御厨 栄
御厨 栄
■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1479
明治15年〜明治40年(1882〜1907)官吏
久保田村上新ケ江、御厨卯兵衛の4男として出生。明治33年県立佐賀中学校(現佐賀西高校)を卒業。刻苦勉励し、翌年外務留学生試験に合格、オランダ留学を命ぜられ、横浜港より日本郵船の若狭丸にて渡航、着任地ハーグに到着。語学習得のためハーグの中学教師にオランダ語の文法・作文・会話を学ぶ。退役陸軍大尉方に止宿、朝夕夫妻の語学指導も受け語学の習得に励んだ。明治39年オランダ国在勤の外務書記生に任命される。翌年、第2回万国平和会議委員付きに任命される。同年6月よりハーグにおいて都筑馨六全権大使の下で翻訳に従事、苛酷なまでに多忙な日々であった。同年10月、肺結核のためブロノーヴォ病院に入院、外務省・大使館の手厚い配慮にもかかわらず容態は悪化12月6日同病院にて死去。ハーグ市内の墓地に埋葬。第2回万国平和会議の功労が認められ、勲八等瑞宝章に叙せられる。享年24歳。
御厨卯兵衛の3男袈裟一は、明治28年県立佐賀中学校を卒業、熊本高等学校を経て東京工科大学に入学、電気工学科を卒業した工学士である。長崎電灯会社で実習し、傍ら脊振の山を跋渉し広瀧川の水力を研究し、水力電気事業の設計をし卒業論文とした。その雄大にして緻密な理論・構想は多くの人々に示唆を与えたと思われる。その才能を将来に輝かす事無くこの世を去った。享年27歳 兄弟の墓碑は上新ケ江桂秀院の墓地にある。
出典:久保田町史 p.309