古賀 了
古賀 了
■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1483
明治37年〜平成9年(1904〜1997)政治家
久保田村久富において、古賀銀三郎の長男として出生。大正6年(1917)久保田村立新田尋常小学校卒業、旧制佐賀県立佐賀中学校入学。大正10年(1921)佐賀中学校4年修了、佐賀高等学校入学。大正13年(1924)佐賀高等学校卒業、東京帝国大学(経済学部)入学。昭和3年同校卒業、久留米歩兵第48連隊入隊。翌年除隊、農業に従事する。同7年佐賀県立佐賀図書館に勤務。この間、国際情勢は緊迫し満州事変・上海事変が勃発、同10年佐賀信用販売利用組合連合会勤務。同12年支那事変勃発、久留米歩兵第48連隊応召、召集解除後の同15年上海毎日新聞入社。翌年退社、株式会社丸善石油入社上海支店に勤務したのは昭和16年、日本が太平洋戦争に突入した年であった。昭和20年(1945)太平洋戦争終結。大陸雄飛の夢は消え、上海を引き上げ郷里久保田に帰り、食糧難と物資欠乏の厳しい中で農業に従事し、日本の将来について深く考えるところがあった。昭和22年久保田村農業会資産処理委員長・久保田村農協設立発起人代表就任。同23年久保田村農業協同組初代組合長就任。昭和26年(1951)推されて佐賀県経済連会長、同年佐賀県議会議員に当選。昭和33年佐賀県農協中央会会長・同拓殖農協連合会会長就任。翌年34年佐賀県農民政治連盟創立、会長に就任。既成政党の農政に飽き足らず、農民のための政策を樹立推進しようと旗幟を掲げ、堅い決意の下に発足した。この運動は九州は勿論のこと全国各地で組織化が進められ、昭和35年10月全国農政連盟結成。同年11月の衆議院議員選挙に佐賀県農政連から立候補した古賀了は、第1位で当選。農政代議士として国会での活躍が期待された。昭和35年(1960)国会において首班指名の際「古賀了」に1票を投じた話は後世に残るであろう。一方県経済連の再建、農協中央会の基礎作り、国・県と広範な重責を担った。昭和42年(1967)町制施行後初の町長選に立候補し当選。以後4期16年町政に尽力、その間、町内2農協の合併・圃場整備事業、庁舎建築等の大事業を完成し、昭和58年町長を勇退。勲三等瑞宝章、久保田町名誉町民、鑑真和上嘉瀬津上陸記念碑建立発起。全国・県町村会自治功労者受賞。享年93歳
出典:久保田町史 p.313〜314