して、大量の土砂を運んで、有明海にそそぐ。 5.7mという日本一の干満の差を持つ有明海の潮流作用と相まって、沿岸に土砂・遊泥が堆積され、数千年の長い歳月を経て筑紫平野が形成されてきた。 干潟の成長量は、河口に近い川副地区で年間7cm、東与賀地区で4.5cm、白石平野で1.5〜2cmにも及ぶ。 この成長量から逆算すると、縄文文化の中期(5,000年前)頃は、神埼町横武、高木瀬町東高木、金立町下九郎、鍋島町森田、三日月町四条の線が、海岸線に当たるとされている。 弥生文化時代の初め、約2,300年前から自然陸地化の開墾が始められたようで、鎌倉時代になって、土地の所有権が認められるようになった。 特に、元軍が来襲した弘安の役(1281)の後は、その論功行賞による領地の配分や食糧確保に迫られ、いよいよ人工による開拓が進められた。 鍋島直正公伝によると、天明3年(1783)行政整理によって、六府方の組織ができ、その中に佐嘉湾海(有明海)の干拓を行う搦(からみ)方が設けられ、干拓が行われるようになった。 約2,000年前の居住圏の南限は、旧国道34号線の牛津〜佐賀〜詫田の線になっている。 西暦1300年頃は、おおむね海抜3mの川副町米納津・南里・本庄町上飯盛の線となっており、1600年(戦国時代の末期)頃は、海抜2.3〜2.4mの犬井道・小々森・広江の線までが、南限となっているものと思われる。 ちなみに、江上町にある標柱は3.6mであるが、文献によれば、大治5年(1130)に、川副荘園からとれた米が献上されていることから、それより前に、北川副町の集落が形成されたと考えられる。
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光法村(郷制以降)
(角町村、阿高村、新村を含めて呼ぶこともある。) 寺井津に至る街道に面して、幕府の巡見使の巡回路であった。寛政元年(1789)の巡見録には、石高682石余、人口290人、家数50軒余と記されている。
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山津村(郷制以降)
(増田村、深町村、犬尾村を含んでいる。) 小字の山津村は、長安寺を中心とする集落で、明治7年の佐賀戦争の激戦地であり、新川改修から用排水の重要な地であり、明治になって、大字光法に編入された。犬尾村の寛政元年(1789)の巡見録には、石高777石余、人数340人と記されている。龍造寺と小田両家の激戦地であり、佐賀戦争の戦場ともなった。かなり大規模の農業が営まれていた。村の中心に光教寺がある。明治になって、大字光法に編入された。またここには村長もされた村医の今井正太氏がおられた。
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増田村(郷制以降)
(宿を含む。) 石高257石余、人口120人、家数20軒余とあり、地成(反当たり年貢米)9斗2升、佐賀本藩の直轄領であるが、佐賀郡代・川副代官の支配を受けていた。明治になって、光法村に編入された。
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江上村(郷制以降)
村別概況によると、江上の地名の由来は、神埼郡城原城主江上家種が、福満寺の近くに居住していたためといわれ、館という地名も残っている。 本藩領に属し、石高682石、人数290人、家数50軒余で、伝教大師の開基と言われる福満寺の領内として栄えた。村役場や産業組合事業所が設けられた村の中心である。
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江上町(郷制以降)
