検索結果 RESULT
- 旧佐賀市
- 検索結果
[旧佐賀市][本庄校区]は185件登録されています。
旧佐賀市 本庄校区
-
大涅槃像 一幅
重要文化財
高伝寺は佐賀藩主鍋島家の菩提寺である。涅槃像は、紙本彩色で縦8間(14.4メートル)、横3間半(6.3メートル)もある巨大な画幅である。涅槃図は釈迦が入滅する場面を絵画化したもので涅槃会の際に寺院の本堂に掲げられる。高伝寺においては、4月19日を中心とした釈迦堂開扉に公開されている。 『葉隠聞書』に、佐賀藩3代藩主鍋島綱茂が、京都在住の経師(表具師)若井利左衛門の協力を得て、京都東福寺にある兆殿司筆のものを摸写させたものと記述されている。作者は不明である。箱の蓋の裏には「宝永三年(1706)十月二十一日京都室町通松原上ル高ノ辻町経師若井利左衛門利久」と書かれた紙がはられている。おそらく涅槃像が完成した日付であろう。 また、画幅の裏面に「天保十三年(1842)十一月再興」と書かれているものは、修復した日付だと思われる。 この大涅槃像は、市内における代表的なもののひとつとしてその価値が高い。
-
御位牌所 一宇 附一、木造阿弥陀如来坐像一躯 二、御位牌二〇二霊分
重要文化財
高伝寺は天文21年(1552)に鍋島清房によって建立され、鍋島家の菩提寺となって歴代藩主に尊崇された。明治初年鍋島家先祖と龍造寺家の墳墓を当寺に集め合祀した。 御位牌所は明治29年(1896)の建立である。本堂の北にあって南面し、土蔵造で腰を海鼠(なまこ)壁とし軒も塗籠めである。内部は北側一面に位牌壇をつくり、中央に阿弥陀如来座像を祀り左右に鍋島家と龍造寺家の位牌を安置する。 外観は唐風な花頭窓と唐戸そしてギリシャ風の柱に支えられ、屋根は破風造りの向拝である。鎌倉時代に移入された唐風様式が時代と共に和風と完全にとけあった独自な折衷模様を取り入れたものである。和唐洋折衷の時代相を現した好建築で明治建築を知る上で貴重なものである。 御位牌所の中央に安置されている阿弥陀如来坐像は佐賀藩2代藩主鍋島光茂の寄進によるものである。像高1.45メートルの上品上生((じょうぼんじょうしょう)(定印)の印を結ぶ寄木造りの木造で金箔の堂々たるものであってその価値が高い。 御位牌は、鍋島、龍造寺両家の202霊が奉安されている。最大のものは総高1.34メートルの堂々たるものであって、彫物や彩色などが華麗に施されていて、近世における工芸品としてその価値が高い。
-
島義勇の旅日記 一巻
重要文化財
慶応4年(1868)2月26日から始まって、同年5月6日に至る109日間の記事である。多忙な間に書いたものだから、なかには単なるメモに過ぎないところもあるが、江戸城明渡しを中軸とする前後の世相と義勇自身の動静を知ることのできる貴重な記録である。 殊に義勇が接触した人物は、明治維新史に現われる主要人物の大部分といってもよい。それが日記に明記されている。特に、個人の遺墨としては書画の類が多いのに義勇の旅日記は異色である。 島義勇は、佐賀藩士で明治維新に功績のあった人だが、明治7年(1874)の佐賀の役に江藤新平とならんで、首領であったことが有名である。 義勇は、文政6年(1823)有師(ありみつ)の長子として、佐賀城下西精に生まれ、弘化元年(1844)家督をついだ。はじめは皇学を学んだが、弘化年代江戸にでて、佐藤一斎の門に入り陽明学を学んだ。郷里に帰ってからは藩命によって国学指南となった。明治2年(1869)7月には蝦夷開拓掛を命ぜられ、同年9月石狩国府に赴任して開庁している。北海道開拓には義勇は非常に力を入れ、今でも追慕する人が多いという。
-
本庄神社石燈籠 一対
重要文化財
本庄神社の広庭、拝殿前の左右に建てられている1対の石造の燈籠であって、総高2.58センチメートルである。宝珠、笠、火袋、中台、竿、基礎の6部分からなる標準形の石燈籠である。 宝珠の部分は、宝珠と請花からなり、請花は複弁の蓮華で、宝珠の先端には小形の球形が取りつけられているのが異色である。屋根は緩やかなふくらみを持つ「起り」の形式で、軒先は6面となり、蕨手が取りつけられている。 火袋は、1層で断面は6角、方形の小形の通風窓が設けられている。中台は、単層の蓮台で、大花と小花の単弁蓮華文が刻まれている。 竿は円柱で、上下にそれぞれ1本、中央に2本の節が設けられている。基礎は反花と6角方柱の2層からなり、反花は複弁で、間に小花がいれられている。 竿石に次のように造立銘が陰刻されている。 願患悉除願望吉祥 謹奉寄附石燈籠壱基 〇〇〇〇鍋島加賀守藤原朝臣直茂 願主鍋島和泉守藤原朝臣忠茂 本荘淀姫大明神御賓前〇〇〇所願 干時元和四年戊午仲春吉〇良月 佐賀藩祖鍋島直茂や初代勝茂が鳥居などを神社に寄進している遺例はいくつか知られていて、藩政初期における大名の神社に対する政策や神社信仰の一面をしのばせているが、この石燈籠もまたその一例として歴史的価値が高い。特に鹿島支藩初代藩主である鍋島忠茂が願主となり、藩祖の直茂と名を連ねている点にも興味深い。 忠茂が鹿島支藩主となったのが慶長15年(1610)で、慶長19年の大坂陣に際して東上しているが既に病患に苦しみ、元和7年(1621)には下総の矢作に入り、寛永元年(1624)にはこの地で没している。この間の元和4年(1618)に奉納されているこの石燈籠には、深い意味が秘められているようにも考えられる。 この石燈籠は、本県内においてはもっとも古い造立銘を有するものであり、しかも簡素にして豪壮、よく完構を保っていて、石造り工芸品としての価値が高い。
-
庄野家住宅金蔵(旧佐賀城本丸御蔵) 庄野家住宅隠居所
登録有形文化財
【建設年代等】 金 蔵:土蔵造二階建、瓦葺、建築面積28 ㎡ 江戸末期/明治前期・昭和45年(1970)移築 隠居所:木造平屋建、瓦葺、建築面積60㎡ 昭和前期/昭和45年(1970)移築 金蔵は、佐賀城南西、国道に南面した敷地東に建つ佐賀城の蔵を移築した土蔵。 土蔵造二階建南北棟の本瓦葺で、一階北面に下屋を付し西面北寄りに庇付の出入口を設ける。外周部は腰高の竪板張とし上部は漆喰塗で軒裏は曲線状の揚塗とする。佐賀城の遺構として貴重。 隠居所は、水路に囲まれた敷地の北、金蔵の東に建つ。入母屋造桟瓦葺、四周に庇を廻らす。東に床棚付の座敷八畳と次の間六畳を東西に並べ、南北に縁を付しガラス戸を建て込む。部屋縁境の額入障子や欄間、付書院障子に用いた精緻な組子が目を引く近代和風の書院。 (隠居所写真:佐賀県提供)