福満寺

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■所在地佐賀市北川副町大字江上345
■年代古代
■登録ID2343

【名称(山号)】護国長尾山福満密寺
【宗派】真言宗御室派
延暦23年(804)、伝教大師入唐に際して発願した寺と言われ、初め天台宗であったが、後に、真言宗御室派に属した。名前の由来は、長尾の鳥が、「福、福」と鳴いたことにちなんで付けられたと言う。
ご本尊は、最澄(伝教大師)が、沈香木をもって、薬師如来の木像を刻んで安置されたもので、日本七薬師像の1体であるが残念ながら火災にあって、重要文化財の指定がなされていない。
昔から、崇敬厚く、高倉院、亀山上皇、正親町院の勅願所となり、鎌倉時代になって、源頼朝、足利尊氏の当国における祈願所になり、北条時政の伽藍再興、足利直冬の山門建立、金堂補修が行なわれたが、その後、火災にあい、龍造寺、鍋島が共に再建して、寺領を与え、尊崇した。
この寺に伝わる室町末期から安土桃山期の作と推察される「紙本著色福満寺古図」には、足利直冬による補修後の七堂伽藍の配置が描かれ、境内8町1反歩、寺領計400町歩、坊官22人などの記載がある。
その境内は、東北の入口は、犬尾の疣地蔵、東は増田、南は川副町中古賀の「ヒャーランサン」、西は、南佐賀の古賀橋(ガランサンがあった所)、北西は、枝吉のバス停の所(以前、地蔵様が祀られていた)と、その広さが想像される。
毎年5月7日から15日まで、お経会(きょうえ)が行なわれ、県下から多くの参拝客が参詣に集まり、道端には出店が並んで、非常に賑やかであった。
後に、川上の実相院で始まったお経会に、参拝者が移ったりして、戦後は、昔ほどの賑合いはなく、日時も今は5月1日から5日までに変更されている。正月には、大般若さんが、第2日に行なわれている。お経会は、三界万霊の供養と参詣者の仏縁、塔婆供養も行なわれる。

出典:わが郷土北川副町の歴史p117

佐賀県重要文化財 紙本著色福満寺古図(1幅)について
佐賀市南東の平野部に、延暦23年(804)に入唐(にっとう)に際して最澄が開山したと伝える真言宗御室(おむろ)派護国長尾山福満密寺がある。
本図は、足利直冬(尊氏長子)が貞和年間(1345〜1350)に再興して以降の伽藍(がらん・寺院の建造物)を描いたものと伝える。
中央に七堂伽藍を描き、堀割を隔てて北に寺家・西福寺・種福寺、南に坊、東西に坊官町を配する。敷地面積は8町余と記される。
この伽藍には、桧皮葺(ひわだぶき)とはいえ、天台宗に特徴的な法華三味(ほっけざんまい)堂・護摩(ごま)堂・止観(しかん)堂を備え、僧侶の受戒(じゅかい)の場である戒壇(かいだん)院をもつ。
個々の建物は、おおむね本瓦葺か桧皮葺の入母屋造(いりおもやづく)りで、縁を備える。坊や坊官町・百姓町の建物は、藁葺の切妻造りである。
本図は、上下に2枚の紙を継いで縦130cm、横47.6cmとし、墨で輪郭を描起し、淡墨や丹(に)、緑青(ろくしょう)を平塗りする。
建物は、それぞれ異なった角度から描かれ、回廊は金堂四周の建造物に重ねて描かれる。講堂は、全体をほぼ正面からとらえながらも両翼に側面を描き、屋根には妻飾(つまかざり)を正面向きに表現する。
描線は、堀割以外は手書きとするが、細い線は波打ち、太い線は肥痩(ひそう)をもってうねる。平瓦の継目や松枝は筆を打ち込んでそのままねる。
 以上のような一定しない視点や筆の運びの硬さと奔放(ほんぽう)さ、松葉の平面的なとらえ方などから、本図は、室町時代末期から桃山時代にかけての製作になると考えられる。

出典:佐賀市の文化遺産(P86)

佐賀市重要文化財 長尾山年譜(5冊)について
『長尾山年譜』は、第1巻、第2巻、第3巻の上、第3巻の下、第4巻と区分され、全5冊からなっている。本年譜は「肥前之州、佐嘉県、河副江上、護国長尾山福満寺年譜序」より書きはじめてあり、当寺の開基の由来、各世代住持における出来事、皇室や武将との関係とその信仰状況、伽藍再建の模様、寺領及び寺有地の内容、各種の年間行事仏事法要などについて詳細に年代順にしたためてある。
本年譜には、各巻の巻末奥附に記録年号が奥書してあり、第1巻は「貞享三年九月初七夜染毫」とあるので貞享3年(1686)9月から、したためたものである。したがって、それ以前の開基より鎌倉、室町、桃山の各時代の年譜は、その当時、当寺に所蔵されていた各種旧記や文書、伝承によって記されたものであろう。
第2巻は、貞享3年(1686)9月に書かれたものを汚損甚だしかったために「享和元年夏五月住諦観識」として再写してある。したがって、最初に記録されてから150年後享和元年(1801)に再録されたものである。
第3巻の上は「貞享三丙寅十月二十一日書了」とあり、第3巻の下と第4巻は「貞享四年正月十三日書了」とあるので、2年にわたって記録された年譜である。

出典:佐賀市の文化遺産(P73)

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