蓮池往還の宿場町で、寺井津街道との合流点で、早くから栄えた宿場町であった。巡見録によると、人口250人、家数50軒であった。 川副郷の上納米を収める米倉が6か所にあり、その一つが江上町にあったと記されている。大正時代まで、佐賀江沿いにあった、深川という地主の小作米倉庫が、それではないかと考えられる。 また龍造寺と小田両家の争いの場であり、佐賀戦争の戦場ともなった。旧家には銃弾の跡や、銃弾で穴のあいた水がめが残っていた。また庄屋を務め、村長も務めた旧地主の轟木家がある。
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木原村(郷制以降)
木原、古賀、武藤、安住などの集落がある。 木原は、蓮池城主小田氏と龍造寺氏のたびたびの戦いの古戦場としての記録があり、化猫騒動の時、化猫を退治した千布本右衛門の屋敷もある。日枝神社、阿弥陀寺、宗専寺がある。武藤には、十八羅漢の石仏がある岩松軒(がんしょうけん)禅寺がある。また村長をした中島弥太郎宅がある。
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枝吉村(郷制以降)
江上町と同じく、街道に沿った郷宿村で、佐賀の城内に近く、佐賀江の港今宿を控えて番所が設けられていた。天正12年(1584)、筑後出身の豪族田尻鑑種は、巨勢郷を中心に、200町歩の知行地を得た。そのうちの枝吉分として、徳田5町6反8畝、徳屋敷1反9畝、作田2反2畝を領している。後に鍋島に編入される。 明治になって、木原村に編入された。大正時代、今の枝吉団地のところに1周400mの草競馬場があって賑わっていた。また、この村に県立病院眼科部長をつとめられた高島眼科医院があり、打血の薬が有名である。
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新郷村(郷制以降)
八田江の東部低平地の水田に囲まれた村で、八田村、下武、今村などを含めて、総称されることもある。永仁2年(1294)頃、すでに新合名が記されており、川上社の地蔵菩薩の供用米を、新合名で奉納している。 これは、元享元年(1321)藤原能泰の田地避状写しに、「河上宮地蔵菩薩田料、河副庄新郷、右地用米毎年二十一田代に奉引田二町」とあることで、確認できる。これは、当時土地開発が急速に進められる過程において、神社・仏閣に土地寄進が行われていたものと考えられる。
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八田宿(郷制以降)
城下から犬井道・早津江方へ行く街道に面する八田に沿った街道である。八坂神社、粟嶋神社がある。臨済宗南禅寺派の大応寺は、地蔵菩薩がご本尊で、歴代藩主の尊崇を受けていた。また、八大竜王が祀られているのは、高潮の災害があったことを物語る。 新郷の本願寺は、慶長7年(1602)に、藩士の吉田太郎衛門が建立したといわれ、川副七薬師の一つ、楠材の薬師如来を本尊とする。 八田宿は、八田江の海運の港があって、番所跡、荷揚げ場の跡が残っている。 阿高村も光法村に編入されるが、早くから地名が出ており(正保絵図)、弘照院がある。 角町も、明治になって、光法村に編入されるが、阿高・山津に接した佐賀藩の直轄領であって、村内に大国主命を祀る西宮社がある。 佐賀市重要有形民俗文化財に指定された、石造エビス坐像がある。
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クリークの思い出
