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[指定文化財][佐賀市][彫刻]は13件登録されています。
指定文化財 佐賀市 彫刻
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大串社(櫛田神社)の肥前狛犬 一対
重要文化財
肥前狛犬は16世紀末から18世紀前半代にかけ約150年間、肥前地方で製作された石造狛犬をいう。弧線と直線とをもって体の細部の表現を省くという大胆な表現法で造形するのが通形である。 阿像の像高39.7センチメートル、吽像の像高38.1センチメートルで、共に安山岩製で、保存状態が良く鑿痕や銘が明瞭である。 阿像は横一文字に細く口を開け、中央から舌を僅かに覗かせており、吽像はくいしばった歯をむき出しにしている。吽像の口元正面は上下の唇を開き、その下から噛み合わせた歯並みを表現し、その側面は左右共に鋸歯状にして、前面とは変化をつけた点が特徴的である。 顔面は偏平で、横長の大きな目の下には6条の弧線が刻まれ、吽像の額には4連続する弧線からなる皺が3段、阿像には4段刻まれている。頭頂部には角と思われる小さな突起が一つある。尾は、阿像吽像共に、天を向いた剣先形の浮き彫りで表現されている。 阿吽の像とも顎下から左右前肢の間に 寛文元 奉寄進 今村六兵衛尉 八月吉日 と、銘が彫られている。
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木造不動明王坐像
重要文化財
不動明王は、治病・安産・災害の除去・怨敵降伏・財福を得るなどの広く種々の祈願をかなえてくれるとされた。 この像は、右手に宝剣、左手に羂索(欠)を持つ忿怒形の一面二臂像である。像高 65センチメートル(光背含む 128センチメートル)で、桧の寄木造りで彩色を施し目には水晶をはめこんでいる。像の底に朱書銘があり、京都の仏師の杉伊左衛門により、享保元年(1716年)に造られたことがわかる。
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木造阿弥陀如来坐像
重要文化財
本像は、全高72センチメートル、像高30センチメートルの上品下生(じょうぼんげしょう)印を結ぶ阿弥陀如来坐像である。頭と体は桧の一木造りで、別材の膝や手首先を寄せ合わせている。像の底に墨書銘があり、応永18年(1441)に造られ、川副の寺院に安置されたことがわかる。 光背と台座は別の仏像のもので銘文から、岩蔵寺(小城市)の虚空蔵菩薩像のもので元亀4年(天正元年・1573)に製作されたことがわかる。
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木造阿弥陀如来立像
重要文化財
光専寺は、肥前国最初の真宗道場と伝えられ、清和源氏の竹田刑部小輔太郎信重を祖とする甲斐民部大輔神四郎(教明教師)により建立されたと伝えられる。 阿弥陀如来立像は桧材の寄木造で、玉眼、漆箔像で像高77センチメートルである。 光専寺の伝承では、浄土教を全国に広めた源信僧都の作と伝えられているが、鎌倉時代の専門仏師の作と考えられる。胸が厚く優美に流れた衣は、快慶様のたくましさと繊細さがうかがわれ、来迎引接(らいごういんじょう)の姿をとり、西方浄土にあって大悲による永遠の救いをする阿弥陀如来の功徳をあらわしている。
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一木七仏薬師如来立像 一躯
重要文化財
東光寺の開基は明らかでないが、寺伝では天平年間(729〜765)川副七仏薬師の1体をまつる薬師堂に始まるといわれている。 薬師如来は東方にある極楽浄土瑠璃光世界の教主で、修業中、十二の大願をたてた。このことから万病を癒し、人の寿命を延ばし、医薬をつかさどる仏として古くから信仰された。 東光寺の薬師如来は、像高は137.5センチメートルで左手首が破損している。 寛文5年(1665)大木惣衛門が著した『肥前古跡縁起』によると、「川副庄に伝わる一木七仏薬師如来は、行基の作で、仏教の普及により安泰を願っていた聖武天皇の勅願により楠木の一木を使い七体の仏像をつくりこの地に納めた。一仏より七仏まで詣でることにより、その霊験があらわれると多くの人から信仰を集めた。」と記されている。
