実久(上町)分教場

  1. 建造物
  2. 学校
  3. 検索結果
  4. 実久(上町)分教場

実久(上町)分教場

  • 実久(上町)分教場
  • 実久(上町)分教場
  • 実久(上町)分教場

■所在地佐賀市東与賀町上町
■年代近代
■登録ID1114

本校の興文小学校が遠距離だったために、実久(上町)分教場が、明治22年設置された。通称を「実久分校」といい、その位置は現在の上町妙福寺の西南部で社頭氏宅のすぐ南側にあった。分校の面積は約5畝歩で教室は1棟の平屋建のかわらぶきで二教室と廊下である。教室の西側に続いて質素な職員室兼小使室の付属建物があった。この分教場の門札は、当時船津の医師故久納周甫が「実久分教場」と筆太に浄書したという伝承がある。
この分教場に学ぶ者は、本校への通学に遠い村内の立野・鍛冶屋・実久・船津・上町それに下古賀の一部の児童に限られた。しかも小学校1年生だけの男女約30名に過ぎず、2年生に進級すると本校へ登校するという制度であった。
表玄関は、北側にあって校舎の南側にはポプラの高い樹木が十数本も並び植えられて風致と共に暑い日の日陰や暴風の風よけともなった。運動場という名のつくものは教室の東側に僅かで、現在の若宮社の細長い参道や神前の広場がこの分教場児童たちの唯一の遊び場であり運動場でもあった。
この分教場で教育に携わる教師は毎年1名で多くは女教師が担任した。しかし、地域的に自宅の通勤上男教員もこの分校の担任になる事もあった。
当時の担任教師として次の先生方が想起される。
馬場 つし(立野)、村岡 新四郎(実久)、鶴 つい(上古賀)、川副 こま(下飯盛)、野田 しな(下飯盛)、丸山 秀一郎(船津)、石丸 つる(立野)、碇 フミエ(大野)。
この分教場も時代の流れに沿って、昭和4年度よりは廃校となった。したがって、明治22年に開設以来、この年まで満40年の歴史があり、ここで勉強した児童数も1.000名を超えている。この分校最後の担任教師は既に故人の村山ユキ先生で、最後の児童には下古賀の蒲原国雄・鍛冶屋の徳久タヨ子等がいる。

出典:東与賀町史P1168