慶誾寺

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■所在地佐賀市本庄町大字鹿子27
■年代中世
■登録ID784

慶誾寺は曹洞宗で本尊は釈迦如来である。当寺はもと鍛冶屋村(東与賀町)にあって広厳山流長院と称していたのを、慶長3年(1598)慶誾尼によって現在地に移し、同5年3月慶誾尼が没したので、ここに葬り、般若山慶誾寺と改めた。
本寺には折本装の白地金字金剛般若波羅密多経が伝えられている。本経には見返し絵はないが、高麗時代至正27年(1367)の奥書があり、また李氏朝鮮と交渉のあった大内傘下の山口県長門市深川湯本にある曹洞宗瑞雲山大寧護国禅寺から、現在の慶誾寺に寄進されたとの銘文を有し、大変貴重な資料である。
慶誾尼は龍造寺隆信の母で、のち鍋島直茂の父清房に再嫁し、龍造寺、鍋島両家の間にあって強い発言力をもっていた。
当寺には維新前までは寺領80石の慶誾寺領があった。
天明年間の絵図によると、参道は南西の与賀里道より、両側に松並木が広麗な山門まで続いている。門前には下馬の制札が建っていた。(鹿子下の下馬の地蔵は、今も与賀里道の路傍にある。)
明治初年頃の排仏毀釈の折に、慶誾寺の表門は龍泰寺に移し、表門に安置されていた十六羅漢(木造)は東与賀町上古賀の栄蔵寺へ、また裏門は東与賀町飯盛の悟真寺へ、五百羅漢は北川副町の岩松軒へ移動した。
なお、慶誾尼の生前墓である逆修墓は高傳寺にあり、埋葬されている墓は慶誾寺にある。

出典:かたりべの里鹿子P.63 本荘の歴史P.77 ワークショップ中野和彦氏寄稿

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