雲叟公歌碑
雲叟公歌碑
■所在地佐賀市蓮池町城内
■年代現代
■登録ID248
昭和7年2月22日、廟行鎮の戦闘で我が身を肉弾として鉄条網と共に粉砕した、江下、北川、作江の3人は軍神爆弾三勇士として当時の国民を奮いたたせたが、その一人江下武二伍長は蓮池町(古賀)の出身であった。昭和9年2月22日、江下伍長顕彰会によって蓮池公園に十字鍬を杖に、廟行鎮の空をにらんだ江下伍長の銅像が建設された。終戦によって銅像は米軍を顧慮して取払われ(※1)、後に礎石のみが空しくそびえていた。その跡を如何にするかで色々と考えられたが、昭和33年にその礎石を利用して歌碑を作ることになり、蓮池中興の英主雲叟(8代直與)公の歌碑が4月6日建立された。
「のどかなる 春のすがたを 力なき 柳の糸に 見する朝風 雲叟」 (江下伍長の銅像は、三田川自衛隊の記念館に、現存している。)(※2)
※1佐賀市史第四巻p834によれば「戦局が悪化すると(中略)蓮池公園に建立したばかりの上海事変における「肉弾三勇士」の一人江下伍長の銅像も回収された」とあり、戦時中に供出されている。明確な供出年月日について、『佐賀県警察史下巻』(佐賀県警察史編さん委員会編、佐賀県警察本部刊行、1977年)によれば、昭和19年5月22日となっており、昭和19年5月22日付佐賀新聞2面記事には「銅像出陣」と題して、「二十二日午前十時から伍長の銅像前で当時ゆかりの深かった人々や町内会各種団体参列して盛大な壮行式を挙行する」とあり、この日に供出されたようである。
※2正しくは陸上自衛隊の目達原駐屯地で、銅像の原型となった石膏像が広報資料館に展示されている。
出典:芙蓉P.94