覚正寺
覚正寺
■所在地佐賀市大和町大字川上1739西山田
■年代近世
■登録ID2129
西山田地区の中程に浄土真宗本願寺派放光山覚正寺がある。開基は星野十三郎で仏門に入って法名を覚正といった。星野十三郎の先祖は筑後の国星野城主(福岡県八女市星野村)で、落城後佐賀に移り住み、十三郎の父は藩祖鍋島直茂に仕えていた。十三郎は初代藩主鍋島勝茂に仕え、本知行の外に36石の扶持(俸録)をもらった侍であった。十三郎が江戸で奉公していた時相撲取りと争い眼玉を損傷した。思うところあって家督を譲り、単身大阪に出て真宗寺の門に入り出家得度した。法名を覚正と改めた。慶長のころ帰国して佐保川島郷(旧川上村)大願寺村五社境内の傍らに一宇の草庵を建て念仏三昧の日を送った。慶長の末、第2世休玄の時西山田村氏神貴船明神の霊告に
「社地の左手に池あり、その辺りに寺を建て念仏をもって村民を済度すべし」とあったので、西山田に小庵を建て移り住んだ。現在「寺屋敷」という地名が残っている。元和の年(1615~1624)、本堂並びに鐘楼、太鼓楼等を建立し、寛文2年(1662)2月京都に上り、本願寺より本尊並びに寺号を受けて帰った。寺号は第1世覚正の法名をそのままとり覚正寺と名付けた。元禄10年(1697)2月、第3世李芳の時銅鐘を造り、寛延の年(1748~1751)佐賀藩主6代鍋島宗教から金光明経を下付されている。貞享のころ(1684~1688)は建物等はなはだしく破損していたのを修復したとある。
寺屋敷から現在地に移転したのは第6世の時で年代は不明だが、その後宝暦4年(1754)の出火、文政11年(1828)の台風によって建物や諸記録、什器、宝物等焼失又は破損し由緒は詳かでない。
当寺は昔から眼病の家伝薬を伝えて有名であった。それは開基星野十三郎が江戸表で眼玉を損傷した時、大久保加賀守の家来沢田某より眼療秘法の皆伝を受けたことが代々伝えられたためである。藩祖直茂の眼病を直し、寺地2反(20a)余の免地を受け、その後も佐賀藩主や小城藩主の眼病治療によって寺地1町5反(1.5ha)余を与えられている。(以上安政五年七月覚正寺由緒覚による)
出典:大和町史P.538〜540