孝行鮎
孝行鮎
■所在地佐賀市大和町
■登録ID2327
川上川の鮎は鍋島家の御進物用であったためこの辺での川漁は御法度で川目付という役人が厳しく見張っていた。ころは幕末、名君鍋島閑叟公の御治世の時である。佐嘉城下に奇怪な事件が突発した。所もあろうに佐嘉城の大手門に朝な朝な変な貼紙がしてある。その貼紙には文字は1字もなく、天秤の両端に人と鮎とがさがっており、鮎の方に天秤が傾いているという絵だけがかいてある。「一体、何というなぞじゃろうか。天秤の鮎の方が傾いているというからにゃ、人間の方より鮎が重かちゅうことじゃろうて……」と、寄るとさわるとこのうわさばかりである。自然に殿様の耳にも伝わってきた。ところが、さすがは名君、さては! と第六感にぴんときた。お気に入りの小姓に何事かをささやかれた。小姓は取りあえず汗馬にむちうって川上へやってきた。川上で小姓が聞き込んだのは以下の事であった。
4、5日ばかり前のこと、官人橋から半里(約2km)北へ行った中ノ原の若い百姓が都渡城の川岸の岩の上にうずくまってぼんやり川の面を見つめていた。川には1尺(約30cm)に近い大鮎が美しい銀鱗を光らせてぱちりと水をはねている。「ああ、あの鮎が1匹欲しいなあ。今生の思い出に1口でいいから鮎を食べたいという病父の願いがかなうんじゃが………というてあの御法度は破られず……」と思い悩んでいるところへ、これはまたどうしたことか4、5寸ばかりの鮎が1匹、どこでどうして傷付いたのか、目から、えらの所にかけ血にまみれて水面に白い腹を見せながら流れてきた。「おお、鮎、鮎じゃ、まだ死にきれず時々えらが動いている、天の恵みじゃ、拾って帰ろう」と夢中になって拾い上げた。と、その途端、いつの間に来ていたのか、ぐいと襟首をつかまれた。見ると意地悪と名うての川目付である。若者のいいわけを聞こうともせず、「この間からの鮎盗人は貴様じゃな」といいも終わらぬうちに白刃一閃、けさがけに切り下げてしまった。一部始終を聞いた殿様は再び小姓を遣わして、川目付の身辺を調べさせたところが川目付は「お役目大事と務めたばかりで、拙者の心境は明鏡止水、1点のやましいことはございません」と強弁し続けた。だが念のために小姓が台所の戸棚を見ると、そこにはみごとな大鮎が隠してあり、裏の畑の隅からは食い荒された鮎の骨がたくさん出てきたのでもう絶対絶命、その場で自害して果てた。こんな気の毒なことになったのもあの御法度があればこそだというので、閑叟公は川上川の川漁禁止をその日のうちに解いたという。
出典:大和町史P.660〜661