島義勇の墓

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島義勇の墓

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■所在地佐賀市金立町大字金立1660
■登録ID1728

 島義勇は安政3年(1856)鍋島直正の命により蝦夷、樺太の原野を踏破して調査し、現在の札幌市街の建設を始め開発に貢献した。明治7年(1874)の佐賀戦争の中心人物として江藤新平とともによく知られている。義勇は憂国党と称する佐賀の不平士族の党首に推され、同年2月、大久保利通のひきいる政府軍と戦って敗れ島津久光を頼って薩摩に向かったが、鹿児島で捕えられ故郷に護送され、嘉瀬の刑場に露と消えた。島義勇の墓は来迎寺の山門入って左側にある。墓石の表に楽齊島府君之墓、裏に明治七年甲戌四月十二日卒行年五三歳と記してある。

出典:金立・久保泉地区文化財要覧p.16

島義勇(1822~1874)について
9歳で弘道館に入学し、その後、義祭同盟に参加、水戸学派の藤田東湖と親交を結んだ。藩主鍋島直正の外小姓となり、1856年に直正の命により1年半ほど蝦夷・樺太を探検し、1869年に直正が初代北海道開拓使長官となると、首席判官に任命された。
北海道の開拓を行い、札幌市街地建設に力を注ぎ、今の札幌の基礎を築いた。札幌大通公園は、その当時の都市計画の姿がそのまま残っている。また、札幌市役所のロビーにはその銅像がある。その後、侍従や秋田県令を務めた。1874年に帰郷し、憂国党の首領におされ、征韓党の江藤新平とともに佐賀戦争で敗れた。

出典:文化振興課提供

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