今山の戦
今山の戦
■所在地佐賀市大和町
■年代中世
■登録ID2339
元亀元年(1570)、龍造寺隆信は、来襲した豊後大友氏の軍勢を今山(佐賀市大和町)で破った。龍造寺隆信を一躍、戦国大名にのしあげた合戦である。また、鍋島信昌(のち佐賀藩祖鍋島直茂)の実力を大いに認めさせた戦いでもあった。佐賀の桶狭間とも称されている。元亀元年(1570)8月中旬になって大友宗麟は大友八郎親貞を総大将として包囲軍を統率させ、佐賀城総攻撃は8月20日(陽暦9月29日)と定まった。
佐賀城でもしばしばうって出て小ぜり合いがあり敵勢を撃退したが、19日佐賀城では最後の軍評定が行われた。開城説が多く、さすがの龍造寺隆信も止むなく筑後落ちを覚悟したかに見えたが、鍋島信昌(のち直茂)は九死一生の夜討ちを提唱した。成松信勝もこれに同意して、いよいよその夜龍造寺氏の運命をかけた夜襲を決行することになったという。
納富但島守に2千の兵を授け、ひそかに嘉瀬川を渡って下於保村に待機させ、御大将龍造寺隆信の千余騎は西高木に陣取った。信昌(直茂)は19日の酉刻(午後6時過ぎ)に城から西を指して馬を走らせていた。従う者は秀島淡路、成松刑部、倉町大隅、同近江、諸岡尾張、納富越中、石井伊豫、安住安藝、円城寺美濃らの勇士17騎で、今山夜襲の快報はたちまち各地に伝わって、城下、道祖元町の百武志摩守賢兼の手勢十余騎が加わり、鍋島村では成富甲斐守信種(茂安の父)、伊東兵部少輔家秀らが合流して、早くも二百余人となり、名も縁起のよい勝楽寺で、旗竿の竹を切って幸先を祝い、藤折村(三日月町藤織)では早手回しに信昌(直茂)から知らせてあった芦刈村の鴨打陸奥守胤忠の一隊、小城の今川から馳せ参じ、今山に着いた時には総勢七百余人に達した。中腹に深いがけがあるのを信昌(直茂)が真先に槍を突き立てて飛び越え、次々に向う岸に駈け上って8月20日夜明け前、どっとばかりに本陣に切込むと、不意を打たれて敵は敗亡、しかも宵のうちの大酒宴で酔眼もうろうとして、足元も定まらず、大将親貞の旗下も備えを立て直す暇もなく、押合いへし合い東へ東へとなだれて行く。立ち直った者も意気全く振わず、大将親貞はさすがに踏止って奮戦したが力及ばず、血路を開いて主従わずか4人で裏道伝いに遁れるところを成松信勝らが待ち伏せ、6人が同時に掛って討ち取り首級をあげた。
時に信昌(直茂)、親貞共に同年の33歳であった。
親貞が酒盛りをしていた場所は現在「酒盛り塚」として伝えられ、船塚古墳の東、新堤の西北を上る道路に接したなだらかな丘というから今の赤坂登り口、柑橘園一帯であろう。本陣斬り込みの合図に法螺貝や吊鐘を鳴らしたようで、これを合図に下於保に陣していた納富勢も鬨の声をあげて攻め入った。男女神社上段の鐘掛松も今は枯れて跡かたもない。信昌(直茂)は今山の敵をことごとく追い散らしたあと、龍造寺側の軍勢千余が豊後勢を攻め立てたので大友勢は東西南北に敗走し、田にすべり川に落ちて太刀を合わす者など1人もいなかったという。(「成松戦功略記」「肥陽軍記」「九州治乱記」による。)
出典:大和町史P212〜216