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神變社仏像 一躯
重要文化財
江熊野の氏神社である神變社は慶長5年(1600)松田茂久が鍋島直茂に従い柳川に従軍して功績をあげ凱旋した折りに彦山権現を勧請したと伝えられる。 厨子と仏像は拝殿横の観音堂に祀られている。棟札から厨子は文久元年(1861)に再建され、この厨子が内部の仏像と共に今は廃寺となっている善福寺に祀られていたことがわかる。 如意輪観音坐像は像高41センチメートル、ヒノキ材の寄木造り、室町~江戸時代の作と考えられるが、県内の木造如意輪観音坐像は作例が少なく貴重なものである。これら厨子と仏像は今は無い善福寺を語る唯一の遺品として歴史的資料として貴重である。 附の如来形立像は像高36センチメートルの一木造りで室町時代の作、菩薩形立像は像高24.5センチメートルでヒノキ材の寄木造りで江戸時代の作と考えられる。
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実相院彫刻 十二躯
重要文化財
河上山神通密寺実相院は真言宗御室派の寺院で寛治3年(1089)与止日女神社の社僧円尋(えんじん)が神宮寺を建立したのが神通密寺の始まリで与止日女神社の座主(寺社の法務を統括する管主の公称)を勤めた。 仏像は不動明王立像、愛染明王坐像、山王坐像、女神坐像、十一面観音立像、弘法大師坐像、五大明王像、薬師如来坐像で、五大明王像が5軀でほかは1軀、計12軀の木造仏像である。 不動明王立像は、像高96.3センチメートルでヒノキ材の一木造り、憤怒像であるが、おだやかな彫りは平安時代後半の特徴を表している。平安時代の不動明王像は県内でも数少なく貴重である。愛染明王坐像は像高67.8センチメートルでヒノキ材の寄木造り、室町時代の制作と推定される。山王坐像は像高31.8センチメートルでクス材の一木造りである。像底の墨書銘により、佐賀市北川副町の真言宗福満寺鎮護社として同町木原にある日枝神社の御神体として、元亀3年(1572)に龍造寺隆信母が旦那となり南里村(佐賀市川副町南里)の元貞房上人覚以に造らせた像とわかる。少弐元盛の家臣で出家した福満寺朝覚上人が、元亀元年の今山の戦いで消失した実相院のお経会の導師として勤めていた折に当寺へ遷宮したと伝えられる。制作年代・作者、造立の由来が判明する貴重な作例である。女神坐像は像高25.9 センチメートルでヒノキ材の一木造りで、与止日女神社の祭神与止日女の像と伝えられ、神社の信仰の歴史を知る上で貴重な資料である。十一面観音立像は像高158.2 センチメートルでクス材の一木造りで、背板の墨書から河上神杜の本地仏と判る像である。与止日女神社の本地仏は十一面観音で、河上神杜文書によると鎌倉時代の承元2年(1207)に金銅製十一面観音像が造られている。この像は後に失われたようで室町時代に再興されたようである。一見すると平安後期の作を思わせる復古調に造られている。近年の修復で天正21年(文禄2年・1593)に仏師心月斉が制作した事が判明した。弘法大師坐像は像高48.8センチメートルでヒノキ材の.寄木造りである。胎内および台座墨書銘から高野山住生院如来堂相応院を施主として定朝三十代を名乗る高野山小田原町の長谷川大仏師廣安が宝暦9年(1759)、63歳の時に制作した像で、同じ作者(または工房)が制作した弘法大師像の237躰目にあたり、明治12年(1879)に実相院52世良瑞の代に高野山より御請待したことが判る像である。江戸時代の本格的な仏師の作で、造られた由来から実相院へ持ち込まれた時期もはっきりしている興昧深い像である。五大明王像5躯は、像高33.5~49.0センチメートルの寄木造りの像である。5躯とも小像であるが、わりあい技法のたしかな仏師の手になるものと思われる。薬師如来坐像は像高101.3 センチメートルの寄木造りの像で江戸時代の作で、各所に平安、鎌倉時代の仏像の特徴をとりいれておリ、古仏をよく学んでいる本格的な仏師の手になるものである。
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春日山高城寺仏像 五躯
重要文化財
