城まつり

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■所在地佐賀市三瀬村宿
■登録ID1287

新暦5月7日に宿地区住民の主催で、勝玉大明神の城まつりが行なわれる。勝玉大明神は戦国時代の名将、三瀬城主神代勝利を祀った神社である。この祭りのことを「ジョウ」と言って、古くから山内全域から参詣者が集まり、全村的に最も盛大な行事となっていた。
 この地区の城山には、天文・永禄年間、神代勝利の居城があった。肥前国誌には三瀬城のことを次のように記してある。
 「三瀬城は川上の北に在りて、北は北筑に界す。天文、永禄の間に神代大和守勝利の居城なり、如今城墟寂寞、山頂の廣袤凡そ三段歩ばかり、四方に高さ一間余の土手を巡らし、喬木鬱々として生い茂れり。
昔は堅固なる城楼高く天にそびえしならんも、何時しか其の形を滅して見るべきものなし。中央に一小石祠あり。其の扉を開けば勝玉大明神の金銘燦として輝くを見る。蓋し神代氏の霊を祭れる所なり。其の前に一本の大樹鬱蒼として天を凌げり。
土人之をヲモノ木と称す。勝利手植の樹と言い伝う。四方を望めば、東は金立山(金山のまちがい)、西は灰原山、北は三瀬峠、南は天山脊振の山脈起伏し、実に天然の陵地にして、所謂一夫之を守れば万夫も略し難き地なり。英雄の地をトする巧なる哉…云々」
 勝利は資性英邁、膽勇人にすぐれ、諸将は威服し、領民はその徳を慕ったといわれるので、後世の住民はその威徳を追憶し、郷民の誇り高き先賢として、また、村の守り神として、勝利公の霊を勝玉大明神と崇めて神社に祀り、城趾には祠をたてて文武両道の神と仰ぎ、子々孫々の繁栄を祈念したのであろう。
個人的な負担も意に介せず、古くから年々盛大な祭りを営んできたのである。
 祭りの日が近づくと、各家庭はそれぞれ、その準備で忙しい。地区では前日の5月6日に、地区民を公役として召集し、勝玉神社の清掃と城道作りを行ない、作業が終わると持参の酒肴を城跡の石のコクラ(石祠)に供え、各人それぞれに祈りをこめて参拝し、御神酒をいただいてかえる。
 各家庭では、来客用の御馳走つくりが大変である。来客の数も祭りが終わるまで予測するすべはない。祭りの当日は、招かれた客も、招かれざる客も、何ら区別することなく接待するのである。
山内各地から集まった参詣客は、各家々に気儘に立寄って酒食の饗応をうける。雑餉持参の必要もなく、飲み放題、食い放題で、全くの無礼講である。なかには酔漢の喧嘩まではじまることがしばしばであった。
また、宿地区には2軒の本式な旅人宿が古くからあったが、当日は何れも村内外からのお客で満員になり、三味線の音とともに大変なさわぎであった。
 
 いまから5、60年前頃までは、宿地区の中心を通る路傍(旧道)100mの位の間には、小間物屋・玩具屋・食べ物屋・ノゾキ店(レンズを通して絵物語りを語って見せる店)など、雑多の出店が延々とたちならび、なかなかの盛況であった。
 また、その間、祭りの余儀として「引き馬」の競技が行なわれた。これに参加するために近所近在から、自慢の悍馬が続々と到着した。馬の背に重荷を負わせて引きまわし、力くらべをするのである。当時最強の馬は米6俵を背につけて歩いたという。
 現在では往時の面影はなく、5月7日も静かな祭りと化し、酔客もまばらである。時勢の推移とは言いながら、往時をしのべば寂寥の感を禁じ得ない。

出典:三瀬村史p640