千々岩 健六
千々岩 健六
■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1493
明治30年〜昭和52年(1898〜1977)鉄工業
久保田町北田において、鉄工場を営む父梅太郎の次男として出生。父梅太郎は商魂逞しく明治35年(1902)に福岡県豊前炭坑の傍らに鋳物工場を始め、明治41年(1908)久保田駅前に移転、工場を再開するが事故により早逝した。健六は20歳の若さで家業を継ぎ、叔父(忠次・熊六)が後見した。経営は順調で、大正12年の工業年鑑佐賀欄には、唐津の黒木、佐賀の真崎・千々岩鉄工場のみが記載されている。主な製品は炭坑機器、石油発動機、船舶部品(長崎造船所納品)などであった。大正11年西肥板紙株式会社設立時は、同工場の機械製作・裾付けに活躍した。太平洋戦争中は、航空機部品(ジュラルミン製)手榴弾等を製作し、軍需産業の一翼を担った。主な得意先は佐賀板紙・小城炭坑・岩屋炭坑であったが、昭和49年に廃業した。昭和26年村会議員に当選。妻キサとの間に5男2女の子宝に恵まれ、いずれも英才教育の道を歩ませ、小学校5年から旧制佐賀県立小城中学校(現小城高校)へ進学させた。長男健児は東京大学教授・日本機械学会会長・千葉工業大学教授を歴任、他の兄弟も国・県・大手会社の要職につき活躍する。本家は三男の三次が継ぐ。墓は三日月町の勝厳寺にある。享年79歳
出典:久保田町史 p.324〜p.325