佐賀米穀取引所

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佐賀米穀取引所

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■所在地佐賀市
■年代近代
■登録ID473

 明治4年(1871)5月、政府はこれまでの米納制度を廃して、金納制度を実施すると、米穀の換金が急がれ、そのため米穀相場を建てる米穀市場の必要性が起こってきた。 佐賀でも明治6年に、正米市場の設立が認可され、二つの米穀市場が業務を行ったが、明治8年に両方の市場とも姿を消した。明治17年9月にも米商会所設立について討議されたこともあったが具体化するに至らなかった。明治20年(1887)8月3日『佐賀取引所設立願』が認可され、これが後年設立された佐賀米穀取引所の母体となった。直ちに設立総会を開き、馬責馬場の鍋島家所有地を借り受け、事務所、立会場を新築することになり、予定どおり明治21年(1888)9月1日に業務が開始された。
 明治26年(1893)3月、改正取引所法が公布されると、会員組織の取引所を解散し旧取引所を母体に、改めて明治27年(1894)11月に、資本金3万円の株式会社佐賀米穀取引所を設立した。最盛期の大正9年には売買総高1500余石、仲買人も設立時11人が限定人員の35人に達し、利益配当も年15割に及んだということである。
 取引所の立会方法は東京大阪の各取引と同じ競り売買で行われ、売買受渡し倉庫として、下今宿、厘外津、諸富、早津江、寺井、小城、牛津、鹿島、神埼、大川、柳川、久留米、博多、長崎等の倉庫が指定された。また、一説によれば、取引所の米穀物売買受渡銀行に、柳町にあった三省銀行が指定され、この思惑投機者への貸し出しが焦げついて、明治26年に同銀行は休業したといわれている。ところが、明治43年当時の同所理事長牟田萬次郎は、伊万里市生まれで鹿島の牟田家を継ぎ、22歳で県会議員に、また鹿島銀行の創立、『西海日報』の新聞発行、九州鉄道の創設、広滝水力電気株式会社の設立や牛津の肥前板紙、祐徳軌道、佐賀軌道の開通、佐賀綿ネル会社等々に尽力した佐賀実業界の大物であった。また、明治43年には福沢財閥の福沢桃介や、電気の鬼と言われた松永安左衛門等の協力を得て九州電気株式会社を創立しようと奔走し、九分どおり話がまとまり、将来は中央財界に乗り出す構想であったと言われていた。佐賀米穀取引所は、昭和14年取引所法が改められ、全国取引所が日本米穀会社に統合され、米価が一定値段に統制されたため、同年佐賀米穀取引所は解散するに至った。

出典:ふるさと循誘(P.85)

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