春日山南麓の谷間にある高城寺は臨済宗東福寺派で、本尊は釈迦牟尼仏・観世音菩薩・地蔵菩薩の3尊。文永7年(1270)円爾(えんに)(聖一国師(しょういちこくし))の法弟蔵山順空(ぞうざんじゅんくう)(円鑑禅師(えんかんぜんじ))が久池井の地頭国分忠俊の帰依を受けて創建した。北条氏一門の追善供養をすることで鎌倉幕府から保護を受け正応元年(1288)には佐嘉郡河副荘3分の1の地が施入されたが、後に没収された。その後龍造寺家、鍋島家の祈願所となる。 仏像は、釈迦如来坐像、菩薩形坐像、地蔵菩薩坐像、葦駄天像(いだてんぞう)、宝冠釈迦如来坐像の5軀で、いずれも木造である。葦駄天像はクス材の一木造り、ほかはヒノキ材の寄木造で内刳りが施されている。 釈迦如来坐像は像高106.3センチメートル、胎内、像底板には寛文7年(1667)京大仏師七郎門の修理銘が数個所に墨書されている。菩薩形坐像は像高95.1センチメートルで、頭部内がこがされており奉納物納入の可能性が考えられる。地蔵菩薩坐像は像高71.0センチメートル、胎内背面に「地蔵命」の墨書と像底板に寛文6年(1666)京大仏師の修理銘の墨書がある。以上3躯は国指定重要文化財「円鑑禅師坐像」、県指定重要文化財「高城寺文書」とともに九州の禅宗寺院のなかでも重要かつ代表的な古刹である高城寺の鎌倉~南北朝時代全盛期を物語る歴吏的資料として貴重であり、また九州における南北朝期院派仏師の新作例として高く評価される。 韋駄天像は像高30.5センチメートル、日本の禅宗寺院では厨房や僧坊を守る護法神として祀られる。台座に慶長3年(1598)の墨書銘があり、製作年代の確かな像として貴重である。宝冠釈迦如来坐像は総高65.5センチメートル(宝冠~台座)、像高32.3センチメートルで、南北朝時代の院派仏師による製作と考えられる。また宝冠、台座は近世の後補であるが工芸品としても評価される。
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木造金剛力士像(仁王像)二躯
重要文化財
金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神(ごほうぜんしん)(守護神)である天部の一つ。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王の名で親しまれている。 本像は桧材を用いた寄木造り、玉眼の像で、天衣をまとっており、表面には彩色を施している。頭体部と通じて内刳りを行っている。像高は阿形が256.0センチメートル、吽形が260.0センチメートルである。 一般に仁王像は風雨の影響を受けて痛みやすいが、虫食いや腐蝕・摩耗はみられず本像は比較的保存状況が良いものといえる。 実相院文書には、仁王門に関する近世初期の記事があり、本像もその頃の造'立と思われる。また、適確な寄木造りの構造や均整の取れたプロポーションは本格的な仏師の製作であることを示している。 実相院の往時の隆盛を物語る歴史資料であることに加え、県下にも少ない仁王像の作例として貴重である。
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銅造地蔵菩薩立像 一躯
重要文化財
西峰院地蔵寺の地蔵堂内に安置されているこの像は、像高36.5センチメートル、台座高13センチメートルの鋳銅製の地蔵菩薩立像である。両腕は軽く屈して、左手に宝珠、右手に錫杖を執る地蔵尊像の通相であって、衲衣(のうえ)は深く垂れ、衣文の彫りは深く、黒色を呈しているが、顔面や胸の部分には金箔が施されている。 酒買い伝説や海水出現の由来伝承を伝え、「酒買い地蔵」又は「酒呑み地蔵」などと呼ばれていて、酒を供えて安産などの祈願に詣でる人が多いという。 光背を欠失し、錫杖を欠損し、台座の一部が後補となっているが、尊体は完構を保っている。小体ではあるが、極めて端正な尊像で、鋳流れや鋳崩れのあとがなくて作もすぐれ、鋳造年代は明らかでないが、鎌倉時代の鋳造様式のおもかげをとどめており、数少ない鋳銅製の仏像として注目すべき価値を有している。
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石造十一面観世音菩薩立像 一躯
重要文化財
