田中儀右衛門

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田中儀右衛門

■所在地佐賀市(日新)
■登録ID2588

  元治元年(1864)没
 久留米通町に生まれる。初め岩吉と称し、少年の頃より田中久重(近江)の門に入り、養われて久重の娘婿に、そして嗣子となり名を儀右衛門と改め、のちに重儀と称した。(なお、いわゆる、からくり儀右衛門は、義父の久重のことをいう) 儀右衛門は、技工に長じ、父久重の発明工夫を機械化するにあたっては、儀右衛門の功が多かった。
 嘉永5年(1852)久重が佐賀藩に招かれて、産業開発のための「精煉方」で働くことになったとき、彼も随って大砲、汽缶、汽船、電気等の製作に携わり、元治元年(1864)父久重が久留米藩に召しかかえられると、佐賀の方は儀右衛門が専任となり藩主に重用された。
 不幸にも、一藩士の突然の発狂により儀右衛門の長男岩太郎と共に、雷雨の夜、斬殺された。藩主直正は深くその最期を悼み、久重の同僚の中村奇輔の二男林太郎を養子として跡をつがせ士籍に列した。なお、儀右衛門の墓は天祐寺にある。

出典:日新読本p.184〜185