福林寺

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■所在地佐賀市本庄町大字鹿子46
■年代中世
■登録ID790

山号は「心月山」。福林寺2世監翁菊公和尚{天文元年(1532)没}からの記録しかないため創建の時期は不詳。もともと天台宗で村岡一族の祈祷寺だったと推測される。
村岡家(村岡イソノ・東与賀町実久)所蔵の『村岡略系図』、『村岡家縁起絵巻』によると寺の側に村岡天満宮の存在と、この宮の座主を福林寺の和尚が務めていることが確認できる。もと相州鎌倉村岡郷の住人村岡氏が今川了俊に属し、鹿子村に住し与賀郷5人の郷長(むらおさ)の頭であった。龍造寺隆信らが一時期佐賀城を明け渡し、筑後に身を寄せていたが、天文22年(1553)、佐賀城奪還に際し、村岡はじめ郷長(むらおさ)たちが隆信らの無事帰還策の相談を村岡天満宮で行っている。これに福林寺3世・舊白壽光和尚{天正7年(1579)没}も参画、また、安全祈願を施すなど大きく寄与している。龍造寺隆信は、無事奪還に成功、これに対し村岡氏に恩賞を与えている。
龍造寺の家臣となった村岡十郎左衛門(小城・村岡の祖)は、島原沖田畷の戦い(1584)で隆信と共に戦死している。
天正末から慶長初め頃に慶誾寺3世文応全藝{慶長7年(1602)没}が当寺に入り開山となって曹洞宗慶誾寺の末寺とした。
平成9年に本堂を改修し、昔の面影は薄れた。唯一、須弥壇丸柱に取りつけてある獅子鼻の彫刻一対と、本堂上り口に吊るされた天明3年(1842)刻銘の鰐口が昔のまま残っている。
境内に享保2年(1717)の造立銘の単独地蔵(石工・富永正左衛門)と享保7年(1722)造立の六地蔵が祀られている。今も祈祷寺としてのイメージは消えず、近郷の妊婦が安産祈願に訪れている。

出典:かたりべの里鹿子P.73本荘の歴史P.83ワークショップ中野和彦氏寄稿

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