勝宿(かしゅく)神社と小川をへだてた山腹の小堂に石造十一面観世音菩薩立像が安置されていて、后良(きさきら)観音と呼ばれ、今日でも地域の人々の厚い信仰を集めている。 像高118センチメートルの石造で、宝冠に化仏を頂く十一面観世音菩薩の立像である。右手は掌を前にして垂下し、左手は屈して胸前で蓮華を執るが、両手・両足ともに体部に密着した浮彫りで、窮屈な表現となっている。顔面は大きくて下半身が寸詰まりとなり、しかも下半身の表現は簡略化されている。衣文彫りは浅く、正面観のみの表現であって、側面及び背面は素材のままの荒削りとなり、中世石像彫刻の様式をよくとどめている。体側両面に、次のような造立銘が陰刻されている。 左体側「河窪村中泉〇〇天正十三暦三月廿如意林日」 右体側「奉彫刻妙観音尊像一基〇〇〇」 この造立銘によって、天正13年(1585)に彫造された中世末期の石像であることが知られる。 柱上の石材を用いて彫顕した一種の板彫り像であって、県内の石像彫刻が、線彫→浮彫→半肉彫→板彫、丸彫→肉彫と進化していく石像彫刻の進化過程を知る上から、県内では数少ない遺例の一つであり、板彫系統の初現的な石像の一例として注目すべき価値を有している。
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木造鍋島忠直坐像 一躯
重要文化財
鍋島家の菩提寺である高伝寺の本堂に安置されている鍋島忠直像は、冠まで含めての像高50センチメートルの衣冠姿の坐像で、玉眼嵌入、首及び両手首差込み、彩色が施された木像である。腰に刀を差し、左手は膝の上に軽くのばし、右手はわずかばかり指を屈して笏を操る態をなすが、笏は現存していない。 両眼を開き、口を結んだ顔容は静的で、左右へ大きくひるがえる両袖口は、沓をはいた両足を軽く組んだ安坐姿と相まって、安定感を与えている。この像は、袖の部分にいくつかの襞を表わしたのみの極めて簡潔に表現された肖像彫刻である。 鍋島忠直は、佐賀2代藩主光茂の父で、寛永12年(1635)わずか23才で早世した。側近に仕えていた江副金兵衛は、忠直の死後姿をくらまし、高野山にこもって一心に主君忠直の像を彫った。忠直の一周忌が催されているときこの像を持ち帰って、光茂に奉り、追腹を切った。 この江副金兵衛の殉死に直面した藩主光茂は、深く考えるところがあり、ついに寛文元年(1661)に追腹禁止令を領内に発布した。佐賀藩における追腹禁止令は、寛文3年(1663)に幕府が発布した殉死禁止令の先駆をなすものとして注目される。 江副金兵衛作の鍋島忠直像は、単なる肖像としてよりも、わが国における殉死禁止の要因をなすものとして、その歴史的価値が極めて高く評価されるものである。
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石造十六羅漢像並びに石造釈迦三尊像 付石造駒形標柱一九躯 付一一基
重要文化財
曹洞宗の岩松軒(がんしょうけん)の境内に、石造十六羅漢像と石造釈迦三尊像が安置されている。十六羅漢は、正法護持のために講じられた修業者の一群で、禅宗では修業の階程として羅漢を崇敬している。この十六羅漢は、釈迦如来の眷属(けんぞく)として表現されることが多いが、釈迦三尊を中心に安置されているこの岩松軒の十六羅漢もまたその一例である。 羅漢像は、すべて結跏、半跏倚坐等の坐像であって、像高50~80センチメートル、切石の台座に坐している。釈迦三尊像の中尊である釈迦如来は、両手を軽く組み蓮台上に結迦趺坐(けっかふざ)する坐像であって像高69センメートル、台座を含めての総高124センチメートルである。釈迦如来の脇侍である文珠及び普賢の両菩薩は、それぞれ獅子と象の上に半跏して座す。頭髪を垂れて宝冠をいただき、文珠は如意、普賢は経巻を執る。獅子や象を含めての像高は、ともに68センチメートルである。 十六羅漢及び釈迦三尊を合わせて19躯からなるこの群像は、その彫像技法などからみて、江戸時代の宝暦年問(1751~1761)前後の作であろうと推定されるが、肥前石造工芸の円熟期の所産として各尊像の個性をよく表現し、しかも群像としての全体調和をよく整えている点は、石造彫刻としてその価値が高い。しかも、いくらかの欠損の箇所はあるが、19躯の群像が一括して保存されている点もまたその価値を高めており、江戸時代における信仰史の上からも注目される文化遺産である。 各尊像の名称や寄進者等を刻した駒形標柱は、11基が残存するのみで、その大半は欠損している。高さ45センチメートル、幅15センチメートル余りの尖頭の方形石柱で、下部は生け込みとなっている。