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[指定文化財][佐賀市][絵画]は6件登録されています。
指定文化財 佐賀市 絵画
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木造湛然梁重坐像 一躯
重要文化財
湛然梁重(たんねんりょうちょう)(?〜1680)は肥前の生まれと伝えられる。初め三河国の寺にいたが、明暦年間(1655〜1657)肥前の月舟(げっしゅう)の推薦で高伝寺第11世住持となり、寺風の刷新に努めた。寛文9年(1669)円蔵院住職村了和尚による寺格昇格の直訴問題で湛然の願いがしりぞけられると松瀬の通天寺(つうてんじ)に去り、後年、華蔵庵(けぞうあん)を建て移り住んだ。「葉隠」の述者山本常朝は青年時代に湛然に教えを受け、大きな影響を受けた。 像高は59.0センチメートル。挿首、前後矧合(はぎあわ)せで彩色、払子(ほっす)、手首、曲録(きょくろく)(椅子)は後補で昭和9年再彩色が行われている。なお挿首の墨書「天祐 現住 月枝 手作之」とあることから、天祐寺第10世住持月枝の作であることが判明した。
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涅槃図 一幅
重要文化財
涅槃図とは釈迦の臨終の情景を描いたもので、陰暦2月15日に釈迦の入滅を追悼して行う涅槃会にこの涅槃図を掲げて法会する。涅槃とは仏陀の教えによって到達する究極の理想の境地で解脱ともいう。 この涅槃図の図様は中央に横臥する釈迦を囲んで、多くの人びとが嘆き悲しみ、また鳥獣までもが悲しみの姿態をとっている。その中に釈迦の入滅を聞いて、母の摩耶夫人が天界から降下してきた姿が描かれている。 本図は紙本着彩で、縦202センチメートル、横136センチメートルの掛幅装で、画工は平渕子璨璨、裏面に「明治七年二月吉日 河副徳富村東光寺 当時住職 自照代」と記入されている。
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実相院絵画 二幅
重要文化財
脊振山地が佐賀平野に開ける嘉瀬川中流右岸の小高い所に、真言宗御室派河上山実相院がある。その創建は寛治(かんじ)3年(1089)、河上神社社僧円尋(えんじん)が河上山別所を開いたことにさかのぼるとされる。 2幅の絵画は、いずれも愛染明王を描いたものである。愛染明王は、人の欲を菩提の心に変える力をもつ仏として平安時代から盛んに信仰された。 愛染明王像は身体は朱色で3つの眼と6本の腕をもつ通形の図像で、絹本着色、縦92.5センチメートル、横40.5センチメートルの仏画で、繊細な線と美しい彩色とで丁寧に描かれた佳作であり、本格的な絵仏師の手により室町時代に製作されたと考えられる。 両頭愛染明王像は、中世期に多くあらわれるようになった異形像の1例で、愛染明王に不動明王を合体させたものである。頭上の円相中には金剛薩埵の三昧耶形(さんまやぎょう)である蓮華上の五鈷杵(ごこしょ)が描かれ不動明王の眷族の矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)が愛染明王の持物である弓矢を構えそれぞれ獅子と象に乗って従っている。 絹本着色、縦99.8センチメートル、横36.8センチメートルで、制作は室町時代と考えられる。
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絹本淡彩金立神社縁起図 一幅
重要文化財
金立神社縁起図は絹布3枚継ぎで、縦181センチメートル、横107センチメートル、軸装である。画面は上・中・下の3段に分けられ上段は金立神社上宮の景観、中段は金立神社下宮、下段は徐福上陸の場と3部から構成されている。大和絵に近い筆法であって細密に描かれ、多くの人物を配して動的に画面を展開させている。 金立神社の祭神にちなむ徐福伝説を描き、金立神社上宮の景観と信仰関係の遺跡を詳細に描写している。箱書によれば正保5年(1648)に鍋島茂笵がこの縁起図の箱を新調しているが、絵の構図や色彩等から見て、また現在金立神社下宮に移されている「蓬來島本地弁才天」の石造から考えて、この図は箱が新調された正保年間ごろの作成になるものと推定される。 一部に汚損の箇所があり、やや褐色がかっているが、神社や寺院などの縁起図としては県内所在のものとしては最もすぐれたもののひとつであり、近世絵画としてもその価値は高く評価されるものである。また、古い由緒を持った金立神社の信仰を研究する歴史的資料としての価値も高い。
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絹本着彩与賀神社縁起図 一幅
重要文化財
与賀神社縁起図は、延宝6年(1678)に佐賀藩2代藩主光茂夫人から奉納寄進されたものである。絹本着彩天地2.17メートル、幅1.65メートルで、筆者は永松玄偲である。 社伝にもとづき、神を感知してから社を創建し、御神幸が行われるまでの過程を、物語風に展開した画面構成となっている。画題は建物・人物・山川・樹木の4種からなり、人物をはじめとして、描写は細密で、画面の構成も整っており、大和絵風に描写されている。 筆者の永松玄偲は、佐賀の画家永松秀精の父で、子秀精は源左衛門と称し、元鍋島弥平左衛門の家臣であったが、寛保2年(1742)に絵師として本藩に召しかかえられたと伝えられる。
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大涅槃像 一幅
重要文化財
高伝寺は佐賀藩主鍋島家の菩提寺である。涅槃像は、紙本彩色で縦8間(14.4メートル)、横3間半(6.3メートル)もある巨大な画幅である。涅槃図は釈迦が入滅する場面を絵画化したもので涅槃会の際に寺院の本堂に掲げられる。高伝寺においては、4月19日を中心とした釈迦堂開扉に公開されている。 『葉隠聞書』に、佐賀藩3代藩主鍋島綱茂が、京都在住の経師(表具師)若井利左衛門の協力を得て、京都東福寺にある兆殿司筆のものを摸写させたものと記述されている。作者は不明である。箱の蓋の裏には「宝永三年(1706)十月二十一日京都室町通松原上ル高ノ辻町経師若井利左衛門利久」と書かれた紙がはられている。おそらく涅槃像が完成した日付であろう。 また、画幅の裏面に「天保十三年(1842)十一月再興」と書かれているものは、修復した日付だと思われる。 この大涅槃像は、市内における代表的なもののひとつとしてその価値が高い。