化学肥料のなかった時代は、泥土は地力増進のためには貴重なものであった。各年毎に、裏作、休耕田、地力維持のための泥土揚げに力を入れていた。泥土は、「ブイ」といった荷負道具で、田圃に配られていた。 石井樋からの水が止まり「干落ち」となって泥土揚げが始まると、学校から一目散に走って帰り、勉強道具を投げだし、手網とびくを持って、泥土揚に行き、泥んこになって夢中で魚を捕った楽しい思い出が、今でも忘れられない。 そのころの田舎の蛋白源は、鶏と川魚が主なものであった。 鯉、鮒、鰻、鯰、ドンコー、ドジョー、はや、それから亀もよく捕れた。泥土揚げでとれた魚は、出役の人数で、クジを引いて分けられていた。その鮒は、串に差して焼いたものを吊るして保存しおかずにしていた。 夏には、よく鮒釣りをした。棚地で、米をといだり、食器や釜を洗うので、米粒や飯粒が落ちるので、鮒が集まり、夕方はよく釣れていた。昼には、川岸に浮いている鯉をホコで突いて取った。また竹で作ったドーケで、底に泥と米ぬかを塗って川岸に沈めて、朝と夕方上げると、よく鯉や鮒が入っていた。夏休みの一つの楽しみであった。 また、朝から夕方まで泳いだり、「ヤモ(とんぼ)合わせ」という遊びに夢中で時を忘れて、「もっと早く帰らんばー」と、度々母からしかられた。 ほかに、堀のあちこちに、アバ(足場小屋)を作り、梅雨時など、四っ手網で魚を捕った。秋から冬にかけ、投げ針にドジョーや雨蛙を餌に付けて、夕方川にかけておくと朝には鰻や鯰がよく掛かっていた。 農閑期には、新郷の原口さんたちが、川鵜を使って漁に来られ、鵜が川に放されると、鵜に追われた魚が岸近くまで逃げてくるので、それを前かきですくって捕った。 秋になると、菱の実がよく採れる。地区では、15区くらいに区分して入札が行われていた。菱の茂り具合で、50銭から1円50銭ぐらいで入札されていた。「ハンギー」に乗って菱の実を穫り、大釜で蒸して夕涼みの番台(バンコ)で、皆で食べるのは、そのころのなによりの楽しみであった。 千代田町や久保田町は、クリークが多く菱がよくとれるので、農家の嫁たちは町まで出かけて、「菱ヤンヨー」とふれ歩いて売っていた。佐賀の夏の懐しい風物詩であった。 霜がおりる頃になると川には、川蟹やハクラ(すすき)、亀などが下ってくるので、流れの早い土橋の下に、芦(よし)ずを張り、竹で編んだ「うけ」をつけて、魚をとった。 川漁は、1年中よく行われていた。菱や(うけ)の入札の金が、地区の財源になっていた。 藩政時代の灌漑は、「カッポ」と言って、木の桶に両方から縄をつけたもので水を汲み上げていた。郡代官が巡視に来て、この様子を見て余りの重労働に驚いて、「1日に2反ぐらいの水を汲めるのか」と聞いたのに対し、「1日に8反分ぐらいの水を汲み上げる」と答えている。これを見ても昔の百姓の苦労は、並大抵ではなかったことが良く判る。 安永3年(1774)「此年以来、水車始まる」という記録が残されている。水車ができて灌水能力も上がり、大分楽になったとは言え、今から思うと、やはり重労働であった。 高い田に水を揚げるのには、2段、3段とついで揚げるので、小学校の5・6年になると、水車の前乗りをさせられて、泣く思いをしたことを覚えている。しかし、田圃に鯉を養殖してあって、だんだん大きくなった鯉が、水口に集まって来るのを見るのが、せめてもの慰めであった。 大正11年頃、今のような電力による機械灌漑が始まり、労力軽減に大いに役立ち、農業経営が非常に楽になった。農業の機械化の第一歩である。電線が張り廻らされたので危ないから凧上げが中止になった。 機械灌漑によって水車を踏む必要がなくなり、上水道の普及によって、飲料水取水の必要がなくなった。そのため、川への関心がうすくなり、農薬による汚染が進むにつれて、河川の荒廃も急速に進んで来て、用排水機能がいちじるしく低下して来た。 そして、国際情勢が変わると同時に、農業を取り巻く情勢は、きわめて厳しいものがあり、農業経営の合理化のために、農業基盤整備が急がれてきた。
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徐福伝説
