宝塔山・書きかけの題目
宝塔山・書きかけの題目
■所在地佐賀市大和町
■登録ID2330
文禄元年(1592)肥後熊本城の城主加藤清正が、名護屋の秀吉の本陣へかけつけて行く途中、都渡城にさしかかった時のことである。今まで勢よく走り続けていた馬が突如膝を折って動かなくなってしまった。清正は不思議に思ってあたりを見回わすと、そばの大岩壁に「南無妙法蓮」とお題目が彫りかけてある。日蓮の信奉者である清正は「これは?」と里人に尋ねると「これは日親という坊さんの書きかけのお題目で………」と次のように話してくれた。
祖師日蓮の覇気を受け継いだまだ若冠20歳の熱血僧日親が都を後にして日蓮宗鎮西大本山肥前国小城郡松尾山光勝寺に立ち寄ったのは応永32年(1425)も押し迫った12月27日のことであった。名にしおう火の国といえども、師走ともなれば寒さは厳しいもの、白雪をいただいた天山から吹き下す風は肌もつんざく程であった。しかし熱血僧日親には寒さや冷たさは何ともないようである。火を吐くような熱弁はいきおい他宗門への罵言ともなり権門をそしることもあった。「おのれ日親、他宗門を罵る外道奴」とか、「おのれ若僧、権門をそしる横道者」とか、日親への反感憎悪がついには白刃竹槍となってじりじりと彼の身辺に迫ってきた。三日月村(町)の袴田に住む犬山某とその一党に竹槍でねらわれたこともあり、捕われて生きながら石小詰めにされたこともあった。奇蹟的に命だけは助かったが、長崎では頭から焼け鍋をかぶせられたので「鍋かぶりの日親」と言いはやされた。やっとのことで川上に辿り着いた日親は、山にそそり立つ大岩壁に目をつけると、「そうだ、この大岩壁にありがたいお題目を彫りつけよう」と、大勇猛心を起こして「南無妙法」に続く「蓮」の字を彫りかけた時であった。日親をねらう刺客どもが早や身辺に迫ってきたと教えられ、追い立てられるようにしてその場を落ちていった。加藤清正は熱烈な日蓮宗の信者であったので、そのことの次第を聞いて大いに感激した。
「ありがたいお題目をこのままにしておくのはもったいない。あとはこの清正が……」と手馴れの槍先で一心不乱にあとをつけ足した。以後里人達はこれを「書きかけの題目」とか「槍先の題目」とか呼び、清正の馬にちなんでこの寺を「膝折坂の宝塔山」とも呼んでいる。
出典:大和町史P.663〜665