歩兵第55聯隊

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歩兵第55聯隊

■所在地佐賀市日の出1丁目
■登録ID1810

 明治41年10月より大正14年5月まで、佐賀には陸軍歩兵第55聯隊が配置されていた。
 今の国道263号線をはさみ東に兵舎、西に練兵場があった。その面積実に40町歩、東高木、八丁畷、下高木にまたがっていた。兵舎の敷地は現在の日の出1丁目の公務員宿舎、旭ヶ丘、市立若葉保育所、警察学校、国立病院のある所、練兵場は県営総合グラウンド、農林省農業土木試験場佐賀支場のある所である。
 土木試験場の敷地内には、国道に面し、55聯隊記念塔がある。
 「この記念塔は、主として55聯隊に在営した将兵に依って昭和29年に結成された55会の手によって、建設されたものである。ちなみに会長は元陸軍大尉、旧制佐賀高等学校教官であった、神野町在住の副島英彦氏である。」
さて、55聯隊の歴史を顧みると、聯隊の誕生は実に明治38年にさかのぼる。明治37、8年我が国は当時としては国の存亡をかけて大敵ロシヤと戦った。国を挙げて総動員の秋、明治38年4月17日、宇都宮第14師団、第28旅団の下に歩兵第55聯隊が編成された。初代聯隊長は東郷八郎左ヱ門、6月13日軍旗授与、じ来次のような軍歴を経過した。
歴代師、旅團長、聯隊長
     師團長   旅團長   聯隊長
第一代 土屋 光春 児玉 軍太 東郷八郎左ヱ門  明38・4・17就職
第二代 鮫島 重雄 今村 信敬 倉田 新七    明42・11・30
第三代 本村 有恒 堀内文次郎 渡辺小太郎    明45・1・19 大2・1・4死亡
第四代 大迫 尚道 武藤 信義 長堀均之助    大2・1・15
第五代 神尾 光臣 山田良三郎 古賀 義勇    大5・8・6
第六代 柴 勝三郎       坂本政右ヱ門   大9・7・20
第七代 高山 公道 渡辺  寿 佐々木久雄    大11・8・15
第八代 金谷 範三 大村 純英 須田  実    大12・8・6
第九代       中村四郎太 広瀬  猛
 五五聯隊は、大正14年からは、歩兵第四八聯隊の第3大隊が駐屯するに過ぎないことになった。然し第3大隊が久留米に移駐するに伴い、高射砲第4聯隊が設置されるようになった。佐賀県人会報という雑誌の、昭和10年10月号には同年7月30日に、このことが官報で発表されたと述べており、当時の古川県知事の喜びの談話が載せられている。高射砲第4聯隊のその後の経過は不明であるが、昭和18年4月、広島から電信第2聯隊が移駐して来て、部隊名は67部隊といい、部隊長は池田増雄大佐であった、(これは野口勘三郎翁記念碑落成式招待の来賓名簿で明らかである)、それが194補充部隊と変り、終戦当時まで続いた。最後の聯隊長は大田千太郎大佐であった。
 これより先、昭和12年支那事変ぼつ発するや、佐賀を中心に柳川兵團が編成され、なお又佐賀市郡中心に藤山部隊が置かれた。大正14年以来宮中に奉還されていた軍旗が、その藤山部隊の軍旗として下賜された。有名な杭州湾上陸に、勇名を馳せ後各地に転戦、広東作戦、バイヤス湾上陸コタバル上陸等、幾多の作戦に参加した後、光輝ある五五聯隊の軍旗も幾万の将兵と共に最後はビルマ戦線において玉砕したと伝えられる。
さて昭和20年終戦と同時に、陸軍省は廃止され、兵営も大蔵省所管となった。終戦直後軍政が施かれ一時米軍が進駐していた。軍政部の高級将校達は、市内の民間の高級住宅を接収し、兵員は此の兵舎に駐屯したのである。その間米軍の不法行為、脱走兵の悪戯などもちょいちょいあったそうである。米軍撤収後は、海外引揚者の県営の集団住宅に供せられ、協楽園と名づけられた。
 高木瀬村においても、元被服庫跡を授産場に充て高木瀬中学校を敷地内に建設した。協楽園駐在所、協楽園小学校も出来た。その他県の警察学校、農林省土木試験場、通産省石炭事務所、佐賀市消防署高木瀬出張所なども出来、練兵場は県の農業試験場となり、後総合運動場、射的場は金立開拓団として解放され、衛戌病院は国立佐賀病院となった。

※記念塔は2019年にSAGAサンライズパーク整備事業のため、総合体育館西駐車場へ移設している。

出典:高木瀬町史P96〜104

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