今から約2,200年前、皇霊天皇の72年、万里の長城を築いた秦の始皇帝の第3子徐福が、始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求めて、20隻の新造船に、若い男女500人を連れて、五穀を初めさまざまの品物を持って、蓬莱(ほうらい)の国日本に向って船出した。 そして、九州に現われ、有明海に入り船を着けたのが、諸富町搦(からみ)であった。 そこで、長旅の疲れをいやし、由緒ある土地であるからとして、美しい宮を建てたのが、金立神社下宮となっている。そして、手水を使うために井戸を掘らせた。そこを、テライ(手洗いの意)と名付けた。園田家に保存されている。 徐福は、しばらくここに足をとどめていたが、つれづれなるままに、里人と共に舟を浮かべて、酒宴を開いた。歌をうたい、盃を浮かべて、酒をくみ交わしていると、その盃の浮かんだ所から、白い泡が出て渦を巻いたかと思うと、一つの小島が浮かび出た。 これからこの島が浮盃と名づけられ、どんな大潮が押し寄せても沈まなかった。(現在の浮盃は、いつの間にか地続きになっている)。 幾日か後、徐福の一行は、ここを出発して北の方に見える山へ向かった。道という道はなく、一面青々とよしが茂っていた。行々子(よしきり)が声を立てて鳴いていた。一行は、よしを押し分け押し分けて進んだ。このよしの片方の葉だけが落ちたために、片葉のよしとなって、今でもそれが生えている。 よしの原が続き、道らしい道もなく、難渋したので、持ち合わせていた布を敷きながら、今の三重から水町を通り、北川副村の光法から、江上町、枝吉、そして紺屋町、柳町、呉服元町(金立さんのお下りの道)を通り、やがて山麓に分け入ったのが、金立村の入口であった。そこまでに敷いた布が1,000反に達したので、その地を千布と名づけたと伝えられている。 徐福の一行が、金立村の入口に到着すると、源蔵という里人が、ていねいに出迎えた。源蔵は、この辺の豪族で、酒屋を営んでいたが、邸宅も大きく酒などを出して、遠来の客をもてなした。源蔵には、お辰という美しい18になる娘がいた。 蓬莱の美酒に酔った徐福には、花にもまごう日本娘のお辰の風情に、若い血を湧かせ、お辰も、たくましい体に異国の服をまとった徐福に心を引かれ、二人は激しい恋に結ばれて、人目を忍ぶ逢瀬を楽しんだ。 やがて、源蔵に案内されて、薬草を探しに、山に分けいった。「ほんとうに、不老不死の薬は、この山にあるか」と尋ねる徐福に、源蔵は、「必ずありますから」と安心させて、方々を探し回ったが、なかなか見つからなかった。 ある日、二人は痛む足を引きずり頂上の裏の方に行くと、白髪童顔の仙人が、しきりに釜の中で何かゆでている。ニッコリ笑って、自分の方から「何のために、こんな所まで来たのか」と問いかけた。「実は、不老不死の薬草を探しているが、見つからず、困っている」と答えると、仙人はカラカラと笑った。「心配はいらぬ。この釜の中のものが、それじゃ。わしは千年も前から、ここに来て、こうしてこの薬を飲んでいるのだ。おかげで何年たっても年はとらず、この通り元気だ」と言って腰をたたいて見せた。 「この薬は、この山の横から谷あいまで、岩の間や大木の根などに生えている」と言って、取ったばかりの薬草を渡したかと思うと、立ち昇る白い湯気と共に消えていった。 二人は、大変喜んで、あちこち走り回って、たくさんの薬草を採集して、みんなで飲んで、若さを楽しむことができた。 徐福は、すぐにもこの薬草を始皇帝に贈って喜ばせたいと思ったが、海路は余り遠く、贈るすべもなかった。一行中には、500年も生きたと言われる者もいたが、いつの間にか死に絶えて、伝説の夢を追う人々の話の中にのみ生きている。 徐福が求めた不老不死の薬草は、「現在金立山に生えている黒蕗(くろふき)がそれである」と伝えられている。植物学上ではウマノスズクサに属するウスバ細幸と称するもので、(みちのね草)(谷アフイ)(みやぬな)などと言われている。 今史跡として残っているものは、搦の上陸点、金立神社下宮(今移転して搦の青年会場)、浮盃、寺井の井戸、片葉のよし、千布のお辰観音、源蔵屋敷の源蔵松などがある。 