兵動氏と兵動八幡宮

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兵動氏と兵動八幡宮

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■所在地佐賀市大和町佐保
■年代中世
■登録ID2111

室町時代から近世にかけ旧川上村佐保に豪族がいた。
遠い先祖は藤原鎌足の流れを汲む藤原氏で、始め藤原姓を名乗っていたが正光の時から兵動姓になっている。正光の先祖に兵藤正経という者がいた。寛治元年(1087)11月14日、八幡太郎義家、新羅三郎義光兄弟が清原家衡、武衡を金沢柵(秋田県仙北部金沢町)に包囲し攻め落した。義家が飛ぶ雁の列が乱れるのを見て敵の伏兵を知り、危いところを免かれた話もこの時の事である。世にこの戦を後三年の役という。
 兵藤正経はこの時源義家軍の先手の将として戦功をたてたので、三河国渥美郡(愛知県)一円を賜わり、子孫代々この地を領して住んでいた。それから約100年後の治承4年(1180)、正経から5代目に当たる刑部太夫正職は平氏打倒の兵を挙げた源頼政の軍に従い、平清盛軍と戦って宇治山田の合戦で戦死した。正職の孫に当たる治部太夫正之は文治元年(1185)、頼朝の命を受け平氏を攻めた弟範頼の軍に従い生田(神戸市)で戦死した。
 兵動左衛門太夫正光は正之の10代目の子孫である。幼名を勘七郎といった。肥前国兵動家一統の祖といわれる人で、藤原姓を兵動姓に改めたのもこの人からである。
 永享2年(1430)、時の将軍足利義教の命を受け九州探題になった渋川満直に従ったのを機会に、肥前国佐保村(旧川上村佐保)に居を構えた。彼は武運を祈るため鎌倉八幡の神霊を勧請して当地にまつり兵動八幡と名付けた。所領石高は判明しないがここに住むこと14年間、文安元年(1444)この地で死んだ。
正光の孫左馬助正直は明応6年(1497)多久梶峰城で戦死し、正直の曽孫正貞は天文4年(1535
)筑後の原田秋月の軍が来襲した時、千葉氏に属して山内で戦い市の瀬で戦死した。
 正貞の曽孫正明は幼名を城太郎と称し、元亀元年(1570)芦刈の衆と戦い牛津で戦死した。その子右京太夫光明は佐保村、楢田村、池上村等90町余を領し龍造寺隆信に仕えていたが、天正12年(1584)3月24日島原攻めの時光明、光延、信光の親子3人とも戦死した。
 光明の末子政徳は小城1代藩主鍋島元茂に仕え、子孫もまた代々小城藩に仕えた。兵動八幡宮の例祭(旧暦11月3日)や社殿の修造等昔から兵動一族によって行われていて、後年正光追善のため一院を建立し正光院と名付けた。代々その菩提寺であったが維新以後になって廃寺となった。現存する八幡宮は天満宮と併祀され、鳥居には天明五年(1785)乙己天二月の刻銘がある。正光院の寺地がどこにあったか判明しないが、恐らく八幡宮南方墓地がそれではなかったろうか。墓地の1か所に寄せ墓があるが、正徳、享保、享和の年代銘が残る五輪塔や正光院住職の墓と思われる無縫塔が建っている。

出典:大和町史P170〜173

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