上揚の也足庵

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上揚の也足庵

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■所在地佐賀市久保泉町大字下和泉2807
■登録ID2912

皇位をめぐる南北朝の争いに続いて、将軍家の後継争いは、地方大名を巻き込み小豪族間の勢力争奪へと波及した。この時代を戦国時代と言う。勝つためには義理も人情も無い、嘘と欺き反逆に明け暮れ、肉身をも犠牲にし、上下の関係も薄らいだ時代である。
 肥前においても、藤原系を名乗る龍造寺・太宰の少弍・関東下向の千葉氏、北の松浦・波田、西の橘・後藤・大村、島原の有馬、それに加えて豊後の大友、南の菊池・島津、中国の大内、それ等をめぐる馬場・八戸・高木、蓮池の小田、神埼の本居・姉川、城原の江上、山内の神代の諸豪族間にも攻防斗争が続いた。
 隆信の曾祖父剛忠家兼が92才の天文14年=1545年、馬場頼周は謀を巡らし龍造寺を倒すため諸豪とはかり、城を渡し退去させ、剛忠の息子家純・家門・純家を川上淀姫社に招き、一方孫の六郎周家・三郎家泰・孫八郎頼純を城原勢福寺城へ誘い出した。各れも僅かな郎従を取囲んで急襲し全滅さした。正月23日のことである。
 このときの先鋒が、34才の神代勝利であった。これ以後神代と龍造寺は矛を交えること8回、4回は勝ったが4回は負け、最後は大友勢と共に今山で鍋島の夜襲を受け、惨敗した。
 さきの城原へ出向いた隆信の父周家等3人と郎従は、西郷の祗園原で討死し、ここ也足庵に葬られたが、明治4年本庄の高伝寺に合祀された。也足庵には小さな墓標が残されている。当時の也足庵の僧は、龍造寺の血統の者であった。
 也足庵は戦国中期の創建で、付近には玉泉坊を始め多くの寺社があった。現在は臨済禅寺で、南北朝期に数名の筆になった大般若経500余巻が写本として保存される。また脇仏には龍造寺家再建を祈願し、天文17年=1548作の木造達磨像があることでも有名である。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.16〜17

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