また、伝説にはいくつも言い伝えがある。 徐福は医学者で、長寿を願う始皇帝は、多くの者に医学を学ばせ優遇したと言われ、徐福もその一人という。 徐福の渡来も、単なる薬草探しではなく、日本に対する移民政策だと言う人もある。3,000人位の人が、徐市、徐名、徐林、徐福たちに連れられて、日本に渡って来て、農耕や漁法を教えて土着したり、他に移動したりして、方々に伝説を残しているという。 九州でも、先ず伊万里に着き、黒髪山に登って薬を探し、それから有明海に入り、竜王崎に来た。薬草のある所がわからない徐福は、「大盃を浮かべて、それが流れついた所で、薬草を求めよ」とのお告げを受けて寺井津の搦に着いたとも言われている。 また一説には、神武天皇のご東征の順路と共通点があるとして、日向を出発して大船団を率いて、男軍、女軍に分けて、東に向けて移動し、崗水門に着き、両方共に熊野に到着して、そこに留まって、多くの史跡を残したと言うのである。 神武天皇と徐福は、その通過した道順一帯から、弥生文化の遺物が出土した。神武も徐福も、同じ様に大きな弓を使用した。日本開国に出てくる神話と徐福の国の神話が同じであるという。神武と徐福は、歴史の舞台において、同じ時代に、同じ地に出現した卓越とした人物として、なかには同一人物論を説く学者もいる。
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福満寺の回国塔
福満寺の門前に残る回国塔は、高さ6尺余りの花崗岩で、少し傾いて建っている。前面には、中央上部に仏像を彫り、その下に「大乗妙典回国之塔」の8字、右側には、「天下泰平」、少し下に「奥州津軽」、左側には、「国家安全」、同じく少し下に「行者諦賢」、また裏面には、年月日が刻んであったようだが、「享保年間」とだけしかわからない。 享保2年(1717)春3月、彼岸会の最終日、寺の門前を訪れた一人の六部経持ちの旅僧は、見たところ40年輩の頑丈な男、やや面やつれはしているが、一文字眉で髭はぼうぼうとしているが、精悍の気がみなぎっている。伏し目勝ちにため息をもらし、両眼に涙を浮かべて、何か意味ありげであった。旅僧は「お頼み申し上げます。お願い申します」と、応待に出た老僧に、「奥州津軽の生れで、諦賢と申します。実名だけは、お許し下さい。私の犯した恐ろしい罪は、ザンゲいたします」と申します。「それで回国なさるのか。何はともあれ、罪業消滅のため一切ザンゲされるがよい。私も相談にあずかりましょう」と答えた。 私は、奥州津転の岩木川のほとりに一家を構え、渡し守をして、夫婦二人食うや食わずの貧しい暮らしでした。正徳12年(1722)5月、降り続く雨に、今日は風まで強く吹き込んで、水かさは増し、ごうごうと渦まき流れていた。 床に入ろうとしたとき、「船頭さん、船頭さん。ご用じゃ、お上みのご用じゃ」と言う。 諦賢が驚いて外へ出ると、一人の飛脚が立っていて、「実は、明日までにぜひ届けねばならぬご用金、気の毒だが、川を渡してくれ。骨折賃は、ウンとはずむ」と言う。事情を聞けば、いかにも気の毒である。飛脚一人を乗せて船を出した。雨は止んだが、暗雲が垂れ込め、水勢は激しく小船は上下左右に揺れ動き、なかなか前に進まない。飛脚は、向う岸に着くのを願ってかたずをのんで前を見つめている。その時、隙をうかがっていた船頭は、持っていた櫂を、飛脚の脳天目がけて打ち下した。飛脚は、「船頭、お前は俺を殺す気か、何の恨みがあって、こんなむごいことするのか」と言う。船頭は、「お前に恨みはないが、持っている金が欲しい。金を渡せ」と言う。「恨みもない者を殺すとは、極悪人め、たとえ殺されても、生れ変り死に変り、恨みを晴らさでおくものか」「やかましい。往生ぎわの悪い奴だ」とやりとりがあって、また一撃脳天を打ち砕かれて、アッと一声、そのまま絶命した。