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[旧佐賀市][ 神社]は94件登録されています。
旧佐賀市 神社
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乙護法神社
建立は定かでないが、先年450年祭をされたことから推測すると、1550年代龍造寺隆信の時代ではないかと思われる。 祭神は猿田彦とされている。 地元森田では、春秋の祭りの他、3月には百手祭(ももてまつり)が今も行われている。百手祭りとは、的射りともいい、自家竹製の弓矢で的を射って、作物の豊凶等を占う行事である。鍋島町内では他に岸川地区で行われている。
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津留天満宮
昭和28年(1953)の大水害により、津留天満宮の社殿は流失したため、鳥居だけが1m位の土砂に埋まり、昭和28年の水害の面影を残していた。 そこで、津留地区民の総意によって鎮西三大天満宮と称えられる蛎久天満宮の御分霊を頂き、念願の御社が天皇陛下御在位20年の記念事業として、また区民の浄財の寄進によって、平成21年(2009)3月に成導寺八幡宮の東に建立された。 春祭や秋祭を斎行し、津留地区の繁栄を祈念している。
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角目の天神さん
230年以上前に佐賀藩が作成した、天明絵図「新庄郷植木新村」分間絵図によれば、角目の天神さんの所在地が記載されている。いつの時代から角目に天神さんが祭祀されたかは定かではない。 古老たちの話によると、明治初期の神社仏閣の整理統合がなされたときに、角目の天神さんは廃神されその使命は終わったと言われている。 しかし館は存続し、大正時代の始めの頃までは天神さんと親しみを込めて呼ばれていたという。 昭和28年の未曾有の大水害によりこの館は倒壊したため、翌29年に地区民の浄財により新しい館が建立された。天神さんとしての面影はないものの、新しい館は青年倶楽部、角目公民館と移り変わり、地区住民の心のよりどころとして新たな使命を果たしつつある。
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白鬚神社
近江(滋賀県)吹下より勧請されたと伝える白鬚大明神を祀る『白鬚神社』の祭神や勧請年代、十九丸の供奉集団や奉納される田楽の性格考証は「佐賀民俗学」第四号を御覧いただくとして、我が国古代の神信仰と白鬚社の特色について觸れてみたい。 在天の神の降臨道筋に神体山がある。古式の社には、必ず神体山がある。白鬚社の神体山は、社の裏の鈴隈山(昔は清隈と書いた)である。 我々は社に詣るとき、必ず口をゆすぎ手を洗う。昔は境内に入る前に、体ごと清流に身を浸し、罪や汚れを洗い流して初めて境内に入った。 祭典に従事する人は一定期間、堂に籠り、斎戒沐浴し寝食・行動の精進をした。この禊ぎの場を持った籠り堂が中宮で、現在の白鬚社のある所。上宮は社の東台地上に。下宮は県道鳥栖川久保線沿いの石の鳥居の南側一帯であった。この鳥居からが参道で、田楽もここから「道行き」をしていた。〔神上は、上宮(かみや)辺が本当である〕 祭神は、応神天皇・神功皇后・武内宿禰の三柱説と、豊受比売命・猿田彦神・武内宿禰の説、新羅神説とがある。 勧請年代も、肥陽古跡記は金立権現鎮座の時(紀元前210年)、佐賀県神社誌要は継体天皇18年(527)、敏達天皇3年(574)は祭典記録、推古天皇34年(626)は花納丸文書、三代実録では貞観12年(870)とそれぞれ異なっている。 昭和49年に1400年祭が行なわれたのは、敏達天皇3年説による。 十九丸の地名や丸祭の形態からすれば、花納丸文書が重視される。祭祀集団であったか・貴族豪族集団・逃避難民集団・農耕技能集団・或いは渡来外来集団であったか、論議されている。 白鬚の鬚はあごひげ、村徳永の白髯はほおひげ、髭はくちひげ。 現社殿の「流れ造り」は、記録が無いので建造年は不明。 社前の三の鳥居は、木造の「両部鳥居」で、木柱の前後に控え柱が設けられ、本柱と控え柱の間には貫を通し補強された古式の鳥居で、神仏混淆の神社に多い。また、四脚鳥居ともいう。「丸持の家」の祠の祭神には、薬師・不動・観音・地蔵・天神・弁財天・本地阿弥陀が祀られたと寛文11年(1671)の記録が在り、神仏混淆の社であることが窺われる。