北田

北田

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1469

 久保田駅の発展とともに歩む
 北田は、町の最北部で小城市三日月町との町境に接している。この付近は、以前は葦野であったといわれ、その葦野を切り開き入植したと伝えられている。嘉瀬川堤防の禅門井樋から西の福所江へ堤防が築かれていた。溝田重雄さんは、「久保田の殿様は、三日月村といざこざがないようにと久保田内に堤防を築いて、北田は捨地と呼ばれていた。と父から聞いたことがある」と話されている。この堤防は、三日月村の木嶋溝の堤防がよく切れて水害が起きていたので、久保田全土が水害を受けないように築かれたものだといわれる。中野善四郎さんは、「以前は、徳万町に住んでいたが、廃藩置県(明治3年)後に北田に移ってきたと祖母から聞いている」と話されている。名前の由来を知る人はいない。北田とは、久保田の北の方にある田圃という意味か?。以前は、現在の主要地方道佐賀外環状線(旧国道203号)より東を東北田、西を西北田と呼び、東北田に2軒と西北田に4〜5軒の民家があったといわれている。明治15年「佐賀県各町村字小名取調書」に、徳万村の小字として北田の記録がある。
 県道の設置は明治22年頃
 北田の東で三日月町側に3mぐらいの農道がある。この道は、三ヶ島の小学校前へ続いており、小城の殿様の鍋島本藩への登城道だったといわれていたが、曲がりくねって不便であったため、明治22年頃徳万から北田を通り、小城、唐津を経て呼子に至る県道(当時の通称は呼子県道、のちに国道203号)が開設された。この道路は、軍用道路を兼ねた産業道路として着工された。また、馬車や荷車の利用が増え、旧来の里道では狭隘になったため、明治33年頃大字三ヶ島から四条、久本を経て久保田停車場に至る里道の拡幅工事が三日月村の負担で行われている。そのころ山崎實さん宅東の架橋も、三日月村の負担で行われたという。北田踏切から西に200mぐらい行ったところの北田公民館前に、天満宮の石祠がある。この石祠には、大正13年10月25日と刻まれている。天満宮は、以前は主要地方道側の消防車庫がある場所にあったが、昭和38年頃の道路改修で現在地に移されている。その頃は、境内に10本ほどの桜があった。3月の花見ごろにはお籠があり、家々からご馳走を持ち寄って集まり、大変賑わったという。天満宮の祭は8月25日で、昭和35年頃は筑紫美主子さんの佐賀にわかの公演や映画などもあったことがある。
 明治29年久保田駅設置
 明治29年10月に、「佐賀には55連隊、松原神社、神野茶屋、久保田を北に乗り換えて、ゆけば鮎つる松浦川」と鉄道唱歌にも歌われた久保田駅が設置されている。この久保田駅の建設のための盛土は、王子製紙体育館東側の水路から土砂を採り盛土をしたといわれている。戦時中には、この駅から出征軍人の見送りや軍馬の積み出しが行われ、村内からも軍馬の徴発などもあった。駅では、明治・大正・昭和の始め頃まで駅弁とともに久保田菱が売られていた。久保田駅は、その後唐津線の分岐駅として乗り換え客が増え、駅前商店街が潤うことになる。集落の西に王子製紙佐賀工場がある。大正12年の創業当時は、西肥板紙株式会社と称した。昭和28年に創立30周年記念式典が挙行され、北田婦人会も道囃子などを踊り大変賑わっている。この工場は、名称変更など幾多の変遷を経て今日にいたっている。以前のこの集落には、旅館・豆腐屋・ガラス工場・弁当屋・飲食店・精米所・床屋・洋服屋・釣具店・パチンコ店・製材所・鋳物工場・瓦屋・鉄工所・石炭屋・饅頭屋・タクシー・また駅前には昭和10年頃まで人力車の小屋があり、4〜5人の車引さんもいた。北田は、久保田駅の設置で大繁栄をみせ、世帯数150戸を超える大集落と飛躍するが、車社会の進展に伴い無人駅となり、現在は世帯数も減少しつつある。

出典:久保田町史 p.747〜750