田代通英(孫三郎)

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田代通英(孫三郎)

■所在地佐賀市(日新)
■登録ID5099

 田代通英(通称・孫三郎)は、幕末の佐賀藩士である。弘化二年(1845)の『総着到』によると、佐賀城下鷹師小路居住、石高は十九石八斗であり、少録の下級武士であったようである。生年は明らかではないが、『早引』によれば、安政三年から五年(1856~58)の頃に「五十六歳」であったと記載されており、逆算すると寛政十二年(1800)頃の生まれであると考えられる。安政五年(1858)に、当時流行したコレラにより死去している。
 田代通英の業績として最も有名なのは、嘉永三年(1850)の、日本初の大反射炉である築地反射炉築造時の会計事務としての参画である。この反射炉は試行錯誤の末、嘉永五年(1852)に一基が完成し、この功により田代は所謂「御鋳立方の七賢人」に数えられている。その後、安政四年(1857)には、時の老中安部正弘の要請により、杉谷雍助と共に伊豆韮山反射炉築造に派遣されるなど、幕末の科学技術発展に貢献している。

出典:神野御茶屋御家作一件扣諸達書其外控解題

御鋳立方(おんいたてかた)の七賢人について
大銃(おおづつ)製造方で大砲製造に関わっていたのは蘭学者だけではなかった。製砲事業は、主任の本島藤太夫のもとで、杉谷雍助が翻訳したテキストに漢洋両学に通じた田中虎六郎が考察を加え、和算家の馬場栄作が推算して設計を行い、鋳造を鋳物師の谷口弥右衛門、鉄の溶解を刀工の橋本新左衛門が担当するというプロジェクトチームによって進められた。反射炉での鋳造は当初失敗が続いたが、それぞれの知識と経験を活かしながら試行を繰り返し、やがて良好な溶鉄が得られるようになり、ついで材料の鉄の質を改良して、破裂しない大砲をつくり出すことができるようになった。佐賀藩では、外来の知識と在来の技術に裏付けられた技能とが融合し、国内初の鉄製砲鋳造を実現したのである。上記6名に財政担当の田代孫三郎を加えて、世の人々は「御鋳立方七賢人」と呼んだという。

出典:近代化の軌跡(p46)