舶頭は、飛脚の懐をさぐって、金子300両を取り出し、死体を水中に投げ込んで、岸に引き返した。 家に帰ると、妻が、「おかえり、ほんの今、飛脚さんが見えた。お前さん、そこで会わなかったかい」と言う。「いや、今向う岸に渡してきたばかりじゃないか」と船頭は答えると、妻は、「いや確かに、ここでうなだれて立っていた。よく見ると、頭から血を流していた」と言う。「そんなことがあるものか、もう言うな。俺はひと寝入りする」と言うて、寝たが、別に怪しいことは起こらなかった。 それから女房は懐妊し、月満ちて、男の子が生れた。一粒種の息子を大事に育て、3年過ぎた。その3年目の5月、しとしとと降り続く雨の夜、目を覚ました子どもが、小便をしたいとしきりにせがむ。その夜に限って、外に出ようとせがむ。仕方なく外へ出ると、今度はあっちと言って、船着場を指した。そこで抱きながら放尿させていると、ジロジロと父親の顔を見上げながら、子どもは「父ちゃん、私が殺されたのは、ちょうど3年前の今夜のような真の闇夜だったのだろう」と、大人の声しかも、あの夜の飛脚そのままの声で言うではないか。船頭はびっくり仰天、水を浴びたようで、体も凍らんばかりで、口もきけず身動きもできず、ただ立ちつくした。やがて、われにかえり、因果は恐ろしい。こうしてはおられぬ」と、家に飛び込んだ諦賢は、妻に3年前の飛脚殺しの一部始終を打ち明けた。 「この上は、罪業消滅のため、かつ飛脚の菩提を弔うために、六部となって回国しようと決心した」と妻に話した。「外に、道はあるまい。後のことは私がやるから、一刻も早く飛脚が浮かばれるようにしなければ、坊やの命にも災いがないとも限らないよ」と、妻も勧めた。そこで私は「早速仏門に入り、66か国の回国の途につき、3年余り廻って、ここに来ました」と、話した。 ここで、福満寺の老僧の好意によって、1年余りを過し、その間に回国の塔を刻むのに精魂を傾け、竣工すると別れを告げて、再び行雲流水に身を托して、いずこともなく立ち去ったというのが、回国の塔の由来である。
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佐賀の化猫騒動
鍋島勝茂公は、窮迫した藩の財政建て直しのために、領地の開拓による国益の増強を図るべく、有明海の干拓事業に着目し、白石の秀津に館を建て、よくこの館に来ては、工事の督励に当たった。 当時、武家の間には、鷹狩りの技がもてはやされ、佐賀藩でも、白石平野が藩随一の鷹狩り場とされ、勝茂公も、須古山、杵島山一帯、太原での鷹狩り、猪狩りを常とした。白石に来ては、この白石の館に滞在することが多かった。 ここに逗留(とうりゅう)する夜は、土地の者と語り合うことが常であったという。しかし、ここは龍造寺氏の家臣の領地であったために、鍋島家にとっては、必ずしも居心地は良くなかったらしい。 しかし、「葉隠聞書」によると、「この館は、白石秀林館と言い、勝茂公御狩り(須古山のお狩り)御鷹狩り(白石太原のお狩り)のため、ご逗留され候御館なり。ご隠居後は、御東(佐賀城)並びに秀津をご住居にされる思召の由……」とある。 化猫騒動は、この白石館を舞台にしたもので、寛永17年(1640)春3月のある宵、花見に疲れた勝茂公が就寝されたとき、風もない月夜に一陣のなまぐさい風がサッと吹いて、桜の花が散った。 不思議に思った千布本右衛門邦行が、南庭の方をジッと見つめると、暗やみの中に、何者とも知れぬ怪物が現われた。「おのれ化けものめ」と切りつけると、ヒイヒイとけたたましい叫び声を上げて、築山の陰に逃げ去った。 このようなことがあってから、勝茂公の近臣の発狂、庶子君の怪死などの怪しい事件が続いたり、勝茂公自身が、夜度々うなされて気分がすぐれぬ日が続いた。 そうして、ある夜の真夜中ごろ、勝茂公の寝室近くに、ただならぬ気配が感じられたので、近習の者が駆けつけると、愛妻のお豊の方が、「退れ」と、形相を変えて叱りつけたという。同じようなことが二晩も続いたことを知った本右衛門は、重松という武士と二人で、勝茂公の寝室の見通せる場所に身をひそめて、宵の口から見張りをしていた。 その夜中に、生温かい風を感じたと思うと、猫の鳴き声を遠くに聞いた気配がして、そのまま眠りこみ、気がついたときは、夜が明けていた。 前夜も怪しい気配がしたので、近習が寝所に駆けつけると、例のごとくお豊の方が、言葉も荒々しく叱りつけた。中の様子をうかがうと、勝茂公は、床の上で苦しみもがいていたという。しかし、相手は、主君の愛妻であってみれば、どうにもならない。 その翌日の夜、本右衛門は、「今夜こそ、実態を見届けよう」と心に期し、短刀を股にはさみ、眠りこけると短刀が股を刺すようにして、夜半を待っていた。どの位たったか、寝所を見やると、勝茂公もお豊の方も、もう寝ついていなければならないのに、お豊の方の影が、障子に写っていた。 よくうかがうと、寝室にただならぬ気配がし、中では、うめき苦しむようで、その度にお豊の方の影が動き、もがき苦しむ気配が感じられる度に、クックックという女の含み笑いの声が聞こえる。こうしたことが何度か繰り返されていたかと思うと、ひとしきり苦悶の声が高くなって、お豊の方の障子の影が横を向いたとき、本右衛門が見たのは、紛れもなく猫の影であった。 猫の影は、主君勝茂公の苦しみもがくのをあざ笑うように、これでもかこれでもかと、何か復讐しているような姿であった。 思わず短刀を握りしめて立ち上ろうとしたが、眠るまいとして股にはさんでいた短刀の傷で、股の痛みがひどく、どうしても立ち上がることができなかった。 間もなく寝室の灯が消えて、何事もなかったかのように静まり返り、どこかで猫の鳴き声を聞いたかのように思うと、本右衛門は、眠りに落ちていった。 昨日まで春の花に酔っていた秀林館も、今日は、惨雨愁風の妖気が漂うようであった。 今宵もまた、お豊の方は愛嬌よく、勝茂公の酒の相手をつとめていた。愛妾お豊の方が怪しいとにらんだ本右衛門は、サッと主君の居間に飛び込み、お豊の方の側に走り寄り、電光石火、エイッとばかり、大身の槍を構えて、一気に突き刺した。 この不意討ちに、勝茂公はびっくり仰天、「おのれ、本右南門、汝は乱心したか」と、大刀を取って、はったと睨みつけた。この時、本右衛門は、主君に一礼し、「殿、このお豊の方こそ、お家に仇なす怪物の化身、よくご覧ください」と言う間もなく、また女の脇腹を突き刺した。 近習の家臣たちが、すわ一大事とばかり、時を移さず、お居の間近く駆け付けた。 本右衛門の最後の槍先は、化猫の本性を現わした怪猫の急所を貫いた。怪猫は血に染まりながら、のたうち回り縁側から庭先へ逃げうせた。短い夜が明けてみると、築山の陰に怪猫が打ち倒れて、うめいていた。 それは、物すごい大三毛猫の死がいであった。 千布本右衛門は功労によりこの地に領地を賜った。
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佐賀空襲
昭和20年8月5日から6日未明にかけて、佐賀市周辺は、B29の洗礼を受けた。 マリアナ基地を発進したB29約30機は、九州西海岸を北上して、佐賀平野上空に侵入した。5日午後11時30分頃から、1分から3分間隔にて、6日午前1時頃まで、約1時間半にわたり、北川副・西与賀・諸富付近に、焼夷弾攻撃を加えた。それに、本土近くまで接近してきた航空母艦から飛び立ったグラマン戦闘機から、無差別の機銃掃射が人影に浴びせかけられた。 この佐賀空襲の時の北川副村の被害は、小学校が全焼、岩松軒(がんしょうけん)、光源寺をはじめ焼失家屋91戸、死者21名であったと記録されている。なお、佐賀空襲における被害は、旧佐賀市、諸富町、川副町、東与賀町、久保田町に及んでいて、死者合計は61名、焼失家屋は443戸